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[[織田信秀]]の庶長子。生母の出自等は不明。信秀に従って[[三河国|三河]]進出に従軍し、西三河の[[安祥城]]主に任命される。[[天文 (日本)|天文]]18年([[1549年]])に[[今川義元]]から軍を預けられた[[太原雪斎]]に安祥城を攻められて落城し、信広は[[今川氏]]の捕虜となった。その後信広と当時織田家に囚われていた松平竹千代(後の[[徳川家康]])の間で[[人質]]交換が行なわれて[[尾張国|尾張]]に帰国する<ref name="阿部P218">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P218</ref><ref name="西ヶ谷P227">西ヶ谷恭弘『考証、織田信長事典』、P227</ref><ref name="西ヶ谷P228">西ヶ谷恭弘『考証、織田信長事典』、P228</ref>。
 
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信秀が亡くなると[[正室]]腹の弟である信長と対立。[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に[[美濃国|美濃]]の[[斎藤義龍]]と手を結んで反抗して[[清洲城]]を奪おうとしたが敗北し、信長に仕えた<ref name="阿部P218"/>。信長は兄である信広を厚遇した。また信広も信長の兄として周囲から人望を集めた。信長が[[足利義昭]]を擁して[[上洛]]すると信広は交渉担当に任命され、[[公家]]や義昭との折衝に当たった。この頃に大隅守の受領名を称し、姓も津田を称している。[[元亀]]元年([[1570年]])9月、信長より[[勝軍山城]](北白川城)の[[城主]]となり、[[京都]]の治安維持を担当する。天正元年([[1573年]])春、信長の[[名代]]として足利義昭との交渉を担当。当時敵対していた信長と義昭の和睦を実現させた<ref name="西ヶ谷P228"/>。
  
 
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『[[兼見卿記]]』によると信広は[[吉田神社]]の[[神官]]である[[吉田兼見]]と親交が深く、たびたび訪問して饗応を受けて情報交換なども行なっている。天正2年(1574年)の[[長島一向一揆]]の征伐にも従軍。この際に信長と一向一揆は和睦するが、信長は和睦を破棄して[[鉄砲]]隊で一向衆に撃ちかけた。これに逆上した一向衆徒の決死の反撃を受けて信広は討ち死にした<ref name="阿部P218"/>。享年は42歳か43歳と推測されている<ref name="西ヶ谷P228"/>。
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== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
 
* [[西ヶ谷恭弘]]『考証、織田信長事典』 [[東京堂出版]]、2000年
 
* [[西ヶ谷恭弘]]『考証、織田信長事典』 [[東京堂出版]]、2000年
* [[阿部猛]] 『戦国人名事典コンパクト版』 [[新人物往来社]]|1990年
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* [[阿部猛]] 『戦国人名事典コンパクト版』 [[新人物往来社]]1990年
  
 
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2015年3月30日 (月) 08:02時点における版

織田 信広(おだ のぶひろ、? - 天正2年9月29日1574年10月13日))は、戦国時代武将織田氏の一門衆。織田信長の庶兄。他の弟に織田信勝織田信包織田長益織田長利らがいる。子は織田家の重臣・丹羽長秀に嫁いだ娘がおり、信長の養女となった。通称は三郎五郎。官位官職は従五位下大隅守。

略歴

織田信秀の庶長子。生母の出自等は不明。信秀に従って三河進出に従軍し、西三河の安祥城主に任命される。天文18年(1549年)に今川義元から軍を預けられた太原雪斎に安祥城を攻められて落城し、信広は今川氏の捕虜となった。その後信広と当時織田家に囚われていた松平竹千代(後の徳川家康)の間で人質交換が行なわれて尾張に帰国する[1][2][3]

信秀が亡くなると正室腹の弟である信長と対立。弘治3年(1557年)に美濃斎藤義龍と手を結んで反抗して清洲城を奪おうとしたが敗北し、信長に仕えた[1]。信長は兄である信広を厚遇した。また信広も信長の兄として周囲から人望を集めた。信長が足利義昭を擁して上洛すると信広は交渉担当に任命され、公家や義昭との折衝に当たった。この頃に大隅守の受領名を称し、姓も津田を称している。元亀元年(1570年)9月、信長より勝軍山城(北白川城)の城主となり、京都の治安維持を担当する。天正元年(1573年)春、信長の名代として足利義昭との交渉を担当。当時敵対していた信長と義昭の和睦を実現させた[3]

兼見卿記』によると信広は吉田神社神官である吉田兼見と親交が深く、たびたび訪問して饗応を受けて情報交換なども行なっている。天正2年(1574年)の長島一向一揆の征伐にも従軍。この際に信長と一向一揆は和睦するが、信長は和睦を破棄して鉄砲隊で一向衆に撃ちかけた。これに逆上した一向衆徒の決死の反撃を受けて信広は討ち死にした[1]。享年は42歳か43歳と推測されている[3]

戒名は大龍寺殿寛厳大居士。墓所は京都市上京区阿弥陀寺

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P218
  2. 西ヶ谷恭弘『考証、織田信長事典』、P227
  3. 3.0 3.1 3.2 西ヶ谷恭弘『考証、織田信長事典』、P228

参考文献

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