高校野球

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春の選抜、夏の全国高等学校選手権大会の球場として知られる阪神甲子園球場
ファイル:High school baseball in Yokohama Stadium Japan 2007-4.jpg
2007年夏の全国高等学校選手権大会・神奈川県地区予選の高校球児

日本における高校野球とは、日本高等学校生徒中等教育学校の後期課程の生徒、高等専門学校の第1学年から第3学年の学生が行う野球のこと。

特に阪神甲子園球場で行われる二つの全国的な硬式野球大会は「甲子園大会」と呼ばれ、人気を博している。

なお、戦後の学制改革を経て継続しているため、旧学制による中等学校野球もこれに含まれる。同様に、旧学制による高等学校野球とは異なる(こちらは現在の大学野球)。

日本の高校野球の概観[編集]

以下、特記なき場合硬式野球に関する記述である。

主催[編集]

主催は、全国大会は日本高等学校野球連盟(高野連)と新聞社(選抜高等学校野球大会毎日新聞社全国高等学校野球選手権大会全国高等学校軟式野球選手権大会朝日新聞社)が行っている。 2010年より選抜の後援に朝日新聞社が、選手権(全国大会のみ)の後援に毎日新聞社が、完成以来両大会の会場を提供してきた阪神甲子園球場が「特別協力」として加わる[1][2][3]

この他、地方大会は各都道府県高等学校野球連盟など(夏の全国選手権出場校を決めるための地方大会は朝日新聞も)が主催する。

全国大会[編集]

毎年3月下旬から4月上旬にかけて開催される。秋季地区大会の成績などを参考に選抜された一般選考28校、特別選考の21世紀枠2校、希望枠1校、明治神宮枠1校の計32校で行われるトーナメント大会(明治神宮枠は獲得地区の一般枠を増枠する形となる。又2010年の第81回大会より希望枠を廃止し21世紀枠が3校になる。)地区大会の成績や選考次第では同一府県から2校以上の出場がかなう場合もある。(ただし一般枠のみで3校選出はしないこととなっており3校出場は21世紀枠を含めた場合の時可能である。)優勝校には大紫紺旗が贈られる。尚、2008年の第80回記念大会は一般選考30校、21世紀枠3校、希望枠1校、明治神宮枠2校の計36校で争われた。
毎年8月に開催される。各府県1校ずつ、北海道は南北海道・北北海道の2校、東京都は東東京・西東京の2校の合計49校によるトーナメント大会。6月中旬から7月下旬(雨天順延で8月にずれ込む場合もある)にかけて行われる地方大会を勝ちあがった学校が出場できる。
国民的行事と呼ばれ、ときに社会現象となるほどの盛り上がりを見せる学生スポーツ最大の大会である。優勝校には大深紅旗が贈られる。尚2008年の第90回記念大会は、1998年の第80回記念大会同様に従来の北海道と東京に加え、埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫の各府県からも2校ずつ代表校が決定され、計55校で争われた。
毎年8月、夏の甲子園終了後に兵庫県立明石公園第一野球場を主会場に開催される。ブロック(北海道、北東北、南東北、北関東、南関東、東京、北信越、東海、近畿、大阪、兵庫、東中国、西中国、四国、北部九州、南部九州)各1校、合計16校によるトーナメント大会。7月上旬から8月上旬にかけて行われる地方大会、ブロック大会を勝ち上がった学校が出場できる。
  • 国民体育大会(国体)・硬式の部 出場校数12、軟式の部 出場校数10
毎年10月に開催される。選手権で成績上位の高校から選考された11校(軟式は9校)と開催地枠1校によるトーナメント大会で、シーズン最後の全国大会。日程の余裕がないため、雨天中止が続いた場合には、ダブルヘッダーの実施や同時優勝になることもある(1979年は日程が消化できず、硬式の部ベスト4に残った4校が優勝校扱い。また、2008年はわずか2日しか試合が実施されなかったため、優勝校無しとなり、軟式の部は両校優勝となった)。
近年は国体の目玉種目となっており、2006年ののじぎく兵庫国体では会場の高砂市野球場に徹夜組が並び、2007年の秋田わか杉国体では会場のこまちスタジアムに高校野球としては球場史上最多の2万4000人が詰めかけた。公開競技であるため成績は天皇杯に加味されない。
毎年11月に開催される。秋季地区大会で優勝した10チームによるトーナメント大会で新チーム最初の全国大会。
出場校は各地区大会での優勝により翌年のセンバツ出場がほぼ確実になったチームばかりなので、センバツの前哨戦としての意味合いを持つ。同大会での優勝校所属地区は翌年のセンバツの出場枠を1つ多く獲得できる特典がある(明治神宮枠→但し2003年の34回大会以後)。なお、2007年の第37回大会では決勝進出の両地区に翌2008年のセンバツ出場枠が与えられた(記念大会のため)。
甲子園練習
春と夏の全国大会開幕前に、出場が決まった全代表チームの阪神甲子園球場での事前練習(通称:甲子園練習)が行われる。これは大会までに、甲子園のグラウンドの雰囲気を事前に確かめるという目的があり、大会開幕の概ね1週間前から順次行われる。1チームの割り当ては概ね30~50分程度。又一般客は球場のバックネット裏席に座り、無料で甲子園練習の風景を見る事が出来る。但し雨天等の場合は甲子園練習を中止、室内練習場での調整となる(この場合一般客は練習風景を見る事は出来ない)。
なお、夏の大会についてはプロ野球阪神タイガースの公式戦との日程調整の関係で午前中だけの開催となる場合がある。また、1998年第80回と2008年第90回の選手権記念大会では、それぞれ日程上の都合で甲子園練習が出来ず、施設見学のみが行われた。

地方大会[編集]

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試合後の審判団・対戦両チームによる挨拶風景・2007年の横浜スタジアム
  • 秋季都道府県大会
    • 新チームにとって最初の大きな公式戦である。地域によっては予めトーナメント方式やリーグ方式などで地域大会を行い、都道府県レベルの大会への出場校を決定する場合も多い。また秋季地方大会の前に新人大会を行い、秋季都道府県大会のシード校を決定する地域も見られる。成績優秀校は地区大会へ進出する。
  • 秋季地区大会
    • 北海道、東北、関東、東京、東海、北信越、近畿、中国、四国、九州の10地区でそれぞれ地区大会が開催される。東京地区が関東地区と別枠なのは、センバツの代表選考において、東京都は関東地方とは別枠で出場枠が与えられているためである。センバツの予選ではないが、この大会の成績が翌年のセンバツ出場校選考の際、非常に重要な資料となる。尚、この大会は明治神宮野球大会の予選を兼ねており、各地区大会優勝校が神宮大会出場権を獲得する。
  • 春季都道府県大会
    • 一冬越えたチームの力試しとなる公式戦である。成績優秀校は春季地区大会へ進出する。この大会の成績を基に夏の大会のシード校を決定する地域も多い。特に四国、九州のセンバツ大会出場校は日程的な問題で出場せず、チャレンジマッチ(都道府県大会優勝校との春季地区大会出場(順位)決定戦)のみの出場や、予選免除で地区大会に出場する場合がある。
  • 春季地区大会
    • 北海道、東北、関東、東海、北信越、近畿、中国、九州の9地区でそれぞれ地区大会が開催される。甲子園には直結しない大会である。
  • 選手権大会地方予選(夏季都道府県大会)
    • 毎年6月中旬から7月にかけて開催され、優勝校は夏の甲子園に出場できる。3年生にとってこの大会で敗退することは夏の終わりを意味する。この大会で敗退したチームは世代交代が行われ、再び秋の大会へ向けて新チームが始動することとなる。

その他にも新人大会や1年生大会、地域リーグ、地方杯がある。通常、新入学生(1年生)の選手は夏の大会のみしか出場できない(春の大会は新学期の2年生、3年生の選手のみとなる)ため、甲子園出場のチャンスは3年間で最大5回になる。

エピソード[編集]

海外領土からの参加[編集]

戦前は日本領である台湾朝鮮満州租借地といった外地の学校も、予選および全国大会に参加していた(春は台湾のみの参加)。1921年の夏の第7回大会に釜山商(今の釜慶(プギョン)高等学校)(朝鮮)、大連商が外地の学校として初出場をした。準優勝したこともあった。戦後は日本領ではなくなったため、参加がなくなった。

これまでの海外勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1926年 夏・第12回 大連商 準優勝 1-2 静岡中(静岡)
1931年 夏・第17回 嘉義農林(台湾) 準優勝 0-4 中京商(愛知)

大学野球経験者の出場・19歳の出場[編集]

大会初期の頃、大学野球経験者が高校野球全国大会(当時は中学野球)に出場することがあった。 1918年、全国大会に出場した慶應普通部(東京)の山口昇は、慶應義塾大の選手として大学野球経験があった。山口は全国大会出場時は中学5年だったが、当時の大学野球の規約では系列校であれば大学生でなくても大学野球に出場できたため、このような現象が起こった。

また、1920年、全国大会に出場した豊国中(福岡)の小方二十世は、出場時は19歳であり、法政大の選手として大学野球経験があった。当時の中学野球の規約では選手の年齢制限はなく、在籍生を学校長が代表選手と認めればどんな選手でも出場できたため、このような現象が起こった。

1922年に選手年齢制限や転校後2学期以上の出場停止にするなどの規約改正を行い、以降は基本的には大学野球経験者が出場することはなくなった。

しかし、規約改正以降も年齢制限を超えながら出場特例が認められ、甲子園に出場した選手が何人かいる。1956年の夏大会で甲子園に出場した米子東(鳥取)の長島康夫は、外地からの引き揚げのため大会出場時には19歳になっていたが、高野連は事情を考慮して、予選1ヶ月前に特例を設けて長島の出場を許可している。その後、中学卒業後に1年以上何らかの事情で高校に進学できなかった選手に関しては、満19歳以下でも出場資格が得られる規則になっている。1999年の春大会で甲子園に出場した明徳義塾(高知)の森岡エーデル次郎は、帰国子女のため学年がずれ、大会出場時には19歳になっていたが、特例が認められ出場した。

規約では、高野連に部員登録をしたことがある生徒が、家族を伴う引っ越しなど正当な理由なく転校した場合、新たな学校への転入の日から1年間は公式戦に選手登録することができない。部員登録をしたことがあっても、中退・再入試を経て別の学校に入学すれば、公式戦に出場できる。ただしこの措置は、公式戦における通常(3年夏まで)の選手登録を保証するものではない(例えば1年の途中で中退し、翌年度別の学校に入学すると、3年の選抜大会に出場しない限り2年秋までしか選手登録はできない)。同様に、同じ学校内で軟式から硬式、硬式から軟式への転部した場合も、1年間公式戦に選手登録できない。ただし、部員不足の部の救済などの場合を除く。

甲子園6回以上出場[編集]

現在、一人の選手が甲子園に出場できるのは最大5回までである。しかし、学制改革前は旧制中学が5年制のため、6回以上甲子園に出場することが可能であり、理論上は一人の選手が9回出場することが可能だった。なお、実際には一人の選手による最多出場回数は8回だった。学制改革後に、5回すべてに出場した選手は清原和博荒木大輔桑田真澄小沢章一、梅田大喜、鶴川将吾等がいる。そのうち全大会でホームランを打った選手は、清原のみである。

甲子園の土[編集]

以前は淡路島の土などを使っていたが「土の色とボールの色が似ててボールが見づらい」との理由で現在ではボールが見えやすいように国内の黒土と中国福建省の白砂を混ぜた物を使っているという[4]

最初の持ち帰りとそれからの話
  • 1937年の夏の大会で、熊本工(熊本)は決勝戦で敗れて準優勝に終わった。決勝戦終了後に、熊本工の投手だった川上哲治は甲子園の土をユニフォームのポケットに入れた。
  • また、1946年第28回大会では、準決勝にてその年の優勝校・浪華商業に敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の佐々木迪夫監督が、「さあ、5年生(最上級生)はいいから、他は自分のポジションへ行って土を取ってこい。来年、またここへ返しに来よう」と言い、選手(竹田晃)らが各ポジションの土を手ぬぐいに包んで持ち帰った。これが、現在のように夏の甲子園で敗れたチームの選手らが集団で甲子園の土を持ち帰る、という風習の起こりである。[5]
  • その後、1949年の夏の大会で、小倉(福岡)が準々決勝で倉敷工(岡山)に負けた後、小倉の投手だった福島一雄が甲子園の土を拾って地元に持ち帰った。

以降、高校球児たちの憧れである夏の甲子園への出場の記念として、戦いに敗れた高校球児が試合後に甲子園の土を拾って持ち帰ることが伝統となった。

アメリカ統治下の沖縄の高校の話

1958年、沖縄はアメリカ統治下にあった。その夏の大会で、春夏を通じて初めて沖縄から首里が出場。1回戦で敦賀(福井)に敗戦し、試合終了後に甲子園の土を拾った。

しかし、検疫の関係で沖縄に持ち帰ることができず、帰郷後処分されたという。外国の土・動植物を検疫を経ずに持ち込む事はどこの国でも法で禁じられているが、沖縄以外のもの(外国や日本本土も含めて)という理由での処分にも関わらず、那覇港の沿岸に捨てられている。なお、那覇港にてアメリカ人職員が高圧的に没収したわけではなく、沖縄の係官が申し訳なさそうに「規則なので…」といった感じでの没収だったため、申し出ずに土を持ちかえった高校生もいたという。

それを知った日本航空客室乗務員有志らが、球場周辺にあった海岸の石を拾い首里に寄贈。同校庭に、今も甲子園初出場を記念した「友愛の碑」というモニュメントとして飾られている。また、これがメディアで扱われ、沖縄返還運動を加速させる一端ともなったという。(出典:『世界飛び地大全』)

地方大会での甲子園球場の使用[編集]

兵庫県大会や近畿大会では、阪神甲子園球場を使用することがあるため、全国大会未経験でも、甲子園の土を踏んだ高校球児が存在する。

甲子園球場が完成した1924年から地方大会に使用されており、兵庫県の球児は本大会より一足先に完成されたばかりの甲子園球場の感触を味わっていた。その後も兵庫県内の球場事情や立地が重なり、たびたび甲子園球場が使用されていた。平成になってからは地方大会で使用されることは少なくなったが、現在でも使用されることがある。

勝利校の校歌演奏(斉唱)と校旗掲揚[編集]

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神奈川県地区予選・試合後の勝利校の校歌演奏風景・2007年の横浜スタジアム

試合で勝負を決した後、勝利校の校歌演奏と校旗掲揚が行われている。 これを発案したのは、毎日新聞大阪本社の記者だった人見絹枝である。人見は1928年アムステルダムオリンピックの女子800mに出場し、日本女子陸上初となる銀メダルを獲得した。オリンピックの各競技表彰式では金メダル選手の国の国歌が流れ、上位3位までの選手の国旗が掲揚される。人見はこの体験を元に発案した。なお、人見は他に、開会式での「校名プラカードを先頭に入場行進」という形式も同時に発案している。

勝利校の校歌演奏と校旗掲揚は、1929年の春の第6回大会から始められた。最初に校歌演奏と校旗掲揚を行ったのは、八尾中(大阪)だった。当初は生演奏で行われていたが、現在はテープを流している。

夏の大会での勝利校の校歌演奏と校旗掲揚は、春の大会より28年遅れて、1957年の第39回大会から始められた。最初に校歌演奏と校旗掲揚を行ったのは、坂出商(香川)だった。

春、夏、秋の地方大会では、校歌演奏(斉唱)のある地区とない地区に分かれる。

雨天コールドで勝利した場合、雨に濡れた選手や応援団の体調を考慮し、校歌演奏を省略することがある。例としては、1988年夏1回戦勝利の滝川二(兵庫・対高田戦)や1993年夏2回戦勝利の鹿児島商工(鹿児島・対堀越戦)がある。また引き分け再試合が決まったときは両校の校歌は演奏されない。

前述のとおり、試合に勝たなければ校歌を聞くことは出来ないが、甲子園大会の初戦(夏の開幕戦勝者と春の記念大会における1回戦勝者は2戦目も)に限り、2回表・裏の攻撃前に両校の校歌が流れる。

なお、夏の大会では校歌演奏なのに対し、春の大会では校歌斉唱とアナウンスされる。夏の大会は主催者が制作した独唱テープを用いるが、春の大会は各校持ち寄りのテープを流しているため、春夏連続で甲子園出場すると、春と夏では前奏やテンポなどが異なる。このことを知らない学校関係者やマスコミも多いようで、2007年8月21日付の日刊ゲンダイでは、同年夏に甲子園に初出場した楊志館OBの「本来女性ボーカルでポップス調の校歌が無断で軍歌調にアレンジされた」という旨の意見とともに、「前例の無い女性ボーカルだったからではないか」という見解を「大会関係者」(同紙に多く見られる表現であり、実際の関係者ではない可能性が大きい)の声として掲載し、高野連に批判的な論調で締めている。無論これらは事実誤認であり、選抜大会では女性ボーカルの校歌を流す学校も多く存在する。

夏の大会では校歌をもたない学校が勝利した場合、栄冠は君に輝くが校歌代わりとなる。駒大苫小牧など、大学の系列校で高校独自の校歌が未制定である場合、所属する大学の校歌が演奏されることがある。例えば勘違いされるものとして早稲田実業=都の西北と思っている人が少なくない(正しくは「都のいぬい・・・」)。また同じく独自の校歌を持たない天理の場合は「天理教青年会歌」が演奏される。

校歌が一定の長さ以上の場合、省略したものを用いたり、省略を要請したりする場合がある。最近では2004年春の済美、2004年夏の千葉経大付などが該当する。2003年春の横浜は初戦で担当者のミスにより校歌が省略され、2戦目以降修正された。

1992年の明徳義塾対星陵の試合では当時星陵の4番だった松井秀喜選手に対する5打席連続敬遠事件が起きた。明徳義塾は勝利を収めたものの試合内容に納得しない観客は明徳義塾高校の校歌斉唱中にもかかわらず『帰れ』コールやブーイングを起こしたため校歌がかき消されまったく聞き取れない状況に陥った。

春優勝校と夏優勝校の決戦試合[編集]

高校野球の全国大会は春と夏で年2回あるが、両大会の優勝校同士による決戦試合が1回行われたことがある。

1927年、春優勝校は和歌山中(和歌山)で夏優勝校は高松商(香川)だったが、「真の日本一を決めよう」という声があがり、同年11月6日に大阪の寝屋川球場で両校による決戦試合が行われた。この試合は7対4で高松商が和歌山中に勝利した。

全国大会出場辞退[編集]

過去には、全国大会出場を決めた学校に不祥事が発生すると、その学校が出場辞退を強いられた。たとえ、不祥事を起こした者が野球部員でなくても、連帯責任として野球部の全国大会出場に影響を及ぼした。日本学生野球憲章の第20条に基づくものであくまで自主的に辞退するものとされているが、実質的には出場権の剥奪である。しかし、最近の高野連は野球部員以外の不祥事には、連帯責任を負わないとしている。次第に連帯責任を問わなくなってきた一例として、2008年、選手権大会開幕前に発覚した桐生第一の部員逮捕の一件に関して、高野連は出場を認める判断を下した。 高野連の規定では、2003年までは「3年生の11月末日をもって部員登録を抹消」としていたが、2004年に「退部しない限り卒業日(3月31日(厳密には4月1日))までは野球部員」と改正された。

今までの全国大会(選手権・選抜)出場辞退校(春は推薦辞退を含む)
開催年 大会 学校 辞退理由
1935年 春・第12回 浪華商(大阪) 系列校にからむ刑事事件
1939年 夏・第25回 帝京商(東京) 部員の出場資格問題
1939年 夏・第25回 日大三(東京) 部員の出場資格問題
1952年 春・第24回 門司東(福岡) 部員の試験免除
1958年 春・第30回 浪華商(大阪) 在校生の恐喝事件
1965年 春・第37回 高知商(高知) 部員の暴力事件
1967年 春・第39回 津山商(岡山) 元部員の暴力事件
1971年 春・第43回 北海(北海道) 在校生の暴力事件
1971年 春・第43回 三田学園(兵庫) 在校生の暴力事件
1971年 春・第43回 市和歌山商(和歌山) 在校生の暴力事件
1971年 春・第43回 南部(和歌山) 在校生の暴力事件
1975年 春・第47回 門司工(福岡) 在校生の暴力未遂
1984年 春・第56回 池田(徳島) 部員の飲酒運転事故
1984年 春・第56回 函館大有斗(北海道) 部員のひき逃げ事故
1985年 春・第57回 明徳義塾(高知) 部長の売春斡旋事件
1987年 春・第59回 東海大浦安(千葉) 部員の暴力事件
1989年 春・第61回 岩倉(東京) 指導者の暴力事件
1992年 春・第64回 上宮(大阪) 元監督の在校生への暴力事件
1992年 春・第64回 神戸弘陵(兵庫) 部員の喫煙
2000年 春・第72回 敦賀気比(福井) 部員の無免許・飲酒運転事故
2002年 春・第74回 仙台育英(宮城) 部員の部内暴力
2005年 夏・第87回 明徳義塾(高知) 部員の暴力事件・喫煙
2006年 春・第78回 駒大苫小牧(北海道) 部員の飲酒・喫煙

太字は後に全国大会に出場していない高校

春夏連覇・夏春連覇[編集]

春の選抜大会で優勝した年の夏の全国大会で優勝することを春夏連覇という。また、夏の全国大会で優勝した翌年の春の選抜大会で優勝することを夏春連覇という。春夏連覇や夏春連覇をすると、優勝校には2つの優勝旗が同時期に置かれることになる。過去に9例がある。 → 甲子園連覇

初出場・初優勝[編集]

初出場・初優勝
開催年 大会 学校 備考
1915年 夏・1回 京都二中(京都)
1916年 夏・2回 慶應普通部(東京)
1917年 夏・3回 愛知一中(愛知)
1919年 夏・5回 神戸一中(兵庫)
1923年 夏・9回 甲陽中(兵庫) ここまでセンバツ開始前
1924年 春・1回 高松商(香川)
1934年 春・9回 東邦商(愛知) 春夏通じて初出場
1936年 夏・22回 岐阜商(岐阜)
1949年 夏・31回 湘南(神奈川) 春夏通じて初出場
1950年 春・22回 韮山(静岡) 春夏通じて初出場
1953年 春・25回 洲本(兵庫) 春夏通じて初出場
1954年 春・26回 飯田長姫(長野)
1955年 夏・37回 四日市(三重)
1961年 春・33回 法政二(神奈川)
1964年 春・36回 徳島海南(徳島) 春夏通じて初出場
1965年 夏・47回 三池工(福岡) 春夏通じて初出場
1967年 春・39回 津久見(大分)
1968年 春・40回 大宮工(埼玉) 春夏通じて初出場
1968年 夏・50回 興國(大阪)
1971年 夏・53回 桐蔭学園(神奈川) 春夏通じて初出場
1972年 春・44回 日大桜丘(東京) 春夏通じて初出場
1973年 春・45回 横浜(神奈川)
1976年 春・48回 崇徳(広島)
1976年 夏・58回 桜美林(東京)
1984年 春・56回 岩倉(東京) 春夏通じて初出場
1985年 春・57回 伊野商(高知) 春夏通じて初出場
1988年 春・60回 宇和島東(愛媛)
1991年 夏・73回 大阪桐蔭(大阪)
1995年 春・67回 観音寺中央(香川) 春夏通じて初出場
2004年 春・76回 済美(愛媛) 春夏通じて初出場・史上最短の創部3年目

上甲正典監督は宇和島東時代に続いて2度目の初出場・初優勝達成

夏の甲子園専門[編集]

夏の大会から10年後に春の大会が始まった。回を重ねるごとに春夏の甲子園出場の高校が増えてくる一方で、夏の甲子園しか出場できていない高校もある。岩手県福岡高校は、1927年夏に甲子園へ初出場を決め、1985年の夏まで10度甲子園に出場し8強入りも2度あるが、なぜか春の甲子園には一度も出場していない(昭和3年と4年には選抜されたが予算不足で辞退)。原則1府県1校の夏と違い、春は1地区2、3校と甲子園の出場枠が狭い。夏の甲子園に2ケタ以上の出場経験があり春出場なしというのは福岡高校の1校しかない(戦前は満州・朝鮮・台湾からも出場があり、満州の大連商業が夏12回出場し準優勝もありながら、春の出場がないという例がある)。

夏の出場回数のほうが極端に多い高校は他にもあり、青森の青森山田は夏は2004年から2009年までの6年連続で出場し、計10回出場して11勝をあげているが、春の出場は2005年の1回のみで、その大会は初戦敗退に終わったため春は未勝利である。2ケタ以上の勝利がありながら春の勝利がないのは青森山田の1校だけである。また同じく青森の光星学院は春夏それぞれ4回ずつ出場経験があるが、夏は4強入りが1度、8強入りが2度の8勝をあげているのに対し、春は1勝もしていない。

主に夏に強い学校を「夏将軍」「夏の○○」と呼ぶ。京都の龍谷大平安(旧平安)、広島の広島商、愛媛の松山商などが代表例である。松山商は甲子園通算80勝のうち4分の3の60勝が夏の勝利である。平安は夏の大会では優勝が3回、準優勝が4回あるが、春はベスト4が最高で決勝進出の経験はない。

春の甲子園専門[編集]

春の出場のみという高校は、甲子園の出場回数は最高でも4回である。東京の二松学舎大付、兵庫の三田学園、福岡の博多工がそれぞれ4度春の大会に出場しているが夏の出場はない。その中でも二松学舎大付は春は準優勝の経験がありながら、夏は東京大会・東東京大会の決勝で9回敗れており夏の甲子園への出場はない。かつて春に7回出場し、夏出場が無かった東京の国士舘は2005年夏に初出場した。ただし、和歌山の海南(旧海南中、春14回・夏4回)や大阪の上宮(春8回・夏1回)のように、春の出場回数のほうが極端に多い学校は出場枠の多い大都市圏を中心に多数存在する。例えば東海大相模(神奈川)は、2000年のセンバツで全国制覇したほか、'92(準優勝)、'95、'05、'06と、近年もセンバツで好成績を残しているが、夏の甲子園は1977年以来出場できていない。大都市圏の学校にこのような傾向があるのは、地方大会でのトーナメント制(ハイレベル激戦区での一校勝ち残り)の難しさを物語っている。

春夏両方の出場経験はあるが、勝利したのは春だけという高校も存在し、香川の丸亀城西、兵庫の県尼崎は春は7勝しているが夏の勝利はない。なお向陽(旧海草中)は出場回数は春15回・夏7回と倍の差があるが、勝利数は春7勝・夏14勝と逆転している。夏は1929年に準優勝、1939年・1940年は連覇を達成しているのに対し、春はベスト8が最高である。

主に春に強い学校を「春将軍」「春の○○」と呼ぶ。愛知の東邦、広島の広陵などが代表例である。東邦は甲子園通算66勝のうち約4分の3の50勝が春の勝利で、センバツでは優勝が4回、準優勝が2回あるが、夏は優勝経験はなく準優勝が1回のみである。

雨と決勝の因縁[編集]

雨でノーゲームになった試合が春は不明だが、夏は9度起こっている。

2003年第85回全国高等学校野球選手権大会1回戦、倉敷工岡山)対駒大苫小牧(南北海道)の試合では、駒大苫小牧が8-0と大量リードしながらも、4回裏途中台風接近による激しい雨が降り続き、降雨ノーゲームとなる。そして翌日の再試合では、前日とうってかわって倉敷工が試合を優位に進め、5-2で駒大苫小牧を下した。駒大苫小牧側では日付から「8・9の悲劇」と呼んでいる。

2004年第86回全国高等学校野球選手権大会甲子園に戻ってきた駒大苫小牧は、前年のノーゲームによる悔しい負け方をばねに、初戦の2回戦で佐世保実長崎)を7-3で下し、北海道勢春夏50勝目の勝利を挙げた。その後も駒大苫小牧は日大三横浜など強豪に勝ち続け、そして決勝では済美愛媛)を13-10で下し、見事に北海道勢として初の甲子園優勝を果たした。

駒大苫小牧が8点もリードしながら降雨ノーゲーム再試合負けが大きく知られることになったが、これからさかのぼること10年前にも似たような経緯の試合があった。

1993年第75回全国高等学校野球選手権大会2回戦、鹿児島商工鹿児島)対堀越(西東京)の試合で鹿児島商工が3-0とリードした8回表、降り続く雨で球場全体が水浸しになり、2度目の24分間の中断後、降雨コールドゲームが適用されて鹿児島商工が3-0で堀越を下した。

続く3回戦、鹿児島商工は常総学院茨城)と対戦し、鹿児島商工が4-0と大きくリードしながらも4回表、前日に続く雨で今度は降雨ノーゲームになってしまう。翌日の再試合ではなかなか点が取れず投手戦になり、7回表に1点を取った常総学院にそのまま1-0で逃げられ、不運な敗戦で甲子園を去った。

1994年第76回全国高等学校野球選手権大会で鹿児島商工は、学校名を樟南に変更して甲子園に戻ってくる。前年にノーゲームによる悔しい負け方をした樟南(鹿児島)は3回戦、双葉福島)との試合中、試合成立寸前の7回裏途中に雨で中断。又もノーゲームと思われたが1時間10分後に試合再開、結果4-1で下してそのまま決勝へ勝ち進むことになる。

この年の決勝で対戦した佐賀商佐賀)も、準々決勝の北海(南北海道)との試合中の4回表に、雨により1時間33分中断となったが、6-3で佐賀商が勝利。

この年の樟南は、前年のことや福岡-田村のバッテリーの評判から優勝候補とも言われていたが、地方大会から神がかり的に勝ってきた佐賀商に対して、9回表佐賀商の当時キャプテンだった西原に、4-4の同点から夏の大会の決勝では史上初の満塁ホームランを打たれ、4-8で惜しくも優勝を逃してしまった。この似た経緯の試合から、もし1994年に樟南が優勝していた場合、2004年に優勝した駒大苫小牧と同様に、前年の降雨ノーゲーム再試合負けの常総学院との試合を含め、大きく取り上げられていたことだろう。

1994年夏選手権の佐賀商の優勝に貢献した当時のコーチは、奇しくも10年後の2004年に優勝した駒大苫小牧の香田誉士史監督である。監督自身も1988年1989年の選手権に佐賀商の選手として出場し、1989年の選手権ではホームランも打っている。さらに、1993年の夏選手権でノーゲーム再試合で運良く鹿児島商工に勝った常総学院は、同じく奇しくも駒大苫小牧がノーゲーム再試合で悔しく敗れた、2003年の夏選手権で全国制覇を成し遂げている。

2008年第90回全国高等学校野球選手権記念大会1回戦では、大阪桐蔭大阪)対日田林工大分)の試合で、大阪桐蔭が4-0とリードしながら、2回裏途中突然の雷雨により降雨ノーゲームとなる。大阪桐蔭の部員数人は「再試合はリードしていた学校が敗れるケースが多いので、嫌な予感がよぎった」と語ったが、翌日の再試合も大阪桐蔭は前日の打撃好調を維持、16-2と日田林工に圧勝してノーゲームの不運を吹き飛ばした。大阪桐蔭はその後も勝ち進んで決勝戦に進出。そして決勝の大阪桐蔭は、常葉菊川静岡)に17-0と圧倒的な大差を付けて、17年ぶり2回目の夏選手権での全国制覇を成し遂げた。

新設校の快進撃[編集]

新設された高校の野球部(最近では主に女子高の共学化)が2年目の後半に入り、創部とともに入部し練習・試合を行ってきた部員が3年生になる前後から、突如として地方大会や全国大会を勝ち進む事がある。駒大苫小牧(南北海道)は1966年夏の選手権に学校創設3年目で出場した。済美(愛媛)は創部2年目の2003年の夏までは目立った成績はあげられなかったが、その年の秋の四国大会でいきなり優勝し、2004年春のセンバツでも快進撃は続き優勝、夏の選手権で準優勝(共に初出場)に輝いた。同様な例に、神村学園(鹿児島)の2005年春センバツ準優勝などがある。しかし群を抜くのは2002年夏の選手権でベスト8に進出した遊学館(石川)の実質1年4ヶ月である(当然、全部員が1、2年生)。この記録は高校野球史上最速で全国大会に出場した記録とされている。

最も遅い初出場・初勝利[編集]

47都道府県の中で最後となった出場県は、選抜は山形県(1973年第45回)、選手権は沖縄県(1958年第40回)である。そして初勝利が47都道府県最後となったのは、選抜は新潟県(2006年第78回)、選手権は滋賀県(1979年第61回)である。

また、宮崎県と沖縄県は学制改革以前の出場が春夏通じてない。

甲子園出場の経験を持つ芸能人[編集]

甲子園出場の経験を持つ芸能人。(元プロ野球選手を除く)

  • 山本譲二・・・'67の第49回選手権に出場。早鞆
  • 美木良介・・・'74の第46回選抜と'75の第57回選手権に出場。岡山東商
  • レッド吉田TIM)・・・'83の第65回選手権に出場。東山
  • ゴルゴ松本(TIM)・・・'85の第57回選抜に出場。熊谷商
  • 有田真平・・・'89の第71回選手権に出場。海星(長崎県)
  • 関泰章・・・'98の第80回選手権に出場。帝京
  • 安村昇剛(アームストロング)・・・'99の第81回選手権に出場。旭川実
  • 安藤龍PureBoys)・・・'05の第87回選手権に出場。静清工

甲子園出場経験のあるテレビ局員[編集]

  • 林正浩TBSアナウンサー)・・・'73の第45回選抜に出場。桜美林
  • 上重聡日本テレビアナウンサー)・・・'96の第78回選手権、'98の第70回選抜と第80回選手権に出場。第80回選手権準々決勝では松坂大輔のいた横浜高校延長17回の死闘を演じたチームのエースである。PL学園
  • 矢野勝嗣愛媛朝日テレビ職員)・・・'96の第68回選抜と第78回選手権に出場。第78回選手権決勝戦では、いわゆる「奇跡のバックホーム」を演じ母校の優勝に大きく貢献。松山商

プロ野球経験者による甲子園指揮[編集]

従来は蔦文也のようにプロ球団退団後1年間を経るなどすれば監督登録されることが可能だったが、1962年に規定改正(柳川事件を参照)が行われて以降、プロ野球経験者がアマチュア野球の監督に就任することは、相当な困難を伴うことになった(元プロ野球選手が高校野球チームを指揮する場合、少なくとも高野連加盟の同一高校で2年以上教職員として教鞭をとった上で、日本学生野球協会主催の審査により高校野球指導者としての認定を受けなければいけない)。それ以降高校野球では新規に、これまで2名が3度指揮を執っている。

開催年 大会 氏名 指揮を執った学校 現役時代に

在籍していた球団

1991年 春・63回 後原富 瀬戸内広島 東映フライヤーズ
2000年 夏・82回   〃      〃      〃
2008年 夏・90回 佐野心 常葉菊川静岡 中日ドラゴンズ

地域事情[編集]

北海道[編集]

北海道は1959年から南・北に分割され、南北海道代表は函館(渡島・檜山管内全域)・小樽(後志管内全域)・室蘭(胆振・日高管内全域)・札幌(石狩管内全域)の4地区、北北海道代表は空知(空知管内全域)・旭川(上川・留萌管内中南部)・名寄(上川・留萌管内北部及び宗谷管内全域)・北見(網走管内全域)・十勝・釧根(釧路・根室管内全域)の6地区に分かれている。なお2006年まで空知地区は、南空知地区が南北海道・北空知地区が北北海道だった。少子化・過疎化に伴う学校数減少と南北北海道の学校数のバランスを取るために、07年春季全道大会から南空知地区(南北海道)と北空知地区(北北海道)を空知地区として統一の上、北北海道に編入した経緯がある。

南北海道はかつては札幌地区に有力校が多かったが、進学校化や選手の分散・流出や駒大苫小牧を筆頭とする苫小牧近郊の高校の台頭も著しい。北北海道は旭川地区が圧倒的勢力で、十勝地区がこれに次いでいたが、空知地区の編入により、勢力が移りつつある。名寄地区のみが春夏通じて甲子園出場校を出していない。

かつて、北海道の高校野球は「負け」の代名詞とさえ言われたが2004年夏の駒大苫小牧の優勝で見事に覆した。2004年夏の駒大苫小牧の優勝まではベスト4進出は1928年の北海のみ、ベスト8進出は1931年の札幌商(南北海道)、1961年・1962年・1994年の北海(南北海道)と1995年の旭川実業(北北海道)のみだった。春の代表は1963年に北海が準優勝、駒大岩見沢が1983年にベスト8、1993年にベスト4まで勝ち進んでいる。

北海道民の間でも、「勝つ」よりも「不様に負けない」ように応援するというスタイルがあった。原因としては、雪国のハンデ、かつては鉄道での移動だったが故の関西までの移動による体力の消耗、関西の暑さにバテる、初戦で優勝候補と対戦することも多いくじ運の悪さ等がある。しかし駒大苫小牧が大会のチーム打率(チーム打率.448を記録)を更新する豪打で2004年夏に北海道勢として初優勝。続く2005年夏には57年ぶりの夏2連覇、そして2006年夏には優勝こそ逃したものの、決勝で早稲田実業学校と球史に残る死闘を演じ、延長15回引き分け再試合の末、準優勝。21年ぶりの夏3年連続決勝進出を果たし、高校野球の勢力図をかえた。2008年夏にも駒大岩見沢が北北海道勢9年ぶりとなるベスト16に進出するなど好成績を残している。2009年夏も札幌第一が初戦を突破し、2回戦で智弁和歌山に敗れた(9回表1死から逆転負け)ものの強豪をあと1歩まで追い詰めた。

甲子園で北海道のチーム同士の対戦が今までに1度だけある。1994年夏の2回戦、北海(南北海道)対砂川北(北北海道)の試合であり、北海が10-1で勝利を収めた。この大会で、北海は北海道勢として夏は32年ぶりのベスト8進出を果たした。

1993年夏に稚内大谷、2004年夏に雄武、2005年夏・2006年夏に遠軽が北北海道大会決勝に進出し、最北の出場校(夏春共に網走南ヶ丘)の更新が期待されたが、いずれも敗退した。2005年夏には日本最東端の根室と最北端野球部の稚内(日本最北端の礼文は野球部が無い)が北大会に出場したが、初戦で敗退した。現在、最東の出場校は中標津(1990年夏)である。

2006年までの北海道勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1963年 春・第35回 北海(北海道) 準優勝 0-10 下関商(山口)
2004年 夏・第86回 駒大苫小牧(南北海道) 優勝 13-10 済美(愛媛)
2005年 夏・第87回 駒大苫小牧(南北海道) 優勝 5-3 京都外大西(京都)
2006年 夏・第88回 駒大苫小牧(南北海道) 準優勝 1-1(延長15回引分)/3-4(再試合) 早稲田実(西東京)

東北[編集]

甲子園大会ではかつて東北以北から優勝校が出なかったため、東北地方の高校が甲子園大会で優勝することは悲願とされ、しばしば「『白河の関』を超えること」が東北の高校野球界の目標とされてきた。ところが、 2004年・夏の大会で駒大苫小牧(南北海道)が全国制覇を成し遂げ、それまでの最北だった作新学院(栃木)を大きく更新し、優勝旗は一気に津軽海峡を越えた。駒苫ナインを乗せた機内にて、キャビンアテンダントが「深紅の大優勝旗も皆さまとともに津軽海峡を越え、まもなく北海道の空域へと入ります」と放送し、乗客はこぞって歓声を上げたという(駒苫の優勝時に発行された北海道新聞の号外では「海峡越え」と表記された)。

駒大苫小牧の優勝後、白河市長が苫小牧市長宛てに「駒大苫小牧の優勝おめでとうございます。ただ、白河の関どころか津軽海峡まで飛び越えてしまったことで、白河の関の知名度が下がってしまうのが少し残念ですが…」という趣旨の手紙を送っている。

一般に「『白河の関』を超えた」ともされる優勝旗ではあるが、スポーツ記者や高校野球ファンなどからは「白河の関とは、陸路で超えることに意味がある」との意味で、現在でも『未だ白河の関は残っている』とされる事も多い。駒大苫小牧が優勝して以後は、2009年夏までに春夏合計で延べ7校が決勝まで勝ち進みながら、未だ優勝した事は無い。2009年春には岩手の花巻東が挑戦したが、紫紺旗を長崎にもたらした初の高校である清峰に阻まれてしまう。翌日の一部スポーツ紙には津軽海峡渡ったけど越えられない白河の関という見出しがつけられた[6]

東北地方の学校が優勝していない原因については、#北海道と同様の不利が挙げられる。このような状況から政治家と甲子園には期待するな』とまで言われることもある東北地方の高校野球だが、国体や明治神宮大会は降雪期から隔たった秋季に行われるなどのため、優勝校を出す事に成功している。国体では1952年に盛岡商(岩手)が、明治神宮大会では1977年に東北(宮城)が、それぞれ東北勢として初優勝している。

2009年までの東北勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1915年 夏・第1回 秋田中(秋田) 準優勝 1-2 京都二中(京都)
1969年 夏・第51回 三沢(青森) 準優勝 0-0(延長18回引分)/2-4(再試合) 松山商(愛媛)
1971年 夏・第53回 磐城(福島) 準優勝 0-1 桐蔭学園(神奈川)
1989年 夏・第71回 仙台育英(宮城) 準優勝 0-2 帝京(東東京)
2001年 春・第73回 仙台育英(宮城) 準優勝 6-7 常総学院(茨城)
2003年 夏・第85回 東北(宮城) 準優勝 2-4 常総学院(茨城)
2009年 春・第81回 花巻東(岩手) 準優勝 0-1 清峰(長崎)

関東[編集]

関東の学校が、全国制覇を成し遂げた場合の高校野球の隠語として「箱根の山を越える」がある。初めて箱根を越したのは1916年の夏の大会の慶應普通部(東京[7])、その後1949年の夏の大会の湘南(神奈川)が達成した。

1916年夏に慶應普通部が優勝したにも関わらず、1949年夏の湘南の優勝において箱根越えが注目された理由として以下の要因があげられる。箱根が東西を分ける関所として人々に有名であること、慶應普通部の優勝から湘南の優勝まで33年間の開きがあること、湘南の優勝までの当時の高校野球(または中学野球)では西高東低(西日本の学校が強く、東日本の学校が弱い)の印象が強かったこと、1916年はまだ2回目の大会であり当時の中学野球は世間から余り注目されていなかったことなどである。

春の箱根越えは1957年早稲田実(東京)が達成。早稲田実の優勝以降は関東勢の優勝が珍しくなくなったためか、以後はほとんど意識されなくなっている。1962年作新学院(栃木)が史上初の春夏連覇を達成し、2004年夏に駒大苫小牧(南北海道)が優勝するまで最北端の優勝校だった。また1998年横浜(神奈川)が春夏連覇を達成し、現時点で春夏連覇達成校が複数存在する唯一の地区である。

1957年春までの関東勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1916年 夏・第2回 慶應普通部(東京) 優勝 6-2 市岡中(大阪)
1920年 夏・第6回 慶應普通部(東京) 準優勝 0-17 関西学院中(兵庫)
1924年 春・第1回 早稲田実(東京) 準優勝 0-2 高松商(香川)
1925年 夏・第11回 早稲田実(東京) 準優勝 3-5 高松商(香川)
1936年 春・第13回 桐生中(群馬) 準優勝 1-2 愛知商(愛知)
1949年 夏・第31回 湘南(神奈川) 優勝 5-3 岐阜(岐阜)
1955年 春・第27回 桐生(群馬) 準優勝 3-4 浪華商(大阪)
1957年 春・第29回 早稲田実(東京) 優勝 5-3 高知商(高知)

山梨県[編集]

北陸を除く中部地方では山梨県勢が唯一春夏ともに優勝校が存在せず、また決勝戦進出も春夏通じて経験がない。最近では2004年夏第86回選手権大会で、東海大甲府がベスト4に進出したが、準決勝戦では優勝した駒大苫小牧(南北海道)に8-10で惜しくも敗れ、山梨県勢初の決勝進出を逃している。

北陸[編集]

北陸四県新潟県富山県石川県福井県)では甲子園優勝校が存在しない。準優勝は1978年春の福井商(福井)、1995年夏の星稜(石川)、2009年夏の日本文理(新潟)がある。他の大会では、若狭(福井)が1952年の国体と1973年の明治神宮大会で初優勝をしている。その後も、北陸勢は国体や明治神宮大会で何度か優勝をしている。そのため、該当地域の甲子園制覇は時間の問題とする声もあるが、2009年現在まだ優勝を果たせていない。

これとは別に、北陸三県(新潟を除く富山・石川・福井)は大学進学率が全国で常に上位にあり、難関大学現役で進学する生徒の比率も高い。このため「天候に左右されやすい高校野球に打ち込むよりも、3年間必死に勉強して大学に現役で入るほうが得だ」とする考え方が多いためでないか、という意見も少数ながらある。

また、新潟県は2008年まで春夏通じて唯一ベスト4に入っていなかったが、2009年夏選手権で日本文理が、新潟県勢初のベスト4及び決勝戦の進出を果たし(山形県も2004年まで春夏通じてベスト8止まりだったが、2005年春選抜で羽黒が山形県勢初のベスト4進出を達成)、これで47都道府県すべて春夏の最低限どちらかでベスト4進出を果たした事となった。現在春は佐賀・島根・滋賀・石川・新潟・福島、夏は富山・山形がベスト4に入っていない。

2009年までの北陸勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1978年 春・第50回 福井商(福井) 準優勝 0-2 浜松商(静岡)
1995年 夏・第77回 星稜(石川) 準優勝 1-3 帝京(東東京)
2009年 夏・第91回 日本文理(新潟) 準優勝 9-10 中京大中京(愛知)

滋賀県[編集]

甲子園のお膝元である近畿地方に属するものの、滋賀県勢は近畿勢で唯一いまだに春夏とも優勝校がない。原因として、北部では東北地方などと同様の「雪国のハンデ」があり、南部では優秀な人材を京都市内の私立強豪校に奪われてしまう傾向があったことがあげられている。そのうえ、夏選手権では1974年まで京都府と同じ出場枠(京滋大会)だったため、滋賀県と同じような条件を抱える京都府北部(丹波丹後地域)と同様に、京都市内の私立強豪校に対して圧倒的に劣勢だったことも不利であったといえる。ようやく2001年になって、夏選手権で近江が、春夏通じて滋賀県勢初の決勝進出を果たしたが、決勝では日大三に敗れて準優勝となった。

今までの滋賀県勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
2001年 夏・第83回 近江(滋賀) 準優勝 2-5 日大三(西東京)

山陰[編集]

山陰地方鳥取県島根県と及び山口県北部地方)の高校も甲子園大会優勝経験がない。

原因として雪国のハンディがよく指摘される。山陰地方は日本海側気候に属し湿った雪が多い。2009年春夏までの甲子園での通算成績は鳥取が54勝85敗、島根は38勝79敗、山口県北部は0勝2敗で大きく負け越している。 鳥取県・島根県については、草創期には何度か上位進出があるものの、人口が少ない地域(とくに鳥取県の人口は全国最少)であるため、優秀な高校生の絶対数もその分少ない。 この点を逆手に取った京阪神地区の中学生の「野球留学」は有名である。京阪神地区は全体のレベルが高いうえ、強豪校が多いので、甲子園出場以前に、レギュラー入りできる可能性が低い。このため、学校数の少なく、距離も比較的近い鳥取・島根の高校を選ぶ。

現在まで山陰地方から決勝進出を果たしたのは、1960年春選抜で準優勝した鳥取の米子東のみである。また2003年夏選手権では、島根の江の川(現・石見智翠館)が、島根県勢として80年ぶり(80年前は松江中=現・松江北以来)にベスト4に進出した(準決勝戦、1-6で宮城・東北高校に敗退)。

今までの山陰勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1960年 春・第32回 米子東(鳥取) 準優勝 1-2 高松商(香川)

徳島県[編集]

近年は野球留学などで全国から有力選手を集める私立高校が多く、甲子園出場校における私立高校の割合は増え続けている。そんな中、徳島県だけは、未だに私立高校の甲子園出場がない。これは徳島県内に私立高校が4校しかない上に、野球部があるのが生光学園だけであるというのが最大の理由である。

今までの徳島勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1947年 春・第19回 徳島商(徳島) 優勝 3-1 小倉中(福岡)
1950年 夏・第32回 鳴門(徳島) 準優勝 8-12 松山東(愛媛)
1951年 春・第23回 鳴門(徳島) 優勝 3-2 鳴尾(兵庫)
1952年 春・第24回 鳴門(徳島) 準優勝 0-2 静岡商(静岡)
1958年 夏・第40回 徳島商(徳島) 準優勝 0-7 柳井(山口)
1964年 春・第36回 徳島海南(徳島) 優勝 3-2 尾道商(広島)
1974年 春・第46回 池田(徳島) 準優勝 1-3 報徳学園(兵庫)
1979年 夏・第61回 池田(徳島) 準優勝 3-4 箕島(和歌山)
1982年 夏・第64回 池田(徳島) 優勝 12-2 広島商(広島)
1983年 春・第55回 池田(徳島) 優勝 3-0 横浜商(神奈川)
1986年 春・第58回 池田(徳島) 優勝 3-0 宇都宮南(栃木)
2002年 春・第74回 鳴門工(徳島) 準優勝 2-8 報徳学園(兵庫)

九州[編集]

高校野球で、九州の学校が全国制覇を成し遂げた場合はしばしば「関門海峡越え」と表現される。1947年の夏の大会で小倉中(福岡)は優勝し、優勝旗は初めて関門海峡を越え、それまでの最西だった松山商(愛媛)を更新した。春の大会では1958年の済々黌(熊本)が達成。その他1967年春に津久見(大分)、1994年夏に佐賀商(佐賀)、1996年春に鹿児島実(鹿児島)、2009年春に清峰(長崎)が優勝し、それぞれ県勢初優勝を果たした。九州では宮崎だけが春夏通じて優勝がなく[8]、ベスト4が最高である。九州で春夏共に優勝しているのは大分及び津久見だけで福岡、佐賀は春の優勝がなく長崎、熊本、鹿児島は夏の優勝がない。

2009年までの九州勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1934年 夏・第20回 熊本工(熊本) 準優勝 0-2 呉港中(広島)
1937年 夏・第23回 熊本工(熊本) 準優勝 1-3 中京商(愛知)
1947年 春・第19回 小倉中(福岡) 準優勝 1-3 徳島商(徳島)
1947年 夏・第29回 小倉中(福岡) 優勝 6-3 岐阜商(岐阜)
1948年 夏・第30回 小倉(福岡) 優勝 1-0 桐蔭(和歌山)
1954年 春・第26回 小倉(福岡) 準優勝 0-1 飯田長姫(長野)
1958年 春・第30回 済々黌(熊本) 優勝 7-1 中京商(愛知)
1962年 夏・第44回 久留米商(福岡) 準優勝 0-1 作新学院(栃木)
1965年 夏・第47回 三池工(福岡) 優勝 2-0 銚子商(千葉)
1967年 春・第39回 津久見(大分) 優勝 2-1 高知(高知)
1972年 夏・第54回 津久見(大分) 優勝 3-1 柳井(山口)
1988年 夏・第70回 福岡第一(福岡) 準優勝 0-1 広島商(広島)
1992年 夏・第74回 西日本短大付(福岡) 優勝 1-0 拓大紅陵(千葉)
1994年 夏・第76回 佐賀商(佐賀) 優勝 8-4 樟南(鹿児島)
1994年 夏・第76回 樟南(鹿児島) 準優勝 4-8 佐賀商(佐賀)
1996年 春・第68回 鹿児島実(鹿児島) 優勝 6-3 智弁和歌山(和歌山)
1996年 夏・第78回 熊本工(熊本) 準優勝 3-6 松山商(愛媛)
2005年 春・第77回 神村学園(鹿児島) 準優勝 2-9 愛工大名電(愛知)
2006年 春・第78回 清峰(長崎) 準優勝 0-21 横浜(神奈川)
2007年 夏・第89回 佐賀北(佐賀) 優勝 5-4 広陵(広島)
2009年 春・第81回 清峰(長崎) 優勝 1-0 花巻東(岩手)

沖縄[編集]

高校野球で、沖縄県の学校が全国制覇を成し遂げた場合はしばしば「海を渡る」と表現される。沖縄はその歴史的経緯から、本土に対する意識が強かった。そのため、沖縄水産(沖縄)が夏の大会で1990年と1991年に2年連続で決勝に進出しながら準優勝に終わった時、当時の同校の栽弘義監督が「優勝旗が沖縄の海を渡らなければ、 沖縄の戦後は終わらない」 と発言したと報道された(しかし、本人は否定している)。

1999年の春の大会で沖縄尚学(沖縄)が沖縄勢として初優勝し、優勝旗は沖縄の海を渡った。また、それまでの最南だった鹿児島実(鹿児島)を更新した(試合終了後、スタンドでは相手の水戸商(茨城)の応援団を交えてのウェーブが起きた。2008年春の優勝の際にも同じことが起きた)。

今までの沖縄勢の戦績(決勝)
開催年 大会 学校 結果 相手校
1990年 夏・第72回 沖縄水産(沖縄) 準優勝 0-1 天理(奈良)
1991年 夏・第73回 沖縄水産(沖縄) 準優勝 8-13 大阪桐蔭(大阪)
1999年 春・第71回 沖縄尚学(沖縄) 優勝 7-2 水戸商(茨城)
2008年 春・第80回 沖縄尚学(沖縄) 優勝 9-0 聖望学園(埼玉)
2010年 春・第82回 興南(沖縄) 優勝 10-5 日大三(東京)


この他、沖縄という地域の特殊性から、離島勢の躍進についても注目する必要がある。夏の大会では宮古が1977,78年に県大会準優勝、八重山が1988年に県大会準優勝とあと一歩のところで甲子園出場を逃しているが、2006年夏に八重山商工が出場(同年春の大会でも、沖縄県の離島勢として初めて出場した)し、2勝を挙げている。

注:八重山商工の他、沖縄本島以外の「島」からは久賀(山口:1962年春、1999年夏)、隠岐(島根:2003年春)、洲本(兵庫:1953年春、1975年夏、1986年春)が甲子園に出場している。しかし、久賀の在る周防大島は瀬戸内海であるうえ、2回目の出場時には本土との架橋島、隠岐は21世紀枠での出場(通常の戦績の他に、離島であることも考慮されているであろう)、洲本は1953年春の優勝校であるが、学校所在地が離島とはいえない「淡路島」である。2008年夏には佐渡が新潟大会決勝に進出したが、出場は果たせなかった。

問題点と批判[編集]

人気ゆえの問題[編集]

単なる高校部活動の対抗戦に留まらず、圧倒的な人気で社会を巻き込んでいる高校野球であるが、その人気と関心度故に、多くの問題点が指摘されている。

  1. 教育の一環としての課外活動が、全国レベルの社会的イベントになっているため、硬式野球部だけが軟式野球部等も含めた他の部活動と比べて予算、施設などの面で特別扱いされているケースがほとんどである。ただ、他の部活に比べて指導者がいない練習などは少なく、競争力が非常に高いため仕方ないという意見もある。
  2. 大会は商業新聞社の主催であり、事実上新聞社や、新聞社の系列の放送局の宣伝にもなっている。
    • なお日本学生野球憲章では、日本オリンピック委員会選手強化キャンペーン(「がんばれニッポン」)の協賛スポンサー企業を含めて、高校生や大学生の商業出演行為(コマーシャル、テレビのバラエティー番組出演など)は厳しく禁じている。ここ最近は野球部以外の運動部に所属する高校・大学在学中の選手達が、多くのTV出演等をしているものの(例:フィギュアスケート浅田真央安藤美姫ゴルフ石川遼など)、野球部所属の選手に対しては未だに商業出演行為は一切認めていない。
    • にも拘わらず、高校野球選手達を男性アイドル扱い化した雑誌「輝け甲子園の星」(日刊スポーツ出版社)や、ほかの高校野球関連の雑誌「報知高校野球」(報知新聞社)・公式ガイドブック「センバツ」(毎日新聞社)、「ホームラン 熱球甲子園」(廣済堂あかつき出版)や、ABCテレビ制作で夏の選手権大会開催中に放映の「熱闘甲子園」と共に、大会後に放映される夏の選手権大会の特別番組などで、選手達のプライベートな場面を放映するのは認められている。もっとも、「教育の一環」という観点から言えば、バラエティー番組等への出演を認めてしまった他のスポーツ部及び学校のほうこそがおかしいのでは、という指摘もある。ある野球メーカーのCMで高校野球選手に扮したタレントが出演した事例があるが、この時には「高野連加盟選手ではありません」という断り書きが書かれていた。
    • 夏の大会では、本来、野球には不向きな真夏の7~8月にかけての日中・炎天下の屋外球場で、全国規模のトーナメント戦(地方予選~本大会)を行なうことによる選手への負担もかなりある。もっとも、学業優先の観点から、長期にわたる大会を開催するには春休み及び夏休み(冬休みは受験期であることや積雪のため、開催不能)を利用するしかないという現実もある。
    • 社会の注目度が高い故に、一介の課外活動に対して多くの報道が為される故のトラブル。
  3. 暴力行為」や「過剰な指導」、「指導者・先輩への絶対服従」など体育会系クラブにありがちなトラブルと、それに対する「連帯責任」的な処分。近年は、問題を起こした者を外せばよいなど改善される方向にあるが、それは生徒のみの話で有り、指導者の行為は論外とされている。
    • 野球部員(甲子園に出場した、又は出場することで『偉くなった』という勘違い)である事を笠に着た、他の生徒に対するイジメ等の行為や、それを隠蔽しようとする学校側の対応。野球部員に対して処分を下せば事が公になり、大会出場を辞退すれば学校の名前を上げる事が出来なくなる為『見て見ぬふり』せざるを得ない。
    • 同様の問題として、飲酒や喫煙、暴行や恐喝、さらにはリンチなど、高校生にあるまじき行為が発覚しても『野球部員であるが故に』黙認され、逆に被害者側に処分(理由をこじつけて)が下されたり、見舞金という名目の口止め料をつかませる、などして『甲子園出場』を守ろうとする学校側の対応で、教師や監督の教育方針が『スポーツを通した人間形成』よりも『甲子園出場』という名誉に重きが行ってしまっている為、『甲子園に出場するから何をやっても許される』と勘違いした(この様な勘違いは完全に学校側の責任である)野球部員による問題が増殖する。不祥事に対する処分決定はスポーツ面に一覧がベタ記事で掲載されるのみである。

高校野球の諸問題をジャーナリズム的視点から改革することをマスコミは一切行わないともされ、各問題がほとんど報道されない、マスコミで議論されないことは社会問題との指摘もある(本来であれば主催者ではない読売新聞産経新聞などが異を唱えるべきであろうが、他の高校スポーツ選手権の主催スポンサー(前者は系列の日テレがサッカー、後者は系列のフジテレビと共同でバレーボール)になっているためか、切り出せないでいる。この意味では全国紙で高校スポーツに携わっていないのは日本経済新聞だけであるが、経済とは関連の薄い分野でもあり、一般的な報道に留まっている)。

また、実情としては高校野球がメディアで大きく取り上げられる一方、他の高校スポーツは知名度が低い(もっとも、高校サッカー、高校バレーボール、高校ラグビーは高校野球ほどではないが、メディアで比較的よく取り上げられる)。

これはほぼ同時期に行われる全国高等学校総合体育大会(インターハイ)の扱われ方が小さいことからも伺える。漫画家のあだち充(高校野球を扱う作品も多く残している)は、『KATSU!』の作中でこのことを皮肉混じりで描いている。かつて月刊陸上競技の編集後記において「高校野球や高校サッカー(年末の全国高校サッカー選手権大会)ばかりがメディアに取り上げられ、高校スポーツの祭典が軽んじられている現況に、全国の高校スポーツ関係者はやるせない怒りを感じている」という内容の批判として取り上げられている。

野球留学[編集]

甲子園出場を目的として特定の学校へ「野球留学」・越境通学をする例、「スポーツ推薦」で入学する例が増えた。学区外からの志願も受け入れ、プロ球団同様に野球部員寮・合宿所を保有している私立校に多い。1970年代の江戸川学園取手倉吉北がその先駆けの代表格。2008年8月には、大阪ではレギュラーになれない生徒がレギュラーとなることを目指して多く入学している、山形県・酒田南高等学校野球部の出場が『甲子園への里帰り』と採り上げられた。このような事例には、「本来の意味での“地元代表”なのか」と疑問視する声がある[9]

日本学生野球憲章で禁じられているはずの野球による特待生制度で中学生を買い漁るスカウトもあることは公然の秘密である[10]。「○○学院」「△△学園」「××大学(付属)」と冠が付く・地域名が校名に入っていない高校が“常連校”と化すケースがあり、2007年夏の大会では日本大学智弁学園駒澤大学の各系列から2校ずつ出て来ている。2008年夏の全国大会は実に出場校の6割、09年夏の大会は77パーセント(38校)が私立、また日本大学系列からは3校出場である。そのため、“私学部門と公立校部門に分けるべきではないか”との意見もある。

  1. 2007年春に特待生が問題となり、強豪と呼ばれる私立高校が特待生を選手から外したところ、強豪校の敗退が続出し、公立校が上位に名を連ねた[11](尤も、突然主力選手が外れれば苦戦を強いられるのは当然であり、またどの選手が特待生か特定されることを避けるため大会途中で出場を辞退した私立校も多く存在した)。なお、この年の夏の優勝校は佐賀北で、公立校が優勝した例としては1996年の夏に優勝した松山商以来となっている。
    • もっとも、多感な時期の3年間なので、生徒は地元にすっかり染まってしまうという意見もある。
    • また、進学する高校の選択の自由は憲法上保障された権利であり、これを制限することは違憲のおそれも指摘されている。さらに野球以外の様々な事情、例えば他のスポーツ競技、芸術、勉学、さらには芸能活動などを理由とした越境留学については批判がほとんどなく、高校野球においてのみ問題にするのは矛盾であり感情論にすぎない、とする意見もある。
    • 強豪校は、本業である学業より野球を優先する風潮があるため、「野球のため強豪校に進学」というパターンも増えた。
    • 特定の学校への集中は部活動の領域を越えたセミプロ化としての存在になることが大きい。全ての学校が同一条件にならないことは教育の一環という前提を越えてしまう。生徒集めに条件のある公立高校との格差は大きくなる一方である。
      • 公立強豪校ではこれに対抗すべく、体育科を設置しスポーツ推薦を行ったり、商業科など実業系の学科に選手を集めるなどして強化を行っている。また一般的に進学校とされる学校の中には秋田、静岡、今治西のように、一般推薦の中に「野球部枠」のある学校も存在する。強豪校の監督の中には福井商・北野尚文、池田・蔦文也のように、教員でありながら他校へ異動することなく、長年にわたり同じ学校で指揮を執り続けるケースもある。
    • 高野連によれば、第89回大会登録選手の総数75,706人の内、都道府県外中学出身者は3,256人(昨年から160人増)。この内、隣接都道府県以外の都道府県外中学出身者は1,346人(昨年から86人増)と発表している。
      • 流出元は
        1. 大阪府427人
        2. 兵庫県125人
        3. 神奈川県110人
      • 一方、隣接都道府県以外出身の選手流入先は
        1. 岡山県77人
        2. 東京都66人
        3. 香川県64人
    • 一方で公立校の中にも、かつての松山商や池田のように、他県出身の中学生を3年次に地元中学に転校させたり、鵡川のように同一都道府県における通学圏外の選手を多数入部させるなどして(2002年春に21世紀枠で出場した際はベンチ入り16人中10人が地元胆振支庁以外の出身であった。現在でも選手構成は同様である)、事実上の野球留学を行っている学校もあるが、これらが批判されることは少ない。前者の手法は私立校でも付属中学を利用して行われているが、出身中学を見れば判別は容易であるため批判の的となっている。
  2. 「地域代表」的な立場やプロ野球への登竜門としての要素があるために(実際にプロ野球球団のスカウトがバックネット裏の観覧席に陣取って、ドラフト上位候補と目される主要選手のチェックを行っている)、教育とは無関係な第三者の利権や介入が生じる。

批判を受けた作戦[編集]

  • 1992年8月16日に行われた明徳義塾対星陵の試合では明徳義塾の監督は星陵高校の4番松井秀喜に対し5打席すべてを敬遠するという作戦に出た。試合は明徳義塾が勝利したが試合終了直後から試合内容に納得のいかない観客から「帰れ」コールやブーイングが起き校歌斉唱がかきされただけではなく、高野連が異例の声明を発表する事態になる。監督は試合終了後に「高校生の中に一人プロが混じっていた。勝つために(敬遠を)指示した」と記者団に答えた。スポーツ紙テレビニュース、一般紙は明徳義塾の行動に対する非難を行い、プロ野球経験者は非難、擁護と意見が二分した
  • 2006年に行われた高校野球県秋田県予選準決勝の本荘対秋田戦で行われた、雨天ノーゲームを巡る遅延行為と緩慢プレーの発生。9-1と本荘がリードしていた5回裏に、雨天による一時中断があった。高野連のルールでは7回が終了しない状態では雨天ノーゲームとなるため、秋田高校は雨天ノーゲームを狙い、打者が一球ごとに打席を外す、投球テンポを遅くする、送球されたボールを盗塁したランナーを故意にタッチせず進塁させるなどの遅延行為を行った。本荘高校はそれに対抗し、監督の指示でわざとアウトのなるようなプレー(敬遠球への空振りや無謀な盗塁)を行った(試合は本荘高校がコールド勝ち)。この試合では本荘高校の行為のみが問題とされ始末書の提出を県高野連から求められたが、秋田高校へは何の処分もなかった[12]

誤審や判定への問題[編集]

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高校野球における主な誤審や判定への問題として次のような例が挙げられる。

  1. 1984年に行われた選抜高校野球佐賀商業対高島高校戦で実際はラッキーゾーンの手前でワンバウンドしてスタンドインした打球を2塁塁審の誤審により本塁打と判定されてしまったもの。試合後高野連が会見。誤審の原因となったボードを全て撤去した。
  2. 1994年に行われた選抜高校野球小倉東対桑名西ではスコアボードのミスにより四球が宣告されず他の審判や選手からのアピールもなかったためそのままプレーが続行された。(最終結果は二塁打)審判は試合後謝罪した
  3. 2007年に行われた全国高校野球選手権決勝広陵高校佐賀北戦でのボール判定。押し出しで得点が入った佐賀北高校は、その後満塁ホームランが飛び出し逆転に成功。結果佐賀北高校が優勝したが、他にも数々の判定をめぐり広陵高校の監督が抗議を表明した。翌年の第90回大会でNHKが過去の決勝戦のVTRを流した際には押し出しのシーンのみバックネット裏からの映像に切り替わっている。
  4. 2009年に行われた選抜高校野球倉敷工業対金光大阪戦で1死三塁の場面で倉敷工業がスクイズを仕掛ける。この打球を投手がマウンドを駆けおり捕手にトス、突っ込んできた走者に触球しようとしたとき、ミットから球がこぼれたが球審はアウトと判定(この時の球は一塁手が審判に見えないようにグラブに収めた)。監督の命を受けた主将が抗議するが判定は覆らず、試合を見ていた視聴者からNHKや高野連に「あれはセーフでは」や「ボールを落としているのにアウトはおかしい」といった抗議電話が殺到した。高野連は、正規触球後の落球と発表。
  5. 2009年9月に行われた兵庫県秋季大会3回戦の明石商対加古川北戦でサヨナラ打の判定をめぐり審判の判断が二転三転した[13]。県高野連は9月25日にベンチを出て抗議した明石商の監督と部長に注意を、試合後選手に整列を指示しなかった加古川北の監督、部長に厳重注意をそれぞれ言い渡した。また、県高野連審判部が二転三転した判定について県高野連に謝罪し、「再発防止に努める」とした[14]
  6. 2005年に行われた第全国高校野球選手権埼玉大会松山対所沢商戦での四球誤審。松山高校側から四球との指摘があり審判団で協議した結果四球ではないとして試合が続行。最終的に松山高校が敗戦するが試合後松山高のOBや父母会が教育委員会に異議を申立て再調査の結果誤審が発覚、高野連は再犯防止を約束し謝罪した。[15]また松山高校は1988年にも四球誤審を受けた結果試合に負けた経緯がある

誤審や判定への問題が発生する要因として

  1. 確認不足や勘違いによるイージーミス
  2. 比較的高齢の審判が多い
  3. 審判員のレベルが一定ではない(講習は各都道府県連単位で行われているため細かい地域差がどうしても発生するが日本高野連では特別に講習は行っていない)

など審判がかかえる問題のほかに

  1. 高校野球のレベル向上によりきわどい判定が増えたこと
  2. 死角等を利用したトリックプレーが行われるようになったこと
  3. プロ野球では導入されているビデオ判定を高校野球では導入していないこと
  4. 高校野球界では抗議が半ばタブー化されていること、ルール上は抗議する権利が認められているが判定に対する抗議や監督の抗議は認められていないこと[16]
  5. 監督による抗議(詳細は監督による審判への抗議を参照)

など審判とは無関係の問題が発生していることもある。

1984年の問題について当時の高野連会長は試合後誤審を行った審判と共同での記者会見を行い誤審の原因を説明し「選手が判定に疑問を持ったらどんどんアピールしてよい」と発言した[17]が、実際高校野球の全国大会で抗議のシーンはほとんど見られない。

2007年の問題は誤審によって最終的に勝敗がひっくり返ったことから、スポーツジャーナリスト二宮清純要出典や週刊新潮要出典は「プロ野球出身者に高校野球の審判を行ってもらう」という意見やビデオ判定の導入をすべきという意見が出ているが現実問題として決勝戦終了後の広陵高校監督の発言に対し高野連が「審判は絶対的で、不満を言うのは好ましくない」と口頭で注意したもあり実行には至っていない[18]

また2007年の高校野球大会では当時問題となった私立高校による野球部員への授業料免除等の特待生制度問題から公立高校と私立高校との試合のときは微妙な判定は全て公立高校に有利に働くよう高野連が圧力をかけたという噂要出典まで流れ、実際優勝した佐賀北高校と対戦した私立高校の野球部監督は「微妙な判定は全て相手(佐賀北高校)に有利に働いた」とコメントしている[19]ため審判(高野連)による意図的な誤審が行われた可能性もある。

また、東京都の高校野球の場合、明治神宮外苑内の野球場で試合を行う場合は、ストライクゾーンを狭く判定するよう球審が指示されている。[20]一方でその他の大会、特に全国大会では、試合数が最大で4試合あること、またテレビ中継の都合もあり、比較的ストライクゾーンを広く設定する傾向にある。[21]

高校野球の審判員は高校野球審判員という資格が必要であり、各都道府県の野球連盟の審判部に登録されている高校野球審判員から推薦により、甲子園に出場する審判が選ばれている。そのため審判員は元高校球児など野球経験者が多いが全てボランティアである。例えば一塁での際どいアウト・セーフの判定に誤審気味の判定が多いからといって、審判に視力検査などを課してしまうと、大会運営に必要な審判数が確保できなくなる可能性がある。また審判の講習は日本の高野連ではなく各都道府県の高野連単位で行われておりストライクゾーンなどきわどい部分では地域差が出てしまう可能性は否定できない。

特に甲子園での大会期間中は、審判は基本的に宿舎と球場の往復以外外出できず、アルコール類の摂取も禁じられる。このような苦労があってその権威を保っていることも知っておく必要がある。

監督による審判への抗議[編集]

高校野球では抗議は原則禁止されている。[22]ただし例外として三振や四球の状態で宣告が無い場合やアウトカウントの相違など明らかな問題に対しては抗議をすることが出来る[23]。しかし抗議が出来るのは主将、伝令または当該選手に限られており監督が抗議を行うことは禁止されており監督がベンチを出て抗議を行った場合は処罰対象になることもある。 しかし近年、監督による審判への抗議が起きているのも事実である。

主な監督の抗議としては次の事例がある

  1. 2000年鹿児島大会の玉龍対樟南戦では審判の判定に樟南高校の監督が30分にわたり抗議。しかし監督や高校への処分は下されなかった。当時樟南高校の監督が県高野連の理事を務めていた事が話題となり身内に甘いとの指摘もあった[24]
  2. 2001年東東京大会の都立城東高校対二松学舎付属高校では同点ホームランを巡る誤審判定に二松学舎付属高校監督が抗議。判定は覆らず(判定は3塁打)二松学舎付属高校は敗戦。翌日のスポーツ紙では「誤審が消した幻のホームラン」として話題になった[25]
  3. 2006年岐阜大会の岐阜城北対県立岐阜商戦ではサヨナラホームランに歓喜した県立岐阜商の控え選手がベンチを飛び出した結果走者と交錯、岐阜城北の監督が抗議、一時は整列も拒否した。試合後両校に厳重注意処分が下された[26]
  4. 2007年の広陵高校対佐賀北高校戦(詳細は上記誤審や判定への問題を参照)
  5. 2009年9月に行われた明石商対加古川北戦(詳細は上記誤審や判定への問題を参照)

このような監督による抗議が起こった理由として監督は子供たち(選手)の為と話している。またたびたび高校野球で問題視されている勝利至上主義も原因として指摘されている

参考文献[編集]

その他の大会[編集]

硬式野球以外のものとして、軟球を用いる軟式野球全国高等学校軟式野球選手権大会がある。こちらは夏の甲子園大会終了後の8月下旬に、兵庫県明石市高砂市の球場で行われている。他に国民体育大会においても、軟式野球部の大会が行われる。 また、全国高等学校定時制通信制軟式野球連盟などの主催、文部科学省や高野連などの後援による、定時制高校通信制高校を対象とした「全国高等学校定時制通信制軟式野球大会」が、毎年7月に地方予選が行われた後、8月に全国大会が明治神宮野球場など東京都内の球場で行われている。これらの大会は「もうひとつの甲子園」と呼ばれる事も多い。

一方、女子高校生の野球大会としては全国高等学校女子硬式野球連盟主催の全国高等学校女子硬式野球選手権大会全国高等学校女子硬式野球選抜大会などがある。

脚注[編集]

  1. 朝日と毎日が相互に甲子園を後援 高校野球、春夏の大会 - 47NEWS 2009年11月27日
  2. 春の選抜・夏の選手権 朝日、毎日と相互後援 高校野球 - アサヒコム、2009年11月27日
  3. 高校野球:毎日新聞社と朝日新聞社、相互に後援 一層の発展へ、協力関係を明確化毎日jp、2009年11月28日
  4. フィーチャード・クライアンツVol.6―阪神甲子園球場大林組
  5. 「よみうり寸評」読売新聞(2009年8月14日夕刊)・『「甲子園の土」ものがたり』(三浦馨著、明治書院)。ただし、第28回大会1946年)は、阪神甲子園球場が米軍により接収中のため、全試合阪急西宮球場で行われた。
  6. スポーツニッポン2009年4月3日
  7. 当時。現在は神奈川県に移転。
  8. ただし、1999年度の明治神宮野球大会で日南学園が優勝している。
  9. 文科相、野球留学を批判 特待生については理解アサヒコム
  10. 高野連、専大北上を「除名相当」と判断 裏金問題でアサヒコム
    東北高、春の高校野球地区大会辞退 特待生制度絡みかアサヒコム
  11. 2007年5月5日付配信 スポーツ報知
  12. サンケイスポーツ2006年7月23日付など
  13. 神戸新聞2009年9月24日号など
  14. 神戸新聞2009年9月26日号
  15. 埼玉県高野連7月23日発表
  16. 高校野球特別規則第26条 審判員に対して規則適用上の疑義を申し出る場合は、主将、伝令または当該選手に限る。
  17. 1984年3月27日NHKニュースおよび朝日新聞1984年3月28日付
  18. 2007年8月24日付日刊スポーツなど
  19. 朝日新聞2007年8月18、8月22日付
  20. 小林信也「高校野球が危ない!」
  21. 読売新聞新潟版2006年7月1日付
  22. 野球規則9.02(C)
  23. 高校野球特別規則第26条
  24. 朝日新聞2000年7月13日付
  25. 2001年7月22日付日刊スポーツなど
  26. 読売新聞2006年7月27日付

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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