TBS成田事件

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TBS成田事件(ティービーエスなりたじけん)とは1968年(昭和43年)3月10日成田空港建設反対集会取材のさなか東京放送(TBS)のドキュメンタリー製作スタッフのマイクロバスプラカードを所持した集会参加者の反対同盟の農婦7人を乗せた事が発覚し、政府自民党から非難・圧力を受け、計8人が処分を受けた事件である。後のTBS闘争の原因の一つなった。単にTBS事件成田事件プラカード事件成田報道事件とも言われる。TBSで最も最初に発覚した不祥事である。

以下に記述されている役職は全て当時のものである。

事件の背景[編集]

1960年代後半頃より自民党(特にタカ派)は度々、TBSは左より偏向報道だと非難していた。特に1967年2月9日放映の『現在の主役 日の丸』、同年10月30日『ハノイ―田英夫の証言』が閣議で偏向報道であると問題視された。前者は日の丸について大勢の人に質問をぶつけるという内容で、後者は『JNNニュースコープ』ニュースキャスター・田英夫が日本のマスコミとして初めてベトナム戦争中の北ベトナムにレポートに行き、アメリカの報道が真実ではないとした告発した内容である。特に後者は放送8日後の11月7日今道潤三社長及び橋本博報道担当常務・島津国臣報道局長たちが長谷川峻の招きにより自民党本部に訪れ、田中角栄橋本登美三郎新谷寅三郎らとの懇談の中において『ハノイ―田英夫の証言』は偏向報道だと咎められてしまう。話の中で橋本登美三郎の「田をハノイにやれば、ああいう結果になるのは、分かっていたのではないか?」の発言に今道社長は「ニュースのあるところから、どこへでも人を出す」と強く反論し、その場を白けさせる一面もあった。その直後、自民党に呼ばれた事に今道社長は不服を唱えていた。しかし3月5日、テレビ報道局の萩元晴彦村木良彦の二人がそれぞれテレビニュース部・テレビ編成局編成部スタジオ課勤務への3月10日付の人事異動を発表。萩本は『日の丸』、村木は『ハノイ』のプロデューサーであった。そして成田事件後の記者会見においてで今道社長はTBSが報道偏向を認める発言を行うなど、懇談以後の社長の態度は島津報道局長曰く「変幻自在」なものとなってゆく。

事件の概要[編集]

成田空港建設に反対する三里塚芝山連合空港反対同盟の決起集会「成田空港反対3・10集会」が成田市営スタジアムに1968年(昭和43年)3月10日予定され、同盟側・警察側は万全の体制でその日に臨んでいた。またマスコミ各社も成田へと集まり、TBSもラジオ・テレビ両ニュース部が共同で万全の取材体制を敷いていた。そしてこの日、TBSテレビ報道部からドキュメンタリー製作取材のディレクター及びスタッフたちも訪れていた。

1968年3月7日、TBSのテレビ報道部製作のドキュメンタリー番組『カメラ・ルポタージュ』のディレクターであった宝官正章は番組会議で3月12日放送分の企画に成田における農民と学生との農学共闘について取材する「成田二十四時」を提出。この企画は本来予定されていた「沖縄もの」がビザ発行の遅れで製作が間に合わなかったため代替の企画としてされたものであり、タイムリーなネタとしてすぐさま採用。その日の内に宝官は成田へ向かった。

成田に着いた宝官は反対同盟の農民達に取材依頼を尋ねるものの、この時農民達はマスコミの取材は受けない方針を採っていたため、頑なに拒否される。3月8日報道部副部長から学生はやめて農民だけにしろとの通達が下る。その日、宝官は中核派にも取材も拒否され、唯一取材を許してくれたのが反対同盟石橋政次副委員長だけであった。宝官は石橋副委員長に取材を搾ることにする。3月9日にはテレビ報道部製作「ポーラ婦人ニュース」ディレクター簗瀬潮音・大原麗子(現:大原れいこ)が成田に到着。集会翌日の11日に放送分についての取材で、宝官と同じく成田闘争における農学共闘をテーマにした内容であったであった。

3月10日[編集]

3月10日午前8時、TBS取材スタッフは宿泊場所から出発。主だったニュース部のスタッフ達は集会予定地の市営球場近くにある洋裁店を借りた前線取材本部へ、「ルポタージュ」スタッフはマイクロバスで天神峰にある石橋宅へ向かう。大原・簗瀬以下「婦人ニュース」スタッフは前日、石橋の斡旋で紹介されて取材許可を得た農家の老人宅に向かったが、取材直前になって拒否されてしまう。仕方なく2人は石橋副委員長宅へ向かうことにする。午前10時頃、宝官は反対同盟の本部もある副委員長・石橋政次自宅で取材開始。しばらくすると簗瀬・大原の両名が到着、宝官は取材拒否の連絡を受ける。両名は宝官と共に石橋宅で取材を再開する。

午前11時半頃、石橋宅の広い庭に1台の小型トラックがたどり着き、農婦達が降りてきた。数分後、石橋副委員長が宝官の元へより、反対同盟の婦人たちをマイクロバスで集会会場まで運んで欲しいと語りだした。度重なる取材拒否に焦りを感じていた宝官はこの依頼を承諾する。多くの資料には反対集会にいるスタッフに昼食を届けるためのマイクロバスに便乗させたという説明であるが、この件について宝官は事件が大きくなった後の方便だと述べている。またやはり多くの資料にこの時バスに乗ったのは7人の農夫とあるが実際にはこの他3人ヘルメットを着けた若い男がいた。宝官は反戦青年委員会のカメラマンらしかったと回想している。バスには集会現場を見に行くため簗瀬・大原も搭乗。さすがに「便宜供与」がばれたらまずいと宝官は考え、そして石橋宅から集会会場までの道には2箇所の検問所が設置されているのを知っていたので、運転手に最初の検問所の手前で降ろすように伝えた。この時宝官は農婦達がプラカードを本部から持ち出し、バスに乗せたことに気づいてはいたがデモにプラカードは当然と思い、それ以上深くは考えなかった。

1つ目の検問所に訪れても社旗のつけたマイクロバスはチェックされることなく通過したが、2つ目の検問所に来た際にマイクロバスは機動隊に止められてしまう。正午過ぎのことであった。バスの中を見た機動隊員は反対同盟員を見咎める。そこでは機動隊員のみならず、他のマスコミもバスを囲んでいた。

簗瀬は車内を調べてもいい、と言い。バスに機動隊員が乗り込んできて捜索を開始。その時バスに乗っていた3人の若い男は機動隊員の横を通り過ぎそのままバスから降りてしまい、その場から離れていった。機動隊員がバスの中を調査していると、奥に置かれていたプラカードを発見。18本のプラカードが外に持ち出され、その内1本に「空港絶対反対、全学連」書かれていた。簗瀬はこれまでの経緯を説明、そして「副委員長に頼まれたことで他意はない」と主張。機動隊員は農婦達を乗せたことについて一応の納得をしたが、プラカードの輸送は認められず。警察側に一時預かりとなる。

プラカードについて検問記録では「プラカードが三派系の手にわたると、凶器としての角材になる危険性があるため、任意提出を求めてと領置(一時預かり)した。」と報告されている。検問所にいる間、幾度と反対同盟と機動隊の言い争いがあったものの、10分程度で検問所を通り過ぎ、市営グラウンド近くの十字路で7人を降ろした。

前線取材本部についた大原は宝官に事件の事柄を伝えると、すぐさま宝官が取材本部に訪れてきた。さらに知らせを聞いたテレビ報道局部長吉兼実ヘリコプターで飛んで来た。さらに千葉県警察本部刑事が訪問、外で集会の一斉検挙が行われる中で事情聴取が行われる。この時、宝官はマイクロバスを使用した理由に弁当を運ぶためと弁解する。吉兼は成田にいた他の新聞・テレビ局の取材スタッフに清酒を送り、プラカードの件について黙殺するよう根回しに奔走した。

その後も事件についてスタッフ間で話し合われたが、これといった善後策が出ることは無く終了し、宝官・簗瀬・大原は取材再開、3人は石橋宅に戻る。石橋副委員長はスタッフ達に申し訳ないことをしたと恐縮、簗瀬・大原に対して取材可能な農家を一件紹介する。宝官も石橋宅での取材を続け真夜中に取材を完了させる。

だが、この日自民党は国会議員を含む70名ものマスコミ監視団を成田に派遣し、TBS取材本部には8ミリの監視していたことをTBSのスタッフたちは気付いていなかった。

処分まで[編集]

3月11日前日の根回しにより、新聞・テレビ各社はTBSの行動について一切報道を行われなかった。しかし、午前の閣議において赤沢正道国家公安委員長が前日の成田の件について報告。閣議後郵政大臣小林武治が今道社長に電話、開口一番「お前は社長を辞めろ!」と言い放った事で知られる電話であったが、後の予算委員会での質疑応答において小林はTBSに圧力をかけたことについて否定している。[1]一方昼の『ポーラ婦人ニュース』では前日取材した内容が問題なく放送され、宝官は「成田二十四時」フィルム編集のためTBSへ午後に出社した。

3月12日郵政省電波管理局が調査という名目で警告を発する。それにより『カメラ・ルポタージュ』で放送予定されていた「成田二十四時」の放送を中止。急遽一年前放送された「67春・東京大学」に差し替えて放送した。この日、朝日読売毎日など主要新聞朝刊のテレビ欄には「成田二十四時」の番組紹介も記載されていた。視聴者から抗議の電話がTBSに多数届き、中止理由を「責任者病気」と答えていた。しかし、実際にはディレクターの宝官は昼に「自宅待機」に処せられていた。3月13日参議院自民党議員総務会で玉置和郎が成田でのTBSの行動に名指しで非難。「断固たる処置をとるべしと」と佐藤栄作首相へ申し入れる決議も行われた。3月15日、自民党機関紙『自由新報(現:自由民主)』にて「TBSが角材を運搬」と大々的な見出しを付けて「真実と公正な報道を使命とする報道機関が、事もあろうに全学連の凶器とする角材運搬に一役買い―」とTBSの取材活動を非難。3月19日事件の賞罰委員会が開かれる。3月22日に処分が発表。

処分は以下の通り

  • 宝官正章(報道局テレビ報道部ディレクター) - 無期限休職処分
  • 浜口浩三(報道局次長兼テレビニュース部長) - テレビニュース部長に
  • 島津国臣(報道局長) - 報道局次長に
  • 簗瀬潮音・大原麗子(両者報道局テレビ報道部ディレクター) - 譴責処分
  • 吉兼実(報道局テレビ報道部長) - 減棒1ヶ月
  • 宇野昭・松橋尚(両者報道局副部長) - 戒告処分

この処分について今道社長は事件について「不偏不党という会社の路線に反し」たので、報道機関として厳しい処分を行い、そして「政府その他外部からの干渉は一切ない」と述べた。それに対し労働組合は賞罰委員会の中で会社側は「一部から圧力があるのでやむをえまいということを何度もいっていた」と述べ、処分について「こうした圧力筋へ差し出すイケニエ」と見て、「処分撤回の闘いを進めていく」と語った。[2]

その後[編集]

3月25日報道局の集会において「報道局声明」を発表。この事件の経過の詳細な資料が添えられた声明は事件について「この種の不注意な行為によって、我々の正当な放送内容に疑念が持たれることは、報道機関の自殺行為というべきであろう」として報道に対する姿勢を厳しく律することを述べ、続けて「処分は常識的範囲をはるかに超えた過酷なもの」として受け止め「自由な報道活動への挑戦に対しては、結束して闘うことを改めて声明する」と会社上層部への警告をした。

さらにこの時、TBS・報道局間で別の問題が発生していた。先に述べた萩元晴彦村木良彦の人事異動を、報道局組合側が「懲罰人事」だとして人事の撤回を求めていた。そして3月27日JNNニュースコープ』の田英夫がキャスターを突然降板。田の突然の降板がきっかけに翌日28日に報道局組合員は「報道の自由は死んだ」との喪章を着け、TBS闘争と呼ばれる100日近くにわたる労働闘争が開始された。労働組合は萩元と村木の人事異動撤回、田の『ニュースコープ』への復帰、そして成田事件の処分撤回の三本柱を軸に闘争を進めていく。

4月12日に今道社長は「私の心境」と題するTBS従業員に対しての一文を社内で配る。その文の中で「成田事件に関して、政府や与党のなかで怒り騒いだということは知っている。しかし、それは私の悲痛なる処分の決定となんの関係があろう。私は外部と関係を絶って考えに考えたのだ。」と事件の処分に置いて圧力は無かったと再び強調。また5月2日に橋本博常務は報道局会で外部からの圧力について「圧力がかかったと思っている人がいるかもしれないが、会社は少しも圧力は感じていない」と述べた。

その後6月11日付けの宝官正章の処分撤回が発表されたが、それ以外は特筆すべき成果を挙げられぬまま闘争は終わりを迎えた。闘争中にマトモにその機能を発揮出来なかった報道部は8月29日に解体を発表、243人もの人事異動と根本的な構造改革が行われることになる。『ポーラ婦人ニュース』は低視聴率を理由に9月28日に打ち切り、その他『カメラ・ルポタージュ』等報道部が製作していた社会派ドキュメンタリー番組も打ち切りとなってゆく。

宝官正章はTBS闘争渦中の人であった萩元晴彦、村木良彦を含めた十数名とTBSを退社し彼らを中心とするメンバーと共にテレビマンユニオンを創立。TBS内では「宝官は出世を諦めてユニオンに行った」という陰口もあった。[3]その後一年おくれて大原も参加した。

事件を題材にした作品[編集]

  • 平田敬『小説TBS闘争』新潮社、1973年

TBS闘争を小説化した作品で、闘争のきっかけの1つとして成田事件が登場。人物名は実際の人物から変えられており、宝官正章は堀越勉となり、「成田24時」は「千丈ヶ原の春」に変えられている。

参考文献[編集]

  • 萩元晴彦、村木良彦、今野勉『お前はただの現在にすぎない』田畑書店、1969年
  • 東京放送編『TBS50年史』東京放送、2003年
  • メディア総合研究所編『放送中止事件50年―テレビは何を伝えることを拒んだか』花伝社、2005年
  • 「お蔵入り テレビ放送中止事件:2 戦後50年 TBS「成田24時」」朝日新聞1995年8月4日朝刊

脚注[編集]

  1. 第058回国会 予算委員会 第13号
  2. 『朝日新聞』3月24日朝刊、14頁
  3. テレビマンユニオン編『テレビマンユニオン史1970−2005』
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