第二バチカン公会議

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第2バチカン公会議(だい2バチカンこうかいぎ、Concilium Vaticanum Secundum 1962年1965年)は、教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会公会議である。

この会議では、公会議史上初めて世界五大陸から参加者が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなった。教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀カトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。

目次

開会まで[編集]

1869年第1バチカン公会議では、カトリック教会フランス革命によって生まれた近代革命世界を否定するというスタンスがとられた。

ピオ11世[編集]

1923年5月23日、教皇ピウス11世は、枢機卿会議で、1870年に中断されたバチカン公会議を継続させるために公会議を召集することは適宜か否かを枢機卿たちに問うた。

このピオ11世の質問に対し、枢機卿たちはほぼ満場一致で公会議に反対した。特にビヨ枢機卿は、司教たちの深い見解の違いがあること、意見がまとまらない危険があること、教会に革命を起こそうとしている近代主義者たちによって公会議が操作される危険があること、伝統的なやり方よりも、民主的な慣行に適応する論争と宣伝活動が導入される危険があることを指摘した[1]

しかし第1次世界大戦後の世界で、もはやカトリック教会だけが古色蒼然とした形をたもっていることは出来なかった。特に司牧の第一線で働く聖職者、宣教者、信徒たちの間で教会の現代化の必要性は痛感されていた。

ピオ12世[編集]

1948年ピウス12世は、ピウス11世の抱いていた公会議のアイデアを検討していた。ルフィニ枢機卿とオッタヴィアーニ枢機卿は、公会議が新しい近代主義に染まった異端神学を排斥する適切なチャンスだと考えた。そこでピウス12世は、65人の司教たちに打診したが、彼らの提案は常軌を逸脱していた。そこでピウス12世は、公会議はむしろ危険である、教会を窮地に落とすと判断し、公会議開催の考えを放棄した。

ヨハネ23世[編集]

1959年1月25日、教皇ヨハネ23世は門外の聖パウロの修道院をふらりと訪れ、17人のローマ枢機卿の前で突然、公会議を召集することを告げた。これは教皇自身が下したもので、この決断は長い熟考の結果ではなく「予期しないところにふと訪れた春の木々の芽生えのように生まれた[2]。」

この突然の公会議開催の発表は大きい混乱を引き起こした[3]。多くの枢機卿らは、司教たちがマスメディアの圧力を受ける危険を指摘して、公会議招集を止めようと促した。その理由は、ヨハネ23世は、以前、ブルガリアの教皇使節(在位:1925-1934)をしていたが、当時から「帰一東方教会」が、離教の正教徒らにしている帰一宣教活動に反対しており[4]、新しいエキュメニズムを考えていたからである。

神学者の間では、カール・ラーナーイヴ・コンガールなどのように「近代社会で人類が獲得した経験知を伝統的なカトリック信仰と調和させる」ことを目指した一団と、ヨーゼフ・ラッツィンガー(後のベネディクト16世)やアンリ・ドゥ・リュバックのように「古代教会の信仰にこそ現代教会の活力の源泉が見出されるはずだ」とする一団という二つの大きなグループが生まれていた。

また、第1バチカン公会議で本来話し合われるはずであった教会論の議論(これらは普仏戦争の勃発によって中断を余儀なくされた)を行うことで教会のアイデンティティーを再確認することの大切さも十分認識されていた。このような流れの中で、つなぎの老教皇とみられていたヨハネ23世が公会議の召集を発表したことは、カトリック教会と全世界にとって驚きと同時に大きな期待を持って迎えられた。

準備期間[編集]

会議の準備に2年が費やされた。その間、まず世界中のカトリック教会関係者から公会議の議題に関する意見書が集められ、次に教皇に任命された10の各準備委員会がそれらの意見書を検討したうえで、公会議の議題の草案(ラテン語で単数形schema と書き「スケーマ」と発音する、複数形は、schemata で「スケーマタ」と発音する。フランス語では、単数形 schéma (複数形 schémas )と書き「シェーマ」と発音する)を作成した。

前準備委員会(commissio antepraeparatoria)[編集]

1959年5月17日、教皇ヨハネ23世は、当時国務長官であったタルディーニ枢機卿を委員長として、前準備委員会(commissio antepraeparatoria)を任命した[5]

1959年6月18日、前準備委員会は、全世界の司教、修道会、カトリック大学などに公会議で討論すべき話題の提案を求めた。司教たちのからの返答によれば、カトリックの教理的な明確さを要求した司教は殆どいなかった。

1960年6月5日ヨハネ23世は、自発教令『スペルノ・デイ・ヌートゥ』Superno Dei Nutu によって、第2バチカン公会議の準備のための10の委員会(commissiones praeconciliares)と3つの事務局が設立された。同時に、これらの委員会の上に、120名から成り立つ「公会議中央準備委員会 (Central Preparatory Commission for the Council)」 を置き、その委員を任命した。公会議中央準備委員会は、世界の司教たちからの提案をもとに 10の準備委員会によって起草された草案を吟味する責任があった[6]

1960年6月6日、日本の土井辰雄枢機卿を含める36人の中央準備委員が任命された。中央準備委員会、各委員、顧問(consultor)の数は、その後の任命によって更に拡大し、1961年 2月までに、710人(内訳は委員393人、顧問317人)に達していた。更に1961年 12月には、827人となっていた。1962年 6月まで、中央委員会は多くの会議を開き、公会議の準備を進めていった。

すでにこの中央準備委員会の内部で、対立する枢機卿たちの闘いが繰り広げられていた。つまり、検邪聖省長官代理アルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会とそれに協調する「ローマ派」と、キリスト者の一致促進のための事務局事務長アウグスティノ・ベア枢機卿とその補佐ヤン・ウィレブランとそれに協調するリベラル派であった。

準備委員会顧問名簿[編集]

1961年6月15日、中央準備委員会の第1回総会で、1960年6月に指名された準備委員会の顧問名簿 [7]と公会議の規定との間に矛盾があることが告発された[8]。 顧問名簿の中で、イヴ・コンガールアンリ・ドゥ・リュバックカール・ラーナーの少なくとも三人は、教会当局から制裁措置を受けた事があり、本来なら顧問になる資格がなかったにもかかわらず、名簿にその名前が記載されていた。しかし、オッタヴィアーニ枢機卿はこの告発を取り上げなかった。教皇がそれを望んでいたのだった。

中央準備委員会の総会[編集]

1962年1月20日、中央準備委員会の総会で、オッタヴィアーニ枢機卿は自分の草案「純粋に守るべき信仰の遺産について」を発表した。アルフリンク枢機卿は「一つの哲学派にとらわれている」と批判した。ベア枢機卿は「スコラ哲学的な言い回し」を攻撃した。そこでリエナール、フリンクス、アルフリンク、デフナー、ケーニッヒ、レジェーの進歩派とルッフィーニ、シリ、ララオナ、ブラウンの保守派とが、深刻に厳しく対立していた。

1962年2月23日マルセル・ルフェーブル大司教は、これらの対立を調停するように、公会議が二つの種類の文書を作ることを提案している。一つは、保守派のスコラ的で正確な学問的な表現で、現代の誤謬を拒否する「排斥文 canon」付属の草案、もう一つは、進歩派が望むような司牧的で肯定的な短い文書であった[9]。しかし、この提案は何もされず、そのままになった。

中央準備委員会の典礼についての討議[編集]

1962年 3月から4月まで、中央準備委員会の総会では、典礼に関して討議された。

1962年3月27日アンニバレ・ブニーニ神父の臨席のもと、ララオナ枢機卿はブニーニ神父草案のミサの通常文の改革計画を出席者の教父たちに説明した。ララオナ枢機卿はこの改革に抵抗試みたが、自分の前任者であったガエタノ・チコニャーニ枢機卿が署名していたので、やむなくそうした[10]

この草案は革新的な原則に従って、典礼全体を体系的に改革する計画であった。リベラルな教父たちは賞賛した。デフナーは「中央委員会に提出された全ての草案の中で、最も注目するに値するものの一つである」と賛美した。レルカノもこの草案に賛成した。

「ローマ派」の枢機卿たちは反対した。オッタヴィアーニは「過度な革新に大きく門を開きすぎる」と批判した。ゴッドフレ枢機卿は異議を唱えた。この改革は「キリスト教徒らに驚愕を引き起こす革命的な改革」(オッタヴィアーニ)であり、礼拝を捨て去り聖伝を蔑視するという意味で反典礼的だった。

1962年3月30日、アガジアニアン枢機卿は、宣教国のために自国語のミサを提案した。ルフェーブル大司教は「典礼と典礼様式に関して、司教評議会が法規を制定することができる、という原則が受け入れられると、それがたとえ教皇の承認をもってはじめて許可されるとしても、民族的典礼と国民典礼様式とに回帰してしまう、典礼の一致のための過去の二世紀のすべての努力が無駄になってしまう、芸術とグレゴリオ音楽は没落する、無秩序状態になる危険がある」と指摘した[11]

スーネンス計画[編集]

ヨハネ23世は、スーネンスを中央準備委員会員に指名したが、準備作業に全く指針を提供しなかったヨハネ23世にとって、秘密裏にスーネンスに73と多すぎる草案を縮小することを任せた。

スーネンスは、予備草案を全て二つの枠組みで作り直そうとした。教会内部に向けての発言と、教会外部に向けての発言という二つの領域である。このスーネンス計画は、第2バチカン公会議開始前の1962年4月の終わりには準備完了され、5月中旬には、教皇の命令でこの計画が、少数の有力な枢機卿たちに伝達された。デフナー、モンティーニ、シリ、リエナール、レルカノなどの枢機卿らであった[12]。これは予備草案を廃案にすることであった。準備委員会には仕事を続けさせながら、同時にその廃案を他の委員会に任せていた。

「キリスト教一致促進事務局」[編集]

「キリスト教一致促進事務局」は、10の下部の委員会に属している専門家らに対して、他の委員会で取り扱っていた議題に関する提案や草案の下書きを、エキュメニズムの観点で作成させていた。同時に、特別草案として、エキュメニズム、信教の自由及びユダヤ人問題に関する草案も準備させた。キリスト教一致促進事務局は、この3つの特別草案をオッタヴィアーニの神学委員会に送ったが、神学委員会は無視した。

1962年2月1日ヨハネ23世は、対立関係にある草案が、オッタヴィアーニ枢機卿の神学委員会およびその他の委員会を通さないで直接中央準備委員会に上がるように定めた。この一つが、信教の自由に関する草案だった。

中央準備委員会の第7回総会[編集]

1962年6月18日、最終総会である中央準備委員会の第7回総会が開かれた。

1962年6月19日、最終会議の2日前、中央準備委員会は対立関係にある二つの草案を討論することになっていた。一つは、オッタヴィアーニ枢機卿が直接作成した神学委員会の「教会と国家との関係と宗教的寛容」に関する草案[13]である。もう一つは、ベア枢機卿のキリスト教一致のための事務局が草稿した「信教の自由」という草案[14]である。

枢機卿たちは二つの陣営に分かれて、激論をした。オッタヴィアーニ枢機卿の草案の中心になる関心事は、カトリック信仰の保護であり、真の宗教における市民全員の一致に基礎をおいた世俗の共通善の保全であった。自由とは、真理と善徳のためであって、誤りや悪のためにあるのではない。ベア枢機卿の草案は、すべての場合とすべての人々に信教の自由が適用される、とした。

イタリア系、スペイン系、ラテン・アメリカ系の教父らは、オッタヴィアーニの草案に賛成し、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスの教父たちは、ベアの草案を支持して、真っ二つに対立していた。

この準備委員会はほとんどが聖座のスタッフによって編成されていたが、彼らによって73にのぼる公会議文書の草案(シェーマ、シェマータ)が完成した。

委員会は多くの草案を変更し、採用されなかった草案もあった。教会法改訂委員会に送り返されたり、他の草案と合体した草案もあった。草案の数は圧縮され縮小され 73から 20に減った[15]

7月13日、草案の内、公会議で討議されるべき7つの草案が将来の公会議教父たちに送付された。スキレベークス神父はこの草案を厳しく批判しドイツ語圏の司教たちに広く配布された。これは各国語に訳されて広く読まれた。

7月20日、中央準備委員会の職務は終了した。公会議には枢機卿団、司教団や修道会の長上、顧問神学者団以外にも歴史上初めてオブザーバーとしてプロテスタント諸教会や東方正教会の代表者たちへの参加が要請された。実際にそれらの代表団がバチカンに到着したことで、議題の一つであった教会の一致(エキュメニズム)へ向けての機運も高まっていった。

前述の人々を含んだ会議の参加者は史上空前の規模であった。予定参加者は実に2908名に及んだ。実際に第1会期の初めに参加できたのは2540人であり、全会期を通じて参加者は2100人から2300人程度になったが、それ以外にも投票権を持つ参加者(公会議教父)が私的な顧問として招聘していた神学者たちやスタッフを含めるとそれは膨大な数に上っていた。

第1会期(Sessio Prima 1962年10月11日 - 12月8日[編集]

教会憲章『フマネ・サルーティス』[16]により、第2バチカン公会議は1962年に開催されることとされ、自発教令『コンシリウム・ディウ』[17]により、開催の日は10月11日と定められた[18]

開会式(1962年10月11日)[編集]

1962年10月11日、教皇を中心とした2500人の参加者たち[19]は会場であるサン・ピエトロ大聖堂に集まり、ヴィエンヌ公会議以来の伝統的なスタイルの儀式によって公会議を開始した。そこには世界86カ国の政府から派遣された使節も参加していた。

10月11日の荘厳な開会式においてヨハネ23世教皇は、第2バチカン公会議の目的として教会の信仰の遺産を現代の状況に適合した形で表現し、信徒の一致・キリスト者の一致・世界と教会の一致をはかることだとしつつ「世界の誤謬を糾弾するものではなく、慈悲をもって世界の問題に対処する態度を追求する」公会議とすることを説いた[20]

ヨハネ23世は、公会議開会演説でその公会議の開催の理由と自分の楽観主義、公会議の方針をこう説明する。

「この会議のことは最初、ほとんど思いがけなく私の心に浮かんできたことで、次に、1959年1月25日、聖パウロの回心の祝日に当たってオスチア街道にある聖パウロ大聖堂で、そのまま単純に枢機卿各位の前で発表されたことであります。」 「日々の使徒的任務を遂行するにあたって、たびたび私の耳に届いて不愉快に思うことがあります。それは信仰の熱心に燃えていながら公平な判断と賢明な思慮を欠いた人々の声であります。この人々は、人類社会の現状を見ては破壊と災難しか見ることが出来ず、過ぎ去った世紀と比べて現代はただただ悪い方に向かってしまったと繰り返し言い続けます。... あたかも世の終りが近づいたかのように、つねに災いしか予告しない不運の預言者に私は絶対に賛成できません。」 「私たちのなすべきことは、ただこの高価な宝を守って、ひたすら古いことを研究することではありません。...この世界会議が第1にめざす目標は、教会の主要な教えのいくつかを討議することではなく、教父や過去および現代の神学者たちによって伝えられ、当然ここにご列席の皆様が知っておられる事柄を繰り返すことでもありません。...忠実に守られるべき、この確固不動の教えが、現代の要求する方法で探求され、説明されなければ成りません。尊ぶべき教えに含まれている真理、すなわち信仰の遺産そのものとこれを表す方法とは同じではありません。...おもに司牧的な性格を持つ教会の教導の任務にもっともよく合致する表現法でなければならないのです。」 「誤謬には教会はいつも反対し、時には断固とした厳しさをもって誤謬を断罪しましたが、現代のことについて申しますならば、キリストの花嫁である教会は、人々を厳しく取り扱うよりは、むしろ慈しみの薬を用いていやそうとしています。断罪するよりは、自分の教えの価値を示しながら、現代の要求に応える方が良いと思われます。」[21][22]

第1回総会(1962年10月13日)[編集]

第1会期(Sessio Prima)は10月13日の第1回総会(prima congregatio generalis)と共に開かれた。第1回総会は、委員会の委員の選挙が行われるはずだった。10の委員会はそれぞれ25人の委員を持ち、それぞれの委員長は教皇によって、さらに残る各委員会24人の内の8人は教皇によって選ばれ、のこる16人の委員は公会議が選出することになっていた。従って、公会議は計160人の委員を選ぶ予定であった。

世界中至る所から来て初めて顔を合わせる司教たちの大半は、お互いを知らず、知っていてもわずかであった。従って、お互いに知らない司教2400人のために、特別専門委員会の委員として誰が適任なのか、聖座は司教たちに提案した。

フェリチ枢機卿は参列している各司教たちに対し、選ぶ完全な自由を残しながら、第2バチカン公会議準備委員会の委員の名前のリストを配布した。その理由は、彼らは既に第2バチカン公会議の準備に携わっていたから経験を積んだ専門家だったからであり、自由に適任者を選ぶ助けになったからであった。聖座が選んだ彼らが教父たちによってそのまま選択されることは望ましいことだった。事務総長のフェリチ大司教は、委員たちの選挙に直ぐ入るように教父たちに指示した。

しかし聖座によって予期されていなかった出来事が起きた。公会議は、その初日から、公会議教父たちの大部分は、何か異常なことが起きていると感じた[23]。教皇庁のスタッフになる準備委員会によって提案された議事運営方法にリールの司教リエナール枢機卿が異議を唱えたからだ。リエナール枢機卿は、マイクを取ろうとすると、議長であったティスラン枢機卿は形だけの抵抗をした。リエナール枢機卿はマイクを取り大きな声で抗議し、フェリチ枢機卿のリストは司教らの自由を奪う教皇庁からの圧迫であると非難した。リエナール枢機卿は拍手喝采を受けた。

公会議事務総長フェリチ大司教はこれに反対の考えだったが、ケルンのフリンクス大司教が次に演説し、リエナール枢機卿を支持して更なる拍手喝采を受けた。最初の議長のティスラン枢機卿は10月16日まで選挙を延期することを宣言した。

こうして第1回総会は、わずか20分[24]で議事を終了し閉会した[25]。オランダの或る司教は、公会議会場から退場しつつ友人の司祭に「私たちの最初の勝利だった!」と叫んだ[26]

この「クーデター」を計画していた枢機卿たちは、既にライン川周辺の中部ヨーロッパ作成のリストを準備していた。それは、リベラル派のリストであった。

10月16日、第2回総会で、委員会委員の投票が行われた。しかし、投票に付しても、このリストは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得なかった。そこで、リベラルな枢機卿たちはヨハネ23世教皇に規則の例外を認めさせるように圧力をかけた。投票総数の半分以上を獲得している、これは明らかに公会議の大多数の意志である、と。教皇ヨハネ23世は公会議の規定を無視してこのリストを受け入れ、公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれた。この結果、自分たちの立てた109人の候補者の内79人が当選し「ヨーロッパ同盟」は座席の 49%を得た。教皇による指名により、更に8人がヨーロッパ同盟の委員が成立した。更に、典礼・教育・宣教・修道生活の専門として見なされていた修道会総長評議会が立てた候補者は誰一人として当選しなかった。

既製のリストによれば委員の100人はイタリア人司教が予定されていたが、イタリア人は20名に留まった。その結果、委員会は、3分の2が進歩派に属していた。冒頭の選挙において聖座を押さえて自己主張した司教らは、公会議の指導権をますます握っていった。このことは「ライン河はティベル河に流れはじめた」と論評された[27]

以降、公会議では単に教皇庁準備委員会の提示したものに参加者が賛成するのではなく、参加者たちがグループをつくって議論を繰り返しながら主体的に話し合いをすすめていくというスタイルがつくられていく。

10月15日、委員選挙と平行し、フリンクスは、リエナール、アルフリンクの進歩派は、公会議の最初の議題は最も進歩的な内容、すなわち典礼について討論されるべきだと主張し、議長団の10人はヨハネ23世にそれを要求しに謁見していた。

10月16日、同じく第2回総会で、公会議の最初の議題として最も進歩的な草案が討議されることが発表された。つまり「典礼について」であった。こうして、検邪聖省を中心とする「教皇庁的考え方は予想以上の抵抗にあって自由な前進を阻まれたのである。しかも抵抗する司教団に支持を与えたのは教皇自身であった。」[28]

第1会期では、典礼の諸問題、東方典礼の問題などが扱われた。同時に話し合われた啓示についての討論では、草案が棄却され、書き直しが求められた。第1会期は結局満足のいく成果をみることができなかったが、以後の会期の運営のあり方が確立された。

第1会期では予め準備されていたいかなる草案も承認されなかったという事実が、ラッツィンガー神父によれば「第1会期の偉大な、驚くべき、正真正銘の肯定的結果」だった。これは「準備作業の背後にあった精神に反対する強い反動」の証拠で「公会議の第一会期のエポック・メイキングな特徴である」と呼んでいる[29]

「典礼について」の草案をめぐって[編集]

1962年10月22日、第3回総会が開かれ「典礼について」の草案をめぐっての議論が開始した。これによって保守派と進歩派の対立が明らかにされた。

保守派と言われたのは、事務総長のフェリチ枢機卿、ルッフィーニ枢機卿、オッタヴィアーニ枢機卿、シリ枢機卿など教皇庁系のイタリア人枢機卿ら、アイルランドのブラウン枢機卿、スペイン系、北米、南米の教父たちであった。ローマのラテラン大学も同意見であった。

進歩派と言われたのは、ベルギーのスーネンス枢機卿、オランダのアルフリンク枢機卿、フランスのリエナール枢機卿、ドイツのフリンクス枢機卿やデフナー枢機卿、ベア枢機卿などの中央ヨーロッパ系(「ヨーロッパ同盟」と呼ばれていた)や少数の北イタリアの教父たちであった。その他、オランダのスキレベークス神父やフランスのコンガール神父、ドイツのラーナー神父などもいた。ローマのグレゴリオ大学も同意見であった[30]

「典礼について」をめぐる保守派と進歩派の対立[編集]

1962年10月22日 - 11月13日、典礼に関する草案について討論が行われた。進歩派のレジェ、アルフリンク、エルヒンガーなどの教父は、共同司式ミサパンとブドウ酒の両形色の聖体拝領を主張した。

1962年10月30日の総会で、保守派のオッタヴィアーニ枢機卿はそれに反論したが、割り当てられた十分間にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、議長であった進歩派のアルフリンク枢機卿は、規定の時間を超えるとオッタヴィアーニ枢機卿のマイクのスイッチを突然切ってしまった。屈辱を受けたオッタヴィアーニ枢機卿は黙って自分の席に戻ったが、多数の教父は嘲笑と拍手で議長を支持した[31]

「啓示の諸源泉について」の草案における意見の対立[編集]

1962年11月14日 - 11月22日、「啓示の諸源泉について」の草案について討論が行われた。

1962年11月14日、「啓示の諸源泉について」という予め作成されていた草案は、カトリックの教義を明確に出し過ぎておりエキュメニカルな観点から望ましくないと非難され、初日からリエナール、フリンクス、レジェ、ケーニッヒ、リッターなどの進歩派の教父が反対した。

11月17日、デフナー枢機卿も加わり、進歩派は準備委員会によって作られた草案全体を却下しその代わりに、既にラーナー神父によって準備されていた草案を支持した。

11月20日、議長であった進歩派のフリンクス枢機卿は「啓示の諸源泉について」の草案討議の中断を公会議の投票に付した。投票の結果、賛成は1386票、不賛成は822票であり、賛成投票は3分の2の多数には及ばなかった。事務総長のフェリチ枢機卿は、討議は続行すると宣言した。しかし、教皇ヨハネ23世は、ベア枢機卿とレジェ枢機卿の要求に屈服し、公会議の規定を無視して、この草案は破棄となった[32]

「教会について」の草案における意見の対立[編集]

1962年12月1日 - 12月7日、「教会について」の草案に関する討論が行われた。

12月1日、「教会について」という予め作成されていた草案は、初日からリエナール(この草案は「キリストの神秘体をローマ教会と同一視している」)、フリンクス(「ギリシア・ラテンの教父思想の発露がない」)、デフナー(「神の民と司教団についての説明がない」)、ド・スメット(「勝利主義的法律的傾向が強い」)、レルカノ(「貧者の教会の思想がほしい」)、モンティーニ(「キリストと教会との関係の説明が不十分」)、マクシモス(「エキュメニカルな配慮が足りない」)などの進歩派の教父が反対した。この草案は、教皇の判断と決定によって、票決されることなく廃案となった。[33]

その他の議事内容[編集]

調整委員会[編集]

12月5日ヨハネ23世は、準備委員会の作成した草案を、司牧的なもの(ad intra, すなわち教会内部に向けての信徒らへの発言)、世界的に意味があるもの(ad extra, すなわち教会外部の世界に向けての発言)という観点から、再検討することを要求し、調整委員会を設置した。キコニアーニを委員長とし、リエナール、ウルバーニ、スペルマン、コンフェロニエーリ、デフナー、スーネンスから成ったこの委員会は殆どが進歩派で占められた。

第2バチカン公会議開会の前、すでに1962年 3月に、ヨハネ23世は、秘密裏にスーネンスに多すぎる草案を掃除することを任せていたが、スーネンス計画が実行され、公会議開会の60日後には、準備されていた73の草案[34]はすべてが否決されて捨て去られることになった。

1963年6月3日、会期終了後、次の会期に向けて草案(シェーマ)の見直しや議論の整理が行われていたが、ガンを患っていたヨハネ23世は会議の終結を見ることなくこの世を去った。

1963年6月21日ヨハネ23世のあとを受けてパウロ6世が選出された、翌6月22日のラジオ・メッセージで公会議の継続を宣言した。教皇が第2バチカン公会議の第2会期を1963年9月29日に開会すると予告すると、世界中で公会議教父たちは様々な草案の研究を再び開始し出した。

1963年8月26日 - 8月29日、ヨーロッパ同盟の司教たちのイニシアティヴで、第2会期をどのように持って行くかを準備する会合がドイツのフルダで開かれた(フルダ会議 Fulda Conference)[35]

4名の運営委員 moderatores 設置[編集]

1963年9月12日付けのティスラン枢機卿への手紙により、第2バチカン公会議の第2会期開会に先立ち、新任教皇パウロ6世は、次のことを定めた。

  1. 4人の運営委員 moderatores の設定、
  2. 公会議の議長団の拡大(構成員を 10人から 12人に増加)とその職務を公会議運営手続上の問題のみに限定、
  3. 非キリスト教者との対話のための事務局の設置、
  4. 広報委員会の設置、傍聴者としての一般信徒代表の公会議への参加、
  5. 非カトリックのオブサーバーの増加、

などであった。

指名された4名の運営委員は、進歩派のデフナー、スーネンス、レルカノ、中道派のアガジャニアンであった。こうして自由主義者が公会議主導の覇権を握った。この運営委員会は、教皇庁からの介入の余地を少なくするものであった。[36]

第2会期(Sessio Secunda 1963年9月29日 - 12月4日[編集]

9月29日の第2会期(Sessio Secunda)の初頭、新教皇パウロ6世は議題が多すぎて収拾がつかなかった第1会期の結果を踏まえて、公会議の優先議題を明示した。それは以下の四つである。

  1. 教会論の確立と司教団の役割の検討
  2. 教会の刷新・現代化
  3. エキュメニズムの推進
  4. カトリック教会と現代世界の対話

第2会期においては、司教権あるいは司教団の性格、教会における聖母マリアの地位が、保守派と進歩派との論争点となった[37]

さまざまな議題について議論はつきなかったが、この会期の中で『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium) と『広報機関に関する教令』の二つが一応の成立を見たことで、このまま議論だけで終わるのではないかという参加者自身の不安が取り除かれた。

1963年9月30日、教会論の草案をめぐって討論が開始した。

司教団について[編集]

第2会期の間、「教会について」神学委員会が準備した草案が廃案となった後、新しい第2次草案が激しく討論された。

10月4日 - 10月16日、教会の最高教導機関としての司教団 ordo episcoporum, collegium episcoporum を認めるか否かが討論されて、127人の教父が発言した。教父たちは、3つの派に分かれた[38]

  • ローマ系の聖伝派:彼らによれば、教皇だけが、神授の権利により、全世界の教会の唯一の頭であり、教皇のみが最高権威の充満を完全に持つ。ペトロは、キリストの代理者(教皇)だからこそ、使徒団の頭である。司教団は、公会議という例外において、固有の行動を行使するのみ。司教団という、全教会に対する神授の最高権威は無い。
  • ラディカル・リベラル派:彼らによれば、司教たちが一つの団体を構成し、教皇は司教団体の意見を参照して始めて決断を下すことが出来る。
  • 穏健なリベラル派:彼らによれば、司教たちは一つの団体を構成し、頭である教皇に従い、教皇は、司教団体とは独立して、個人的な権能を行使することができる。ペトロは司教団の頭だからこそ、キリストの代理者である。神授の権利により、教会は恒常的に公会議状態である。教会は、教皇と、教皇と共にある司教団という二つの頭を持つ。

この問題の討議は、意見が明確に対立したまま打ち切られ、次の議題に移された。

1963年10月16日 - 10月24日、信徒についての草案が討論された。

司教団についての試験的投票[編集]

10月14日、運営委員会のスーネンス枢機卿は、司教団の問題に関して4点についての試験的投票を10月17日に行うと発表した。しかしフェリチ事務総長、議長団、調整委員会の保守派はそのような票決に反対した。このような投票を運営委員会が行うことは、調整委員会に対する越権行為であると考えられていた。反対のために10月17日の投票は行われなかった。

10月29日、運営委員会は、投票の問題点を4つではなく次の5点として発表し、翌日に投票が実施された。

  1. 司教聖別の秘蹟性
  2. 司教の団体性
  3. 教会の最高教導機関としての司教団
  4. 司教の神的起源
  5. 恒久的聖職身分としての助祭

10月30日、試験的投票の結果、5点のいずれも3分の2以上の大多数を得た。 11月5日、「司教と司教区行政について」の草案が討議された。 11月6日、マクシモス・ザイグ大主教は司教評議会の設立案を支持した。 オッタヴィアーニ枢機卿とブラウン枢機卿は、10月30日の試験的投票は神学委員会を拘束する力がない、司教団に関する教えも確立されていないと反論した。 ルフェーブル大司教は「奇蹟によったかのように、この公会議でそのような原則を見つけだしたとしたら、公会議教父たちの一人がそうほとんど断言したように、論理的に言って、ローマ教会は、天主が創立した自分の構造に関する基本原則を何も知らずに間違いつづけてきたと断定しなければならないこととなる」と論じた[39]

聖母マリアに関する草案[編集]

元来、聖母マリアに関する草案(De Beata Maria Virgine, Matre Dei et Matre hominum)は独立した文書だった。オッタヴィアーニ枢機卿はこれを独立した決議文として成立させようとしていた。[40]

しかし、1963年、第2会期が始まる前、フルダ会議で、カール・ラーナーは「エキュメニカルな観点から見て、悪い結果をもたらす」ので「分裂の原因となることを避ける平和的な妥協」を求めていた。ラッツィンガー、グリルマイアー、ゼンメルロートも同様であった[41]

9月30日、第2会期が始まるやいなや、フリンクス枢機卿は、マリアに関する草案を「過度なマリア信心」と批判し、教会論の一部として短縮し編入すべきという意見を出した。 10月2日、シルバ枢機卿もマリア論を教会論の一部とするべきと主張した。 10月3日、デ・アリッバ枢機卿は、60人の司教の名前で、マリア論を独立した草案とすべきだと要求し、約600人の司教の陳情書が提出された。 10月24日、サントス枢機卿は、独立した聖母草案を求める代表として審議報告を行い、他方でケーニヒ枢機卿は編入を求める代表として報告を行った。 10月27日、グロティ司教は、エキュメニズムとは、真理を宣言することなのか、隠すことなのか?と問うた。

10月29日、独立草案か編入かを問う投票で、賛成 1114 対 反対 1074 で、教会論への編入を要望する意見がわずかの差で多数を占めた[42]

委員会の新委員[編集]

1963年11月21日パウロ6世は、委員会の25名を30名に拡大すると決定した。

1963年11月28日、5人の増員の選挙が行われ、5人とも世界同盟(進歩派のヨーロッパ同盟の拡大版)の進歩派から選ばれた。「この拡大によって司教団の意見がよりよく会議の草案に反映されるようになった。」[43]

その他の議論[編集]

  • 1963年11月22日、「典礼について」の草案の最終票決が行われ、1963年12月4日、「典礼について」の草案(Sacrosanctum Concilium)が公布された。
  • 1963年11月14日 - 11月25日、「マスコミについて」の草案に関する討論が行われ、1963年11月25日、「マスコミについて」の草案の最終票決が行われた。最終的に1963年12月4日、「マスコミについて」の草案(Inter Mirifica)が公布された。
  • 1963年11月18日 - 11月27日、「エキュメニズムついて」の草案に関する討論が行われた。1963年11月19日 - 12月2日、信経の自由についてのテキスト(「エキュメニズムついて」の草案の第5章)に関する討論が行われた。

請願書[編集]

1963年12月3日、第2会期閉会の前日、213人の教父の署名がある「マルクス主義、社会主義、共産主義を論駁する」特別草案を要求する請願書が提出された。

1964年2月3日、教皇が公会議教父らと共に、ロシアと世界を聖母の汚れ無き御心に奉献することを求める嘆願書に、510人の高位聖職者たちが署名してパウロ六世に提出された。パウロ6世は、1965年 1月これを拒絶した。

休会中の動き[編集]

1964年初頭、パウロ6世は、コンスタンチノープル総大主教アテナゴラス1世を訪問する。

1964年5月11日 - 5月22日インスブルックでヨーロッパ同盟派の司教たちが会合を持った。

1964年1月15日、調整委員会の会合で、進歩派のデフナー枢機卿は、リベラル派にとって重要な問題のみを取り上げ、重要性の少ない細かい問題については、「指針」propositiones という形で簡単にまとめ、公会議のスピードをアップさせることを提案し採決された(デフナー計画 Döpfner plan)[44]

第3会期(Sessio Tertia 1964年9月14日 - 11月21日[編集]

翌年おこなわれた第3会期では信徒のオブザーバーたちもが招聘されて、多くのシェーマが精力的に検討された。特に教皇の首位権に関する第1バチカン公会議の決議を尊重しつつ、司教団の団体性指導原理を強調するという方法に関しての議論が白熱した。会期がすすんでもなかなか教令が形にならないことで参加者たちもあせり始めたが、最終的に『東方カトリック諸教会に関する教令』、『エキュメニズムに関する教令』 、『教会憲章』(Lumen Gentium)が成立させることができた。『司祭の役務と生活に関する教令』などのシェーマはいまだに不十分であるとして差し戻された。

司教団体主義[編集]

1964年9月15日、第3会期開会の最初、スタッファ大司教は、公会議の議会則第6節、第57条に基づき、70人の教父たちを代表して発言許可を求めた。しかしその願いは拒否された[45]

9月21日から9月29日まで、本文は一句節ずつ表決に付された。最終的には、1624票の賛成と、572票の条件付き賛成(placet juxta modum)、42票の反対となった。

1964年11月7日、スタッファ大司教はパウロ6世に手紙を書いて、司教団体主義の命題という「極端な形式」の利益のためにローマ・カトリック系神学を沈黙させようとする手続上の妨害(9月15日に発言許可が与えられなかったこと)を告発した(スタッファ作戦 Operation Staffa)。

その間に、35人の枢機卿と大修道会の5人の総長らは、パウロ6世に10月18日付きのメモを書き、革新的な教えに関する彼らの「憂慮」を表明し、草案が曖昧で多義性を持ち、公会議後に極めてリベラルな意味に解釈される危険性があると指摘し、また考察のための休憩時間と、熟考の期間を要請した。

パウロ6世は草案の多義性が持つ危険性があると信じることが出来ず、何も行動を取らなかったが、スタッファ枢機卿と同調する神学者たちの名前を列挙することを求めた。スタッファが3人の名前を挙げるとパウロ6世が高く評価する人々であり彼はうろたえた。しかし、何の手も打たなかった。その時、極端にリベラルな教父が曖昧な文章は公会議後にどのように解釈されるかを文章にした。この書面がパウロ6世に提出され、自分が欺されたと気づき涙を流した[46]

そこでパウロ6世は国務長官に命じて、オッタヴィアーニ枢機卿に司教団体主義に関する草案の諸点の表現をもっと正確に述べるように求めた。これが「予備解説的注釈」 (Nota explicativa praevia) である。

1964年11月14日、予備解説的注釈が教父らに示された。この注釈が草案に含まれている内容の意味を変えるか変えないかで議論が起こった。

1964年11月16日第123回総会で、リベラルな教父たちが「暗黒の一週間 (Black Week)」と呼ぶ週が始まった。11月16日の告知で、公会議事務総長ペリクレ・フェリチ (Pericle Felici) 大司教は、論争を終らせるために「『教会について』の草案第3章に出された修正意見に、あらかじめつけられた次の解説的注釈が、最高権威[47]によって教父たちに伝えられた 。第3章に書かれている教えはこの注釈の意向と意味にしたがって 説明され理解されなければならない」[48][49][50]と発表があり、この注釈は『教会憲章』の一部となった。

その他の討論[編集]

  • 1964年9月30日 - 10月6日、啓示についての草案が討論された。フラニッチ司教は草案は間違いではないが聖伝の充満性について大きな欠陥があると指摘した。デフナー枢機卿は78人のドイツ語圏司教らを代表して、啓示が全て聖書の中に含まれているか否かという難しい問題に触れずにうまく隠してあると賞賛した。[51]
  • 1964年10月7日 - 10月13日、信徒使徒職についての草案が討論された。
  • 1964年10月13日 - 10月15日、司祭職についての草案が討論され、「指針」propositiones に還元され、差し戻された。
  • 1964年10月15日 - 10月20日、東方教会についての教令が討論された。
  • 1964年11月6日 - 11月9日、宣教についての草案が討論され、「指針」propositiones に還元された。指針は破棄され、草案が再準備された。

現代世界における教会について[編集]

1964年9月30日、リベラル派の起草した「現代世界における教会について」の草案に追加が現れた。

1964年10月20日の上程予定日に、「現代世界における教会について」の草案(草案第13と呼ばれた)検討が上程されなかった。

1964年10月20日 - 11月10日、現代世界における教会についての教令が討論された。超自然の要素がないと批判されたが、差し戻しにはならなかった。これが後に「現代世界憲章」となる[52]

その他の議論[編集]

聖母マリアについて[編集]

1964年7月15日付けで、13名の教父たちは、請願書 (postulatum) をパウロ6世に提出して、次のことを懇願した。

  1. 聖母マリアを「教会の母」として宣言する
  2. 聖伝の教えに反する草案を廃案とする

1964年9月16日 - 9月17日、聖母マリアの称号について議論された。 1964年11月18日、聖母マリアに関する草案の票決[53]

第3会期で提示された文章では、前会期の終了時にパウロ6世が表明した希望にもかかわらず、「教会の母」という称号は削除されていた。カスタン・ラコマ司教は 80人の教父を代表してこの称号を再挿入することを要求した。しかし、これは無視された。

1964年11月21日、総会最後の日、パウロ6世は「教会の母 (Mater Ecclesiae)」という称号を聖母マリアに与えると、自発教令で発表した。

第4会期(Sessio Quarta 1965年9月14日 - 12月8日[編集]

公会議は1965年にいよいよ予定された最終会期を迎えたが、依然として11の草案が決議に至らずに残されていた。特に「シェーマ13」と呼ばれた現代世界と教会のありかたに関する文章は重要案件であり、何度も修正が重ねられていたが、いまだにまとまるめどがたたなかった。『信教の自由に関する宣言』 の草稿も議論が繰り返されたが、なかなか多数に受け入れられるものになっていなかった。

この会期の初頭で教皇が、司教会議(シノドス)を立ち上げることを宣言したことが大きなニュースとなった。シノドスは実際に公会後終了後に各地で行われることになり、現代に至っている。

最終的に啓示の扱いについて紛糾した『神の啓示に関する教義憲章』(啓示憲章 Dei Verbum)が参加者の賛成多数によって成立に至ったことで、すでに議論が重ねられていたシェーマも続々と成立していった。それらは『教会における司教の司牧任務に関する教令』、『修道生活の刷新・適応に関する教令』、『司祭の養成に関する教令』、『信徒使徒職に関する教令』、『教会の宣教活動に関する教令』、『司祭の役務と生活に関する教令』 および『キリスト教的教育に関する宣言』 、『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』、『信教の自由に関する宣言』 といったものであった。もっとも難産となった憲章、現代世界とのかかわりについて何をどこまで踏み込んで表現するかが議論となった『現代世界憲章』(Gaudium et Spes)は12月にはいってようやく成立し、参加者一同が胸をなでおろした。

1965年9月15日、司教シノドゥスを創設した。

議論された内容[編集]

教令の発布[編集]

  • 1965年10月28日、「修道生活の刷新について」、「司祭の養成について」、「教会における司教の司牧の責務について」、「キリスト教教育について」が公布された。
  • 1965年11月18日、「啓示について」。「信徒使徒職について」が公布された。
  • 1965年12月7日、「信教の自由について」、「宣教について」、「司祭の役務と生活について」、「婚姻について」が公布された。
  • 1965年12月7日、教皇パウロ6世は公会議閉会演説において公会議の意義を宣言した。

「しかし、ここで次のことに注意しなければなりません。教会は特別の教導権によって、特別の教義を定義しませんでしたが、多くの問題について、現代人の良心の基準となり、行動の原理となる事柄を権威をもって教えたのであります。そのうえ教会は、現代人と対話を始めたのであります。常に自己の権威と力を保持しながら、司牧的愛に特有な親切と友好的態度をとったのであります。全ての人が教会に耳を傾け、教会を理解することを望んだのです。そのため知識階級の人々だけが理解できるような表現ではなく、普通一般に用いられている表現を使ったのであります。更に人々の心をひきつけ、人々を説得するために、生活体験や人々の心に呼びかけたのであります。すなわち、教会はあるがままの現代人に話しかけたのであります。」[55]

第2バチカン公会議の閉会[編集]

12月8日、教皇はサン・ピエトロ広場で公会議の終了を宣言し、世界のあらゆる人々にむけたメッセージを発表。ここに4年にわたった第2バチカン公会議の幕が下ろされた。

公会議の解釈[編集]

公会議が取り扱った内容を見る前に、公会議をどのように解釈するかという問題に触れなければならない。その理由は、公会議をどのように解釈するかに、その内容も委ねられているからである。

第2バチカン公会議の第1にめざすべき目標として教会の教えが現代人にも理解できるように「現代の要求する方法で探求され、説明され」ること、現代人によく伝わるように新しい言い方を用いて「司牧的な性格を持つ教会の教導の任務にもっともよく合致する表現法」による説明をめざした[56]

しかし、理解しやすい説明をしたはずだった公会議は、その正しい理解の仕方と解釈が問題とされている。公会議の20周年に当たる1985年、ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は第2バチカン公会議は正しく理解されていないと訴えてこう発言している。

この二十年間(1965~85年)がカトリック教会にとって決定的に不利であった、ということには議論の余地がない公会議に続く結果は、ヨハネ23世やパウロ6世を始めとするみんなの期待を無惨にも裏切ったかに見える。キリスト教徒は、再び、古代末期以来かつてない少数派になってしまった。・・・公会議の教皇たちや教父達は、カトリック的な新たな一致を期待していたのに、---パウロ6世の言葉を借りて言えば---自己批判から自己破壊になりかねない不一致に直面した。・・・躍進をこそ期待したのに、結果的には衰退を見せつけられ、それは公会議の真の精神の権威を失墜させる自称 "公会議精神" の掛け声のもとで蔓延していった。

『信仰について』pp 40-41

公会議の本来の顔を示すのは今後の大仕事である。

『信仰について』p 45

この "真の" 公会議に対して、実際には真の "反精神" である偽称 "公会議精神" が張り合った。この致命的な反公会議精神---ドイツ語で言うとKonzils-Ungeist---によれば、すべて "新しいもの"、あるいは新しいと推定されるものは、今まであったもの、あるいは今あるものよりも常に、何はともあれいいものなのだ。

『信仰について』pp 46-47

第2バチカン公会議の真の時はまだ来ていないのかもしれないし、その真正の受信はまだ始まっていないのかもしれない。公会議諸文書の明文の再読は必ずや私たちにその真の精神を再発見させるだろう。

『信仰について』p 54

公会議が閉会して40年が経過した後でさえ、ベネディクト16世は第2バチカン公会議の真正な理解と解釈について問題にした。

ふさわしい公会議の理解とは何でしょうか。また、不適切な、あるいは間違った公会議理解とは何でしょうか。まだしなければならないことは何でしょうか。教会のかなりの部分において、公会議の実施がある意味で困難だったことを誰も否定できません。偉大な教会博士、聖バジリオは、ニケア公会議後の教会の状況について次のように述べています。やろうと思えば、このことばは、過去 40年の間に起こったことにあてはめることができます。バジリオは、教会の置かれた状況を嵐の暗闇の中で行われる海戦になぞらえます。「意見が対立し、互いにいがみ合う者たちの騒がしい叫び声、理解を超えた流言、絶え間なく騒ぎ立てる混乱した話し声――これが、今やほとんど教会全体を満たし、行き過ぎや誤謬によって信仰の正しい教えを歪めている」。わたしたちは公会議後の状況にこの劇的な記述をそのままあてはめたいとは思いませんが、すべての出来事のいくぶんかはこの記述に反映されています。ここで疑問が生じます。なぜ、教会の多くの部分において、これまで公会議の実施がそれほど難しかったのでしょうか。この疑問に答えるには、何よりも、公会議の正しい解釈が必要です。あるいは、今日、そういってよければ、適切な解釈法、すなわち公会議の解釈と適用の鍵となる正しい方法が必要です。公会議の実施における諸問題は、二つの相対立する解釈法が互いに反目し、論争し合うことから生じました

教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭の挨拶

教会の危機 も参照

ベネディクト16世によれば、最初の解釈法は、「不連続と断絶による解釈法」である。もう一つの解釈法は「改革による解釈法」である。

不連続と断絶による解釈法[編集]

「不連続による解釈法は、あえて公会議前の教会と公会議後の教会の断絶を帰結させ」[57]る革命的な見解を取る。この見解によれば、「公会議を、旧憲法を廃止して、新憲法を制定するための憲法制定議会のようなものと考え」[58]、これによって全ては新しくなった。公会議は「新しい聖霊降臨」の機会であって、教会は自分の醜くさせているまた自らの使命を果たすことが妨げる全ての汚れを取り払った。 「不連続による解釈法が説得力を持つように思わせる・・・特別な理由」[59]は、パウロ6世の公会議閉会演説である。人間に関して激しい議論が行われてきたことが、近代の特徴であり、公会議は特別な意味で人間論というテーマを取り上げた。これらすべての問題から、ある種の不連続が生じる可能性があった。実際に、ある意味では不連続が現れた。パウロ6世の言うように「人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略した」[60]限り、現代の人々と現代世界に合わせて、新しい教会論にそって、教会を新しく作り直すべきである。教皇首位権司教の権能、司祭職と独身制度、信教の自由、エキュメニズム、神の民の役割、結婚と性道徳、典礼など。「このような革新のみが、公会議の真の精神を表すものであり、この革新から、またこの革新に従うならば、前進することが可能となると、彼らは考え」ている。 「この解釈法は、公会議文書そのものは公会議の真の精神をまだ表現していないといい」、「第2バチカン公会議文書は妥協の産物」[61]であると主張する。例えばマルティニ枢機卿[62]や濱尾枢機卿[63]がそう主張する。

改革による解釈法[編集]

改革による解釈法を最初に示したのは、教皇ヨハネ23世による1962年10月11日の公会議開会演説であった。後にこの解釈法は、教皇パウロ6世が1965年12月7日に行った公会議閉会演説でも示された。

ベネディクト16世ヨハネ23世を引用してこう言う。

公会議が望むのは、「教義を弱めることも歪めることもなしに、純粋で完全なしかたで伝えること」です。教皇は続けてこういいます。「わたしたちの務めは、あたかも骨董(こっとう)趣味のように、この高価な宝を守ることだけではありません。わたしたちの務めは、わたしたちが生きている時代がわたしたちに求めている活動に、誠意をもって、畏れることなく取り組むことです」。必要なのは「教会の教えのすべてを、完全に、また正確に守ることです」。このことは「正統な教義との忠実かつ完全な一致の内に示されます。しかしながら、教義は、さまざまな研究方法と現代思想のさまざまな文学的形態を通して研究され、拡大されなければなりません。信仰の遺産における古代の教義の実体と、同じ意味とメッセージを保ちつつ、その教義を提示する方法は、別の事柄です」(『第二バチカン公会議文書集』:Sacrosanctum Oecumenicum Concilium Vaticanum II, Constitutiones Decreta Declarationes, 1974, pp. 863-865)。

教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭の挨拶

公会議の取り扱ったテーマ[編集]

公会議のテーマは多岐にわたっているが、ここでは主なものをあげる。

教会論[編集]

公会議の目に見える形でのもっとも大きな成果となったのが、中世以来の懸案であった教会論の確立である。これは『教会憲章』にみることができる。

第1章「教会の秘儀について」では、カトリック教会が唯一にして聖であり、普遍的なものであること、イエスがペトロに与えた権能を引き継ぐ教皇と司教たちによって治められる組織であるといいつつ、カトリック教会以外にも聖化と真理の要素が数多く見出されると補足する事で独善的傾向を避けている。

第2章「神の民について」では神が個人でなく人々のグループを聖性に招いていること、その祖形がユダヤ民族に見られることを示す。また、カトリック教会に属さないキリスト教徒たち、ユダヤ教徒、イスラム教徒たちも唯一の神において互いに結ばれていると言明される。

第3章「教会の聖職位階制度、特に司教職について」では第1バチカン公会議の議論を補完する形で教皇職の意味と司教団の団体制原理が示される。

以下、第4章「信徒について」、第5章「教会における聖性への普遍的召命について」、第6章「修道者について」、第7章「旅する教会の終末的性格および天上の教会との一致について」、第8章「キリストと教会の秘儀との中における神の母、処女聖マリアについて」と続くが、特にその中でそれまで聖職者・司祭は信徒より聖性のレベルが高いとみなしてきた教会が「すべての人が聖性に招かれている」という表現をしたことが革新的であるといえる。特にキリスト教の2000年の歴史の中で初めて信徒が公式文書の中で言及されたことは特筆に価する。また、第8章のマリア論に関する部分は元来独立した文章になる予定であったが、エキュメニズム的観点とカトリック以外のキリスト教に対して攻撃的になってはならないという配慮からこの中に組み込まれた。

典礼[編集]

この公会議の後、外見的な部分で教会が変わったと人々を実感させたのは典礼の改革であった。この精神は『典礼憲章』にくわしい。教会は典礼においてすべての人が積極的にこれにかかわることが求められるとして、多くの改革を実行した。たとえばそれまでほとんどラテン語で行われていたミサおよび典礼の諸儀式が各国語で行われることになった。また司教の判断のもとに(全世界で一様でなく)その地域文化に根ざした典礼のあり方が模索されることになった。(典礼の見直しにともなって、レクイエム・ミサにおける続唱(「怒りの日」など)も廃止された。歌詞の内容があまりにも最後の審判への不安や恐怖を強調しすぎており、本来のキリスト教の精神から遠いというのが理由であった。)

聖書と啓示[編集]

カトリック教会は古代以来一貫して重要視してきた「聖書と聖伝(聖なる伝承)」を保持しつつも、その現代世界への適応を目指した。具体的には聖書の各国語訳のさらなる研究が推奨された。そして聖職者と信徒にとっての聖書研究の重要性が改めて認識された。それまでのカトリック教会は聖書の研究は聖職者がすることであるとみなし、信徒がすすんで研究することはあまり推奨していなかったのである。

司教のあり方について[編集]

教会における司教の位置づけも新しい観点によって照らしなおされた。特に司教の団体制という考え方がこの公会議の精神の特徴になっている。これは教皇と司教団がペトロと使徒たちのように1つとなって教会を司牧していくという考え方である。また、公会議以降それぞれの地域で司教たちが集まって会議を開くようになった。これがシノドスである。ただ、シノドスでの議決については三分の二以上の賛成と聖座の認可によって初めて有効性を持つということが定められている。

公会議の影響[編集]

アジョルナメント(現代化)をテーマに行われた公会議は、教会の現代世界への適応にかける強い意気込みを示すことになった。この会議での決定事項は以降、パウロ6世によって実施が推進され、ヨハネ・パウロ1世からヨハネ・パウロ2世へと公会議理念の実践がすすめられていくことになる。

  • 1968年6月18日、使徒憲章『Pontificalis romani』によって、叙階の秘蹟の新しい儀式が発表される。
ピオ12世は1947年11月30日付けの使徒憲章『Sacramentum Ordinis』で、不可謬権を行使して叙階の秘蹟の質料と形相を定義した。それによると、司祭叙階の質料は「司教によって沈黙の内になされる最初の按手」である。司祭叙階の有効性のために必要な形相は「叙唱」の中の次の言葉である。
"Da, quaesumus, omnipotens Pater, in hunc famulum tuum Presbyterii dignitatem; innova in visceribus eius spiritum sanctitatis, ut acceptum a Te, Deus, secundi meriti munus obtineat censuramque morum exemplo suae conversationis insinuet."
パウロ6世1968年6月18日付け使徒憲章『Pontificalis romani』による新しい儀式によって、司祭叙階の形相は次のように変えられた(以前あった ut が欠如している)。
"Da, quaesumus, omnipotens Pater, in hos famulos tuos Presbyterii dignitatem; innova in visceribus eorum Spiritum sanctitatis; acceptum a Te, Deus, secundi meriti monos obtineant, censuramque morum exemplo suae conservationis insinuent."
ピオ12世の同じ使徒憲章によると、司教聖別の質料は「聖別する司教によってなされる按手」である。司教聖別の有効性のために必要な形相は「叙唱」の中の次の言葉である。
"Comple in Sacerdote tuo ministerii tui summam, et ornamentis totius glorificationis instructum coelestis unguenti rore santifica."
パウロ6世の同じ使徒憲章によって、司教聖別の形相は次のように変えられた。
"Et nunc effunde super hunc electum eam virtutem, quae a te est, Spiritum principalem, quem dedisti dilecto Filio Tuo Jesu Christo, quem ipse donavit sanctis Apostolis, qui constituerunt Ecclesiam per singula loca, ut sanctuarium tuum, in gloriam et laudem indeficientem nominis tui."
  • 1969年2月13日付け自発教令『Mysterii paschalis』によって、新しい典礼暦が発表される。
  • 1969年3月、新しい婚姻の儀式の発表。1990年に改正版の新しい婚姻の儀式の発表。
  • 1969年4月3日、使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』により、新しいミサが発表される。
  • 1969年5月15日、新しい洗礼の儀式が誕生する。1972年1月6日、成人洗礼の新しい儀式の発表。
  • 1970年11月1日付けの使徒憲章『Laudis canticum』および1971年4月11日の教令により、新しい聖務日課が発表される。
  • 1970年12月3日の教令により、新しい聖香油の儀式の発表。
  • 1971年8月15日、使徒憲章『Divinae consortium naturae』により、新しい堅振の儀式の発表。
  • 1972年11月30日付けの使徒憲章、及び1971年8月22日の教令により、新しい終油の秘蹟(「病者の塗油」となる)。
  • 1973年12月2日の教令により、新しい悔悛の秘跡(「和解の秘蹟」となる)。
  • 1983年1月25日、使徒憲章『Sacrae disciplinae leges』により、カトリック新教会法典。
  • 1991年、新しい十字架の道行きの発表。新しい十字架の道行きには14留にさらに第15留が付け加わり、様々な変更がなされた。
  • 1998年、新しい払魔式(Exorcismus)の発表。
  • 2001年6月29日、新しい殉教録の発行。この中に6538名の聖人及び福者の名前が掲載されている。そのうち約3分の1である1717名はヨハネ・パウロ2世によって列聖列福された。
  • 2002年10月16日、回勅『Rosarium Virginis Mariae』により、新しいロザリオの祈りが提案された。

脚注[編集]

  1. Giovanni CAPRILE, SJ, Il concilio Vaticano II, Cronache del concilio Vaticano II, Civilta ccattolica, Roma, vol.V, 1968, pp 681-701
  2. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社283ページ
  3. Giuseppe Alberigo, Jean XXIII devant l'histoire, Seuil, 1989, p204, notes 17, 18.
  4. letter to Christo Morcefki
  5. この中にはアルカデオ・ララオナ、ピエトロ・パラッツィーニ大司教、ディノ・スタッファ大司教、ポール・フィリップ神父などがいた。
  6. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社284ページ
  7. Documentation Catholique, 1346, 267 sq. Documentation Catholique, 1367, 67 sq.
  8. Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars I, 316
  9. Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars II, 417 - 418
  10. ララオナ枢機卿が改革に反対したことは次にある。Annibale Bugnini, La Riforma Liturgica, CLV, Roma, 1997, p41
  11. Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando; Polygl. Vat. series II (praeparatoira), vol. II, pars III, 384 385.
  12. Giuseppe Alberigo, Jean XXIII devant l'histoire, Seuil, 1989, p191. Etienne Fouilloux, Vatican II commence, Univ. cath. de Louvain, 1993, p149
  13. 本文 9ページと、ピオ9世からピオ12世までの歴代教皇の引用文からなる末尾注が 14ページ
  14. 本文 15ページと、教会教導権の引用が全くない5ページの末尾注
  15. ウィルトゲン神父は75の草案が成立していたという。"After two year' work, ending on the eve of the council with the dissolution of most of these bodies, a total of seventy-five schemas had been prepared. ... the seventy-five schemas were ultimately reduced to twenty. ... It was certain, however, that no other council had had a preparation "so vast, so diligently carried out, and so profound."" Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p22.
  16. Constitutio Apostolica "Humanae Salutis", 1961年12月25日
  17. Motu proprio "Consilium Diu", 1962年2月2日
  18. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社287ページ
  19. Herder Korrespondenz 17 (1962/1963), 89ページによれば、第2バチカン公会議開会当日には、2540人の教父(patres concilii 公会議に参加する司教らのこと)が集まったとされる。同史料63ページによれば、当時の参加有権者総数は3043人であった。公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社を参照のこと
  20. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 287ページ
  21. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 328-338ページの沢田和夫訳による。
  22. ヨハネ23世は、レジェ、フリンクス、アルフリンク、スーネンス、ケーニヒ、リエナールが共同署名した嘆願書を受け取っていた。嘆願書は、公会議が誤謬を断罪しないことを要求していた。 G Routhier, "Le Cardinal Léger et la préparation de Vatican II", in Revue d'Histoire de l'Eglise de France, no. 205 (1994): 301.
  23. ルフェーブル大司教 迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ ---
  24. ウィルトゲン神父はミサを含めて50分だったという。The first business meeting, including Mass, had lasted only fifty minutes. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 17.
  25. ティスラン枢機卿は、後に、ジャン・ギトンに、公会議が開かれる前に自分を含めて進歩派の枢機卿たちが集まって、ヨハネ23世によって作られた規則を拒否し、第一回総会を乗っ取ることを決めていたことを打ち明けている。Jean Guitton, Paul VI secret, p123. in Romano Amerio, "Iota Unum" (NEL, 1987), p80.
  26. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 17.
  27. After this election, it was not too hard to foresee which group was well enough organized to take over leadership at the Second Vatican Council. The Rhine had begun to flow into the Tiber. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 19.
  28. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社292ページ
  29. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 59.
  30. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社288-289ページ
  31. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 290ページ
  32. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 290-291ページ
  33. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社291-292ページ
  34. 1962年12月5日の総会で配布された史料によると、準備委員会が作成した73の草案は20に削減され、1963年3月末に、調整委員の手で17に縮小された。公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 292-293ページ参照
  35. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, pp 78-84
  36. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年 中央出版社 294ページ
  37. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 294ページ
  38. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p228
  39. 日本語はトマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)による
  40. この準備された草案は聖母マリアを「すべての聖寵の仲介者」という称号でも呼んでいた。しかし準備委員会の会議ですでに、リエナール枢機卿はこの称号に抗議していた。
  41. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p176
  42. When the votes were counted, there were 1114, in favor of combining the two schemas; the required majory was only 1097. Father Rahner - and the European alliance - had won by a margin of seventeen votes. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 95. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 296ページでは、投票の日付が10月30日となっているが、正確には10月29日。同様に、公会議解説叢書3『自覚を深める教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 565ページも「10月24日の票決に先立って」は「10月24日には、票決に先立って」と読むべきである
  43. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 298ページ
  44. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 299ページ。Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 146.
  45. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p230
  46. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p231-232
  47. 教皇パウロ6世のこと
  48. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 pp333―334
  49. CONSTITUTION ON THE CHURCH LUMEN GENTIUM 'NOTIFICATIONES' GIVEN BY THE SECRETARY GENERAL OF THE COUNCIL AT THE 123rd GENERAL CONGREGATION, NOVEMBER 16, 1964
  50. EX ACTIS SS. OECUMENICI CONCILII VATICANI II NOTIFICATIONES
  51. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 177.
  52. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, pp 210-211
  53. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 154
  54. Rev. Ralph Wiltgen, SVD Rhine Flows into the Tiber, 1985, TAN Books, p 251.
  55. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 p445-446
  56. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修 1969年 中央出版社 328-338ページの沢田和夫訳による。
  57. 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ
  58. 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ
  59. 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ
  60. 公会議解説叢書6『歴史に輝く教会』南山大学監修1969年中央出版社 pp 440-448
  61. 教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ
  62. Metamorphosis: Cardinal Martini's Latest Phase
  63. Japan Cardinal Hopes Next Pope Calls Vatican III

公会議文章一覧[編集]

  • 『広報機関に関する教令』
  • 『東方カトリック諸教会に関する教令』
  • 『エキュメニズムに関する教令』
  • 『教会における司教の司牧任務に関する教令』
  • 『修道生活の刷新・適応に関する教令』
  • 『司祭の養成に関する教令』
  • 『信徒使徒職に関する教令』
  • 『教会の宣教活動に関する教令』
  • 『司祭の役務と生活に関する教令』
  • 『キリスト教的教育に関する宣言』
  • 『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』
  • 『信教の自由に関する宣言』

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 南山大学監修、『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986

外部リンク[編集]

http://www.vatican.va/archive/hist_councils/ii_vatican_council/index.htm

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