「マツダ・ファミリア」の版間の差分

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(2代目 FA3型(1967年 - 1978年))
(3代目 FA4型(1977年 - 1985年))
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===3代目 FA4型(1977年 - 1985年)===
 
===3代目 FA4型(1977年 - 1985年)===
:1977年1月、2代目からフルモデルチェンジ。映画『[[幸福の黄色いハンカチ]]』に赤いファミリアの5ドア[[ハッチバック]]が使われたおかげで歴代で最も売れ、ついでにマツダの経営も助けた。'''[[マツダ・デミオ|デミオ]]がマツダの救世主となる20年近く前の話'''である。
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:1977年1月、2代目からフルモデルチェンジ。映画『[[幸福の黄色いハンカチ]]』に赤いファミリアの5ドア[[ハッチバック]]が使われたおかげで歴代で最も売れ、ついでにマツダの経営も助けてくれた。'''[[マツダ・デミオ|デミオ]]がマツダの救世主となる20年近く前の話'''である。
  
 
:1980年6月、バン以外が4代目に移行し、バンだけが1985年1月まで残る。
 
:1980年6月、バン以外が4代目に移行し、バンだけが1985年1月まで残る。

2014年12月17日 (水) 06:36時点における版

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マツダ・ファミリア(まつだ・ふぁみりあ、MAZDA FAMILIA)は、かつてのマツダ稼ぎ頭である。今は日産製のバンのみが売られている。

概要

当初はただのバンのみだったが、途中でセダンとワゴンが追加された(後にクーペも追加)。
その後、いつの間にかロータリーエンジンを載せたり、駆動方式がFRからFFに変わってからは4WDターボになってラリーで活動したりしていたが、結局はただのバンだけ(しかも日産製)に戻り今に至っている。

歴代モデル

初代 SSA/MPA/BSAVD/MSAG型(1963年 - 1967年)

1963年、バンがデビュー(初代カローラがデビューする3年前の話だった)。セダンやワゴン、クーペといった乗用モデルは後回しにされた形で1964年(クーペは1965年)に追加された。
この時点でヨーロッパを意識したデザインでヒットしたが、一部のモデルでは手動クランクによるエンジン始動[1]が出来たりする。
さらにピックアップトラックも設定されていた。

2代目 FA3型(1967年 - 1978年)

2代目ファミリアこと、FA3型(画像は1000cc)。
1967年11月、初代からフルモデルチェンジ。この代までピックアップトラックが設定されたことは意外と知られていない。
1968年6月、ロータリーエンジンを普及させる「ロータリゼーション」というマツダの誇大妄想に巻き込まれ、クーペにロータリーエンジン搭載車が追加される(その後、1969年4月にセダンにもロータリーエンジン搭載車を追加)。
現代の軽自動車と同等の車体に、国産最高レベルのハイパワーエンジンを載せるという、後のAZ-1を彷彿させる暴挙であった。
しかし、さすがに「これはまずい」という空気を悟ったマツダは、後にロータリーエンジンを載せたファミリアをサバンナという別車種という扱いにして切り抜ける事にした。
1970年4月のマイナーチェンジでファミリアプレストに改名。後年、「プレスト」という名前は現代自動車にパクられてしまう[2]
1973年9月に再度マイナーチェンジされ、韓国の大手自動車メーカー・起亜自動車にも調達された。
韓国では「ブリサ」として生産されたが、何も知らない韓国人はブリサを韓国の車だと思い込んだのは言うまでもない
ちなみに2代目・3代目と年代でかぶっているのは、バンとトラックだけモデルチェンジせずにそのまま継続生産したからである。
1977年1月、セダンとトラック以外が3代目に移行し、トラックは1977年10月、セダンは1978年10月まで残ったが、誰も気にしない

3代目 FA4型(1977年 - 1985年)

1977年1月、2代目からフルモデルチェンジ。映画『幸福の黄色いハンカチ』に赤いファミリアの5ドアハッチバックが使われたおかげで歴代で最も売れ、ついでにマツダの経営も助けてくれた。デミオがマツダの救世主となる20年近く前の話である。
1980年6月、バン以外が4代目に移行し、バンだけが1985年1月まで残る。

4代目 BD型(1980年 - 1985年)

1980年6月、3代目からフルモデルチェンジ。意味もなくサーフボードをルーフキャリアに乗せた[3]赤い3ドアハッチバックの1500XGが日本中に溢れた。
1983年6月、ターボ搭載車追加。広告によると、ターボ搭載車を開発したのは「レスポンスが悪い」という理由で大のターボ嫌いな技術者だったという。
その広告にはあれこれ書かれていたが、端的に表現すると「デカくて軽いタービンを使う」という方法でレスポンスとパワーを両立させることに成功したとのこと。
その後、関係者が「何でターボの開発に携わったんですか」と問われて彼は「出来の良いターボまで嫌いとは言ってない」と答えたという。典型的なツンデレと思われる。

5代目 BF型(1985年 - 1994年)

1985年1月、4代目からフルモデルチェンジ。バンも3代目の使い回しから脱却してからモデルチェンジしたが「最後のマツダ製ファミリアバン」となった。
1985年10月、1.6リッターターボや日本初のフルタイム4WDを搭載したGT、GT-Xがデビュー。日本初のフルタイム4WDの座を奪った挙句に国内外のラリーで調子こいた大暴れして「雪上の帝王」と呼ばれたことにより、後年になってスバル三菱を暴走させてしまう。ある意味、このファミリアはランエボやインプレッサSTiの生みの親である。
1986年3月、カブリオレがデビュー。後年デビューしたロードスターの陰に隠れたのは言うまでもない
1989年2月、ハッチバックセダンのフルモデルチェンジに伴い、バンのみになる。
1994年、バンが日産製になる。

6代目 BG型(1989年 - 1994年)

1989年2月、5代目からフルモデルチェンジ。4WDターボは1.8リッターに排気量が上がり、出力も140馬力から180馬力に向上して一見したらリッター100馬力に達したかに思われるが、正確な排気量が1839ccであるため一歩及ばずだった。
この問題は競技ベースのGT-Aが210馬力になったことにより気にならなくなった

7代目 BH型(1994年 - 1998年)

1994年6月、6代目からフルモデルチェンジ。4WDターボは三菱とスバルを激怒させた責任を取って引退した。また3ドアハッチバックに代わって3ドアクーペ(「NEO」と呼ばれていた)が登場した。
1996年6月、マイナーチェンジ。日本国内のみ3ドアクーペを3ドアハッチバックに戻したものの、海外向けは3ドアクーペの販売を継続。この時期のマツダは「クロノスの悲劇」によって、経営危機に陥っていたにもかかわらず「わざわざ金の掛かることをしたな」と思ったのは筆者だけでないはず。

8代目 BJ型(1998年 - 2004年)

1998年6月、7代目からフルモデルチェンジ。マツダオリジナルのファミリアとして最後のモデルである。この代はハッチバックが無くなり、代わりにハッチバックとワゴンだかわからないS-ワゴンが設定された。S-ワゴンには、170馬力を発生する2リッターエンジンを搭載したスポーツモデルのスポルトが設定される(のちにセダンにも追加)も、誰も気にしなかった
2004年2月、アクセラ登場後も数ヶ月間、屁をこき続けた在庫整理をした形で生産終了。更に台湾ではそれからしばらくイサムゲンキという名前で生産・販売されていた(実話)。

兄弟車

グランドファミリア
1971年9月にデビュー。ファミリアとカペラの隙間を埋めるために生まれた。しかしその正体は、ファミリアのロータリーエンジン搭載ヴァージョンであるサバンナに、レシプロエンジンを搭載するという「それってファミリアとどこが違うの?」という意味不明車。1978年10月まで生産・販売された。現存台数は約46台。
ファミリアアスティナ
1989年2月にデビュー。7代目ファミリアの5ドアハッチバックである。かっこいいハッチバックだったため、マツダお得意のヨーロッパで受けた。後継車はランティスである。
ファミリアバン/ファミリアワゴンファミリアビジネスワゴン(1994年-)ADバンAD/ADエキスパート/ADワゴン
1994年から日産のADバンがファミリアバンとしてマツダのディーラーから売られている。

脚注

  1. 棒を使ってエンジンのクランクシャフトを回しエンジンを始動させる方法。T型フォードの時代のやり方である。
  2. 現代自動車から発売された「プレスト」の名前は、アクシデント「アクセント」の前身である「エクセル」のセダンの名前として使われていた。
  3. 「陸サーファー(おかサーファー)」といい、サーフィンをしない癖にナンパのためにサーファーのふりをするヘタレが増殖した。

関連項目