鈴木商店

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鈴木商店(すずきしょうてん)は、かつて存在した戦前の日本の財閥商社。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなる。
鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもある。

歴史

創業期

絶頂期の鈴木よねの資産は大正全国富豪番付で西日本5位だった

1874年(明治7年)、兵庫の弁天浜に川越藩鈴木岩治郎が、当時番頭をしていた辰巳屋ののれんわけで鈴木商店を開業する。

1886年(明治19年)、のちに鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公に入る。順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに数えられるようになる。しかし、1894年(明治27年)に鈴木岩治郎が死去。廃業の提案をよそに夫人の鈴木よね金子直吉柳田富士松の両番頭に委任し事業を継続する。その直後、金子は樟脳の取引で損失を出す。しかし、鈴木よねはそのままの体制で経営を続ける。

  • 1899年(明治32年)、後藤新平台湾総督府民政長官が目指す樟脳の総督府専売に反対する業者を金子直吉が切り崩した功績を認められて、鈴木商店は、台湾樟脳油の販売権を獲得。
  • 1902年(明治35年)、出資金50万円を以て合名会社鈴木商店へ組織変更(これまで個人商店だった)。
  • 1905年(明治38年)、神戸製鋼所の前身の小林製鋼所を買収する。
  • 1906年(明治39年)、ミカドホテル新館を取得し、本店を栄町通から相生町に移転する(1918年米騒動の焼き討ちの標的となった建物)。

以降、大正時代には、下記の会社を次々と買収。

絶頂期

鈴木商店本社(前ミカドホテル、1918年以前)

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まる。当時、戦争はすぐに終結し戦争被害による影響で物価が下がるというのが大方の見方であった。鈴木商店は海外電報を駆使して戦況を集め物価は高騰するとよみ、世界中で投機的な買い付けを行う。

鉄、小麦、船などについて日本を介さない三国間貿易を始めるなど(ちなみにこの三国間貿易を手がけたのが、当時ロンドン支店勤務だった高畑誠一である)、独創的な手法で売り上げが急拡大する。この頃、金子直吉はロンドン支店宛ての手紙の中で『この戦乱を利用して大儲けをなし、三井三菱を圧倒するか、あるいはその二つと並んで天下を三分する』と記している。

1919(大正8年)~1920年(大正9年)の全盛時代、鈴木商店の売上げは、16億円(当時の新入社員の初任給が70円、また当時の日本のGNPの約一割)に達した。この額は三井物産三菱商事を遥かに上回っていた。また、当時のスエズ運河を通過する船の一割は鈴木商店所有といわれた。また第一次世界大戦での塹壕の土嚢には鈴木商店のロゴ(菱形にSUZUKIの略記「SZK」)の入った小麦袋が大量に使われたという。この資金を提供していたのは台湾銀行であった。

1918年(大正7年)7月23日から始まった米騒動の際に大阪朝日新聞は、鈴木商店は米の買い占めを行っている悪徳業者であると攻撃した。これにより、鈴木商店は米価の高騰に苦しむ民衆の反感を買い、同年8月12日に焼き打ちされた。この事件を再調査した城山三郎は、当時の鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、焼き打ちは大阪朝日新聞が事実無根の捏造報道を行って米騒動を煽ったことによる「風評被害」であり、鈴木商店と対立していた三井と朝日の「共同謀議」という仮説を立て、ノンフィクション小説『鼠 鈴木商店焼打ち事件』として発表している。なお、この時、金子直吉の首に10万円の賞金が掛けられたと言われている。

米騒動により焼き打ちされた鈴木商店本店

転換期

第一次世界大戦後の反動で株価、工業製品価格、船舶運賃がのきなみ下落。株式を上場せずに銀行からの借り入れのみで運転資金をまかなっていた鈴木商店は大きな打撃を受ける。鈴木商店の資本金1億3000万円に対し借入金が10億円を超えていた。

1923年(大正12年)3月14日、持株会社制へ移行するため商号を合名会社鈴木商店から鈴木合名会社へ改め財閥本社とし、新たに株式会社鈴木商店を設立して全事業を分社化した。これはそもそも台湾銀行側が金子を鈴木合名会社の子会社となる商社部門(株式会社鈴木商店)に閉じこめ、その後目の届かないところで親会社(鈴木合名会社)傘下の不採算会社を整理しようと企んで提案したことであったが、金子が株式会社鈴木商店の専務取締役になると同時に鈴木合名会社の無限責任社員にもなってしまったため結局その企みは頓挫した。

1923年(大正12年)9月1日関東大震災が発生すると、政府は震災手形割引損失補償令を公布。これは震災前に銀行が割り引いた手形のうち決済不能になった損失を日本銀行が補填するというものであった。この制度成立には金子から政治家への働きかけがあったといわれている。鈴木商店と台湾銀行はこの制度を利用し損失の穴埋めを行う。政府も黙認の態度をとっていた。1926年(昭和元年)末の震災手形の合計2億680万円のうち台湾銀行は1億4万円で48%を占め、その台湾銀行の手形のうち7割が鈴木商店のものであった。鈴木商店の震災手形の総額は現代の物価に換算すると438億3752万8千円という巨額であった。

終焉期

1927年(昭和2年)3月、当時の大蔵大臣・片岡直温の「とうとう東京渡辺銀行が破綻した」との失言(片岡の発言時点では東京渡辺銀行はまだ破綻していなかった)により東京渡辺銀行は実際に破綻、他行でも取り付け騒ぎが発生する。そんな中で同年3月27日台湾銀行は鈴木商店への新規融資を打ち切りを通告。系列化していた鳥取発祥の第六十五銀行に鈴木商店を支える体力はなく資金調達が不能となり、4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に追い込まれた。

その前日の4月4日に鈴木商店との絶縁を宣言した第六十五銀行であったが、鈴木商店倒産のあおりを受け4月8日から一ヵ月あまりにわたり営業休止に追い込まれた。営業休止は台湾銀行の台湾以外の店舗にも波及した(詳細は昭和金融恐慌も参照のこと)。第六十五銀行は翌1928年(昭和3年)10月神戸銀行(現在の三井住友銀行)の源流となる神戸岡崎銀行に営業譲渡のうえ清算された。

商社部門は1928年昭和3年)、金子の部下だった高畑誠一を中心に鈴木商店の子会社だった日本商業会社を日商と改め再出発を図る。また金子は、同じく鈴木商店の子会社だった太陽曹達を太陽産業(1949年(昭和24年)解散。現在の太陽鉱工の前身)と改め持株会社とし、同社の相談役として鈴木家の再興を図った。一時は神戸製鋼所を系列に持つなどした。なお、この他の鈴木商店の関連会社の殆どは当時鈴木商店を目の敵にしていた三井財閥の系列に統合されていった。

鈴木商店の流れを汲む会社

( )内は旧社名

参考文献

外部リンク