定光寺

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ファイル:Jōkōji hondō Seto.JPG 座標:35 16 48.4 N 137 5 29.0 E 定光寺(じょうこうじ)は、愛知県瀬戸市定光寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は応夢山(おうむざん)。1336年に創建され、17世紀中頃、喝堂全用により再興され、尾張徳川家の庇護を受けた。寺域に隣接して尾張徳川家初代・徳川義直の廟所・源敬公廟と同家歴代の納骨堂・崇徳廟がある。

沿革[編集]

建武3年(1336年)、覚源禅師(平心處齊)が籐左衛門尉の案内で尾張国山田荘水野郷を訪れ、この地方の領主であった水野致国と美濃国小田の山内入道が開基檀越となり、臨済宗建長寺派の寺院として創建した。

慶安2年(1649年)、喝堂全用が妙心寺派寺院として再興した。慶安3年(1650年)に尾張徳川家初代・徳川義直が没した後、その翌年から3年間かけて、寺域に隣接する山林に廟墓「源敬公廟」が造営され、尾張徳川家の庇護を受けるようになった。

1930年頃、尾張徳川家第19代当主・徳川義親のとき、同家が名古屋や東京の寺院に造営していた墓所約170基を廃し、源敬公廟の隣の地下に鉄筋コンクリート造の納骨堂を造成して、火葬し直した280数体の遺骨をまとめて納骨した[1][2]。墓所の整理は、中野 (1977 71)によると1936年、徳川 (2006 82)によると1953年頃に終えられた。

建築物[編集]

本堂[編集]

定光寺の本堂は、天文3年(1534年)に再建されたもので、定光寺に残る最も古い建物。国の指定有形文化財となっている。[3]

直入橋[編集]

定光寺の参道入口の池にかかる直入橋(ちょくにゅうばし)は、尾張藩の第2代藩主・徳川光友が架設させた石橋で、承応2年(1653)に竣工したもの。江戸時代には、寺内の優れた景勝地の1つとされていた。瀬戸市の有形文化財に指定されている。[4]

源敬公廟[編集]

源敬公廟(げんけいこうびょう)は、尾張徳川家初代・徳川義直の廟所。源敬公は義直の諡号。慶安3年(1650年)に義直が死去した後、遺命により定光寺の北東の隣接地に建立された。設計は中国からの渡来人・陳元贇により、日本では数少ない儒教式の配置となっている。[5]

慶安4年(1651年)に墳墓と石標が造立され、翌承応元年(1652年)に焼香殿、宝蔵、門、築地塀などが完成した。唐門、焼香殿(祭文殿)、宝蔵(祭器蔵)、龍の門、築地塀および獅子の門と、源敬公墓(参道、殉死者墓9基、石柵4所を含む)は、国の重要文化財に指定されている。[6]

中野 (1977 108)によると、義直の墓に石垣をめぐらせたうちの1枚をはずすと、数百万両の軍用金が埋蔵してあるという伝説がある。

崇徳廟[編集]

崇徳廟は、定光寺の隣接地にある、尾張徳川家の歴代の納骨堂。半地下構造で、広さは約20坪あり、内陣と外陣に分かれている。内陣には歴代当主とその夫人、外陣には夭逝した子供と絶家した分家、歴代当主の側室の遺骨が納められている。[2]

「崇徳廟」の掲額は1991年の元旦に同家の第22代当主・徳川義崇が「崇」、同21代・義宣が「徳」、同20代・義知が「廟」字を揮毫したもの[7]。1976年に歿した同19代・義親、1992年に歿した義知の遺骨も同所に納骨された[8][7]

什宝[編集]

本尊は延命地蔵願王菩薩(地蔵菩薩)。

尾張藩の第3代藩主・綱誠が寄進した太刀(銘・助重、備前国吉岡一文字派)と、第9代藩主・宗睦が寄進した太刀(銘・守家、備前国畠山派)は、国の指定有形文化財となっている[9]

祠堂帳(1巻)は、瀬戸市の指定歴史資料となっている[10]

所在地[編集]

  • 愛知県瀬戸市定光寺町373[6]
  • 源敬公廟は同町373の1[6]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 尾張名所図会 第3巻 応夢山定光寺』1844年(天保15年)
  • 太田正弘(編)『定光寺誌』定光寺、1985年、JPNO 85048095

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
  • 中野 (1977) 中野雅夫 [ 革命は芸術なり‐徳川義親の生涯 ] 学芸書林 1977 JPNO 78013751

外部リンク[編集]