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'''徳川 義知'''(とくがわ よしとも、[[1911年]][[5月22日]] - [[1992年]][[4月14日]])は、[[尾張徳川家]]の第20代当主。英国への留学歴があり、英語力を活かして父・[[徳川義親]]が関与していた1939年-1940年の[[排英運動]]・対英工作や1942年の日本軍によるシンガポール占領後の[[英領マラヤ|マラヤ]]の[[スルターン|スルタン]]統治に関与した。戦後、[[日英協会]]の理事や[[日本赤十字社]]の常任理事を務めた。
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'''徳川 義知'''(とくがわ よしとも、[[1911年]][[5月22日]] - [[1992年]][[4月14日]])は、[[尾張徳川家]]の第20代当主。中学校卒業後、[[英国]]へ留学。1934年に帰国した後、英語力を活かして父・[[徳川義親]]が関与していた1939年-1940年の[[排英運動]]・対英工作に関与。1940年6月の[[オイゲン・オット|オットー]]駐日ドイツ大使と[[小磯国昭]][[拓務大臣]]の会談を斡旋、通訳を務めた。1942年の日本軍によるシンガポール占領後、[[英領マラヤ|マラヤ]]の[[スルターン|スルタン]]統治に関与した。戦後、[[日英協会]]の理事や[[日本赤十字社]]の常任理事を務めた。
  
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
1911年5月22日、東京で、父・[[徳川義親|義親]]と母・正子の間に、6人きょうだいの1番目(長男)として生まれる{{Sfn|徳川|2006|pp=84,87,101}}。[[尾張徳川家]]の初代・[[徳川義直|義直]]の幼名に因んで「五郎太」と名付けられた{{Sfn|徳川|2006|p=101}}。
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1911年5月22日、東京で、父・[[徳川義親|義親]]と母・正子の間に、6人きょうだいの1番目(長男)として生まれる{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=84,87,101}}。[[尾張徳川家]]の初代・[[徳川義直|義直]]の幼名に因んで「五郎太」と名付けられた{{Sfn|徳川義宣|2006|p=101}}。
  
[[暁星中学]]を卒業{{Sfn|小田部|1988|p=22}}{{Sfn|徳川|2006|p=87}}。1921年-1922年にかけて、義親夫妻が1年間ヨーロッパへ旅行していた間、[[文京区]]に住んでいた[[八代六郎]]に預けられた{{Sfn|徳川|1973|p=60}}。
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1921年-1922年にかけて、義親夫妻が1年間ヨーロッパへ旅行していた間、[[文京区]]に住んでいた[[八代六郎]]に預けられた{{Sfn|徳川義親|1973|p=60}}。
  
1931年、[[華族]]の長男として成人したため、[[従五位]]に叙せられ、名を「義知」と改める。尾張徳川家の第20代。同年12月に設立された[[尾張徳川黎明会]]の副会長に就任。会長は父・義親だった。{{Sfn|徳川|2006|pp=101-102}}
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(いつ?)[[暁星中学]]を卒業{{Sfn|小田部|1988|p=22}}{{Sfn|徳川義宣|2006|p=87}}
  
その後、2年余りの間、[[英国]]に留学{{Sfn|徳川|2006|p=101}}
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1931年、[[華族]]の長男として成人したため、[[従五位]]に叙せられ、名を「義知」と改める。尾張徳川家の第20代。同年12月に設立された[[尾張徳川黎明会]]の副会長に就任。会長は父・義親だった。{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=101-102}}
  
1934年11月に帰国し、翌1935年8月から[[東京帝室博物館]]に研究員として勤務{{Sfn|徳川|2006|p=102}}。同年10月に[[松平恒雄]]の次女・正子と結婚{{Sfn|徳川|2006|pp=87,102}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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同年から1934年まで[[英国]]に留学{{Sfn|徳川義宣|2006|p=101}}{{Sfn|徳川|1947|p=2}}。
  
尾張徳川家が[[目白]]に開設した啓明寮の寮長を務め、素人楽団を組織して、指揮を担当。各地から招待を受けて、演奏旅行をするなどした。{{Sfn|徳川|2006|pp=87-88}}
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1934年11月に帰国し、翌1935年1月ないし8月から[[東京帝室博物館]]に嘱託(研究員)として勤務(1947年当時も在職){{Sfn|徳川義宣|2006|p=102}}{{Sfn|徳川|1947|p=2}}。同年10月に[[松平恒雄]]の次女・正子と結婚{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=87,102}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}
  
1939年頃の[[排英運動]]の際には、父・義親とともに対英工作に携わり、[[警視庁外事課]]と連絡を取り、英国駐日大使館からの情報収集などを行った{{Sfn|小田部|1988|pp=119-121}}{{Sfn|粟屋|小田部|1984|p=291}}。
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尾張徳川家が[[目白]]に開設した[[啓明寮]]の寮長を務め、素人楽団を組織して、指揮を担当。各地から招待を受けて、演奏旅行をするなどした。{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=87-88}}
  
1940年6月14日に[[ナチス・ドイツ]]が[[パリ]]を陥落させた後、同月20日に[[オイゲン・オット|オット]]駐日ドイツ大使と[[小磯国昭]][[拓務大臣]]が会談して、[[三国同盟]]の締結と日本の[[仏印]]・[[蘭印]]占領について相談した際には、[[拓務省]]嘱託として会談を斡旋し、通訳にあたった{{Sfn|粟屋|小田部|1984|p=293}}。
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1939年4月から8月まで、[[拓務省]]嘱託{{Sfn|徳川|1947|p=2}}。同年頃の[[排英運動]]の際には、父・義親とともに対英工作に携わり、[[警視庁外事課]]と連絡を取り、英国駐日大使館からの情報収集などを行った{{Sfn|小田部|1988|pp=119-121}}{{Sfn|粟屋|小田部|1984|p=291}}。
  
1942年2月、[[太平洋戦争]]開戦時には、英語力を買われ、軍の通訳官として東南アジア([[仏印]]?)で働いており、[[シンガポール]]占領後の同年3月に[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]軍政顧問となった父・義親とともに[[英領マラヤ|マレー]]に入り、[[スルターン|スルタン]]の統括を担当していた義親の連絡役として[[ジョホール王国|ジョホール]]のスルタンに「版籍奉献」を打診するなどした{{Sfn|小田部|1988|pp=145-146,148-149}}{{Sfn|徳川|2006|pp=88,102}}。
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1940年1月から7月まで、再度[[拓務省]]嘱託{{Sfn|徳川|1947|p=2}}。同年6月14日に[[ナチス・ドイツ]][[パリ]]を陥落させた後、同月20日に[[オイゲン・オット|オットー]]駐日ドイツ大使と[[小磯国昭]][[拓務大臣]]が会談して、[[三国同盟]]の締結と日本の[[仏印]]・[[蘭印]]占領について相談した際に、オットー大使と面識があったことから会談を斡旋し、通訳にあたった{{Sfn|粟屋|小田部|1984|p=293}}{{Sfn|徳川|1947|pp=2-3}}。
  
帰国後、1943年12月から[[大森]]に設置されていた[[東京俘虜収容所]]に勤務した{{Sfn|徳川|2006|pp=88,102}}。
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1940年から[[司法保護事業]][[乳香園]]嘱託(1947年当時も在職){{Sfn|徳川|1947|p=2}}。
*{{Harvtxt|徳川|2006|pp=88,102}}によると、同収容所の職員は戦後、捕虜から虐待の罪で戦犯訴追を受けることが多かったが、義知は感謝状をもらい、元捕虜と戦後も親交があったという。
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戦後、1945年9月に[[日本赤十字社]]に入社し、戦地からの復員引揚げや医療福祉事業に従事{{Sfn|徳川|2006|pp=88,102-103}}。赤十字社は皇后を名誉総裁とし、宮家の人物が催事に出席することも多く、義知はその接待役を務めた{{Sfn|徳川|2006|pp=88,102-103}}。
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1942年2月、[[太平洋戦争]]開戦時には、英語力を買われ、軍の通訳官として東南アジア(仏印?)で働いており、[[シンガポール]]占領後の同年3月に[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]軍政顧問となった父・義親とともに[[英領マラヤ|マレー]]に入り、[[スルターン|スルタン]]の統括を担当していた義親の連絡役として[[ジョホール王国|ジョホール]]のスルタンに「版籍奉献」を打診するなどした{{Sfn|小田部|1988|pp=145-146,148-149}}{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=88,102}}。
  
1946年1月、[[公職追放]]を受けて父・義親が黎明会の会長を辞職したことに伴い、同会会長に就任{{Sfn|徳川|2006|pp=102-103}}。
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帰国後、1943年12月から[[大森]]に設置されていた[[東京俘虜収容所]]に勤務した{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=88,102}}。
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*{{Harvtxt|徳川義宣|2006|pp=88,102}}によると、同収容所の職員は戦後、捕虜から虐待の罪で戦犯訴追を受けることが多かったが、義知は感謝状をもらい、元捕虜と戦後も親交があったという。
  
赤十字社のほかに、社会福祉法人・[[大泉旭出学園]]や社会福祉法人[[富士旭出学園]]の理事長も務めた{{Sfn|徳川|2006|p=103}}。
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戦後、1945年8月ないし9月に[[日本赤十字社]]に入社し、戦地からの復員引揚げや医療福祉事業に従事{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=88,102-103}}{{Sfn|徳川|1947|p=2}}。
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*赤十字社は皇后を名誉総裁とし、宮家の人物が催事に出席することも多く、義知はその接待役を務めた{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=88,102-103}}。
  
1951年から[[日英協会]]の理事、1965年から死去まで同会副会長を務めた{{Sfn|徳川|2006|p=88}}。
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1946年1月、[[公職追放]]を受けて父・義親が黎明会の会長を辞職したことに伴い、同会会長に就任{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=102-103}}。
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赤十字社のほかに、社会福祉法人・[[大泉旭出学園]]や社会福祉法人[[富士旭出学園]]の理事長も務めた{{Sfn|徳川義宣|2006|p=103}}。
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1951年から[[日英協会]]の理事、1965年から死去まで同会副会長を務めた{{Sfn|徳川義宣|2006|p=88}}。
  
 
1988年頃、[[日本ヘラルド映画]]監査役{{Sfn|小田部|1988|p=22}}。
 
1988年頃、[[日本ヘラルド映画]]監査役{{Sfn|小田部|1988|p=22}}。
  
晩年には日本赤十字社の常任理事となった{{Sfn|徳川|2006|pp=88,102-103}}。
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晩年には日本赤十字社の常任理事となった{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=88,102-103}}。
  
1992年4月14日に死去、享年81{{Sfn|徳川|2006|p=101}}。遺骨は[[瀬戸市]]の[[定光寺]]にある尾張徳川家の納骨堂「崇徳院」に納められた{{Sfn|徳川|2006|p=105}}。
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1992年4月14日に死去、享年81{{Sfn|徳川義宣|2006|p=101}}。遺骨は[[瀬戸市]]の[[定光寺]]にある尾張徳川家の納骨堂「崇徳院」に納められた{{Sfn|徳川義宣|2006|p=105}}。
  
 
== 家族 ==
 
== 家族 ==
*父は徳川義親、母・米子{{Sfn|徳川|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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*父は徳川義親、母・米子{{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
**弟・次郎太は夭逝した{{Sfn|徳川|2006|p=84}}。
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**弟・次郎太は夭逝した{{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}。
**妹・絹子は旧公卿の[[大炊御門家|大炊御門]]経輝(侯爵)と結婚した{{Sfn|徳川|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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**妹・絹子は旧公卿の[[大炊御門家|大炊御門]]経輝(侯爵)と結婚した{{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
**妹・春子は[[西郷吉之助]](侯爵)と結婚した(のち離婚){{Sfn|徳川|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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**妹・春子は[[西郷吉之助]](侯爵)と結婚した(のち離婚){{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
**弟・義龍は[[大給松平家|大給]]左(おぎゅう きちじ)伯爵の養子となり、[[朝香宮]][[大給湛子|湛子(きよこ)]]と結婚した{{Sfn|徳川|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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**弟・義龍は[[大給松平家|大給]]左(おぎゅう きちじ)伯爵の養子となり、[[朝香宮]][[大給湛子|湛子(きよこ)]]と結婚した{{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
**妹・百合子は[[佐竹氏|佐竹]]義栄(侯爵)と結婚した{{Sfn|徳川|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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**妹・百合子は[[佐竹氏|佐竹]]義栄(侯爵)と結婚した{{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
  
妻・正子は、[[松平恒雄]]の次女{{Sfn|徳川|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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妻・正子は、[[松平恒雄]]の次女{{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
 
*長男・五郎太{{Sfn|小田部|1988|p=23}}
 
*長男・五郎太{{Sfn|小田部|1988|p=23}}
*長女・美千子は、[[堀田正恒]]の6男・[[徳川義宣|義宣(よしのぶ)]]と結婚し、義宣は尾張徳川家の第21代当主、八雲産業社長、徳川美術館長となった{{Sfn|徳川|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
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*長女・美千子は、[[堀田正恒]]の6男・[[徳川義宣|義宣(よしのぶ)]]と結婚し、義宣は尾張徳川家の第21代当主、八雲産業社長、徳川美術館長となった{{Sfn|徳川義宣|2006|p=84}}{{Sfn|小田部|1988|pp=22-24}}。
 
*次女がいる{{Sfn|小田部|1988|p=23}}。
 
*次女がいる{{Sfn|小田部|1988|p=23}}。
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== 趣味 ==
 
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*音楽が好きだったほかに、機械が好きで、音響機器や自動車に凝っていた{{Sfn|徳川|2006|pp=88-89}}。
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*音楽が好きだったほかに、機械が好きで、音響機器や自動車に凝っていた{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=88-89}}。
*40歳を過ぎた頃から酒量が増え、同じ頃に体重も増えた{{Sfn|徳川|2006|p=88}}。
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*40歳を過ぎた頃から酒量が増え、同じ頃に体重も増えた{{Sfn|徳川義宣|2006|p=88}}。
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== 栄典 ==
 
== 栄典 ==
*1967年、長年、日英親善に尽したとして[[エリザベス2世]]から{{仮リンク|大英帝国名誉最高司令官|label=オノラリー・コマンダー・オブ・ザ・モストゥ・エクセラント・オーダー・オブ・ザ・ブリティッシュ・エンパイアー|en|Order of the British Empire}}の称号を受ける{{Sfn|徳川|2006|pp=89,104}}。
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*1967年、長年、日英親善に尽したとして[[エリザベス2世]]から{{仮リンク|大英帝国名誉最高司令官|label=オノラリー・コマンダー・オブ・ザ・モストゥ・エクセラント・オーダー・オブ・ザ・ブリティッシュ・エンパイアー|en|Order of the British Empire}}の称号を受ける{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=89,104}}。
*1977年、長年の親善友好の功績が認められ、ジョホールのスルタンから{{仮リンク|ジョホール王族最高勲章|label=ダルジア・ケラバ・ジョホール・ヤング・アマ・ディホルマティ|en|Royal Family Order of Johor}}の称号を受ける{{Sfn|徳川|2006|pp=89,104}}。
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*1977年、長年の親善友好の功績が認められ、ジョホールのスルタンから{{仮リンク|ジョホール王族最高勲章|label=ダルジア・ケラバ・ジョホール・ヤング・アマ・ディホルマティ|en|Royal Family Order of Johor}}の称号を受ける{{Sfn|徳川義宣|2006|pp=89,104}}。
*死去後、日本赤十字社から長年の功績があったとして金色有功章の追贈を受けた{{Sfn|徳川|2006|p=105}}。
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*死去後、日本赤十字社から長年の功績があったとして金色有功章の追贈を受けた{{Sfn|徳川義宣|2006|p=105}}。
  
 
== 付録 ==
 
== 付録 ==
 
=== 脚注 ===
 
=== 脚注 ===
 
{{Reflist|18em}}
 
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=== 参考文献 ===
 
=== 参考文献 ===
*{{Aya|徳川|year=2006}} 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
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*{{Aya|徳川義宣|year=2006}} 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
 
*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
 
*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
 
*{{Aya|粟屋|小田部|year=1984}} 粟屋憲太郞・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』vol.99 no.8 (1182)、1984年8月、pp.284-303、{{NDLJP|3365998/145}}{{閉}}
 
*{{Aya|粟屋|小田部|year=1984}} 粟屋憲太郞・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』vol.99 no.8 (1182)、1984年8月、pp.284-303、{{NDLJP|3365998/145}}{{閉}}
 
*{{Aya|中野|year=1977}} 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、{{JPNO|78013751}}
 
*{{Aya|中野|year=1977}} 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、{{JPNO|78013751}}
*{{Aya|徳川|year=1973}} 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、{{JPNO|73011083}}
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*{{Aya|徳川義親|year=1973}} 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、{{JPNO|73011083}}
 
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*{{Aya|徳川|year=1947}} 徳川義知(述)「法廷証第3389号 宣誓供述書 徳川義知」GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section(連合国最高司令官総司令部国際検察局文書)、米国国立公文書館日本占領関係資料、{{NDLJP|10281140}}
  
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徳川 義知(とくがわ よしとも、1911年5月22日 - 1992年4月14日)は、尾張徳川家の第20代当主。中学校卒業後、英国へ留学。1934年に帰国した後、英語力を活かして父・徳川義親が関与していた1939年-1940年の排英運動・対英工作に関与。1940年6月のオットー駐日ドイツ大使と小磯国昭拓務大臣の会談を斡旋、通訳を務めた。1942年の日本軍によるシンガポール占領後、マラヤスルタン統治に関与した。戦後、日英協会の理事や日本赤十字社の常任理事を務めた。

経歴[編集]

1911年5月22日、東京で、父・義親と母・正子の間に、6人きょうだいの1番目(長男)として生まれる[1]尾張徳川家の初代・義直の幼名に因んで「五郎太」と名付けられた[2]

1921年-1922年にかけて、義親夫妻が1年間ヨーロッパへ旅行していた間、文京区に住んでいた八代六郎に預けられた[3]

(いつ?)暁星中学を卒業[4][5]

1931年、華族の長男として成人したため、従五位に叙せられ、名を「義知」と改める。尾張徳川家の第20代。同年12月に設立された尾張徳川黎明会の副会長に就任。会長は父・義親だった。[6]

同年から1934年まで英国に留学[2][7]

1934年11月に帰国し、翌1935年1月ないし8月から東京帝室博物館に嘱託(研究員)として勤務(1947年当時も在職)[8][7]。同年10月に松平恒雄の次女・正子と結婚[9][10]

尾張徳川家が目白に開設した啓明寮の寮長を務め、素人楽団を組織して、指揮を担当。各地から招待を受けて、演奏旅行をするなどした。[11]

1939年4月から8月まで、拓務省嘱託[7]。同年頃の排英運動の際には、父・義親とともに対英工作に携わり、警視庁外事課と連絡を取り、英国駐日大使館からの情報収集などを行った[12][13]

1940年1月から7月まで、再度拓務省嘱託[7]。同年6月14日にナチス・ドイツパリを陥落させた後、同月20日にオットー駐日ドイツ大使と小磯国昭拓務大臣が会談して、三国同盟の締結と日本の仏印蘭印占領について相談した際に、オットー大使と面識があったことから会談を斡旋し、通訳にあたった[14][15]

1940年から司法保護事業乳香園嘱託(1947年当時も在職)[7]

1942年2月、太平洋戦争開戦時には、英語力を買われ、軍の通訳官として東南アジア(仏印?)で働いており、シンガポール占領後の同年3月に第25軍軍政顧問となった父・義親とともにマレーに入り、スルタンの統括を担当していた義親の連絡役としてジョホールのスルタンに「版籍奉献」を打診するなどした[16][17]

帰国後、1943年12月から大森に設置されていた東京俘虜収容所に勤務した[17]

  • 徳川義宣 (2006 88,102)によると、同収容所の職員は戦後、捕虜から虐待の罪で戦犯訴追を受けることが多かったが、義知は感謝状をもらい、元捕虜と戦後も親交があったという。

戦後、1945年8月ないし9月に日本赤十字社に入社し、戦地からの復員引揚げや医療福祉事業に従事[18][7]

  • 赤十字社は皇后を名誉総裁とし、宮家の人物が催事に出席することも多く、義知はその接待役を務めた[18]

1946年1月、公職追放を受けて父・義親が黎明会の会長を辞職したことに伴い、同会会長に就任[19]

赤十字社のほかに、社会福祉法人・大泉旭出学園や社会福祉法人富士旭出学園の理事長も務めた[20]

1951年から日英協会の理事、1965年から死去まで同会副会長を務めた[21]

1988年頃、日本ヘラルド映画監査役[4]

晩年には日本赤十字社の常任理事となった[18]

1992年4月14日に死去、享年81[2]。遺骨は瀬戸市定光寺にある尾張徳川家の納骨堂「崇徳院」に納められた[22]

家族[編集]

妻・正子は、松平恒雄の次女[23][10]

趣味[編集]

  • 音楽が好きだったほかに、機械が好きで、音響機器や自動車に凝っていた[25]
  • 40歳を過ぎた頃から酒量が増え、同じ頃に体重も増えた[21]

栄典[編集]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 徳川義宣 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
  • 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
  • 粟屋 小田部 (1984) 粟屋憲太郞・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』vol.99 no.8 (1182)、1984年8月、pp.284-303、NDLJP 3365998/145 (閉)
  • 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
  • 徳川義親 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083
  • 徳川 (1947) 徳川義知(述)「法廷証第3389号 宣誓供述書 徳川義知」GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section(連合国最高司令官総司令部国際検察局文書)、米国国立公文書館日本占領関係資料、NDLJP 10281140