「突撃隊」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(rxy=森谷辰也=LTA:ASPELTA:DCHANCELTA:SASHOという動かせない事実。)
(LTA:RXY荒らしの差し戻し。)
 
1行目: 1行目:
<nowiki>'''突撃隊'''(とつげきたい、[[ドイツ語|独]]:'''S'''turm'''a'''bteilung, 略号:'''SA'''、[[英語|英]]:Storm Detachment、嵐分遣隊)は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の[[準軍事組織]]。[[制服]]の色から「褐色シャツ隊」とも呼ばれた<ref name="テーラー(1993)179">[[#テーラー(1993)|テーラーとショー(1993)、p.179]]</ref>。
+
'''突撃隊'''(とつげきたい、[[ドイツ語|独]]:'''S'''turm'''a'''bteilung, 略号:'''SA'''、[[英語|英]]:Storm Detachment、嵐分遣隊)は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の[[準軍事組織]]。[[制服]]の色から「褐色シャツ隊」とも呼ばれた<ref name="テーラー(1993)179">[[#テーラー(1993)|テーラーとショー(1993)、p.179]]</ref>。
  
 
== 概要 ==
 
== 概要 ==

2020年1月15日 (水) 23:06時点における最新版

突撃隊(とつげきたい、Sturmabteilung, 略号:SA:Storm Detachment、嵐分遣隊)は、国家社会主義ドイツ労働者党準軍事組織制服の色から「褐色シャツ隊」とも呼ばれた[1]

概要[編集]

突撃隊はナチス党集会の会場警備隊が改組されて創設された。初期の頃はエルンスト・レームの斡旋により義勇軍から流れてきた者を多く受け入れたため、党から半独立的な準軍事組織であった。1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、一揆の失敗で一時期禁止された。1925年にナチスと共に再建され、党に従属する組織として再出発した。党集会の警備、パレード行進、ドイツ社会民主党(SPD)の国旗団ドイツ共産党(KPD)の赤色戦線戦士同盟との街頭闘争などを行った。ナチスの政権掌握直後の1933年には補助警察となり、政敵の弾圧にあたった。しかし突撃隊は下層民も多い大衆組織であったため、社会主義的な思想を持つ隊員が多く、国防軍などの保守勢力との連携を深めるアドルフ・ヒトラーにとって厄介な存在となり、1934年6月末から7月初旬にかけてレームをはじめとする突撃隊幹部が親衛隊(SS)によって粛清された(長いナイフの夜)。粛清後は勢力を失い、国防軍入隊予定者の訓練を主任務とするようになった。

歴史[編集]

前身[編集]

当時のドイツでは、政党の集会や演説会に他党の党員・支持者が殴り込みをかける事件が多発しており、バイエルン州ミュンヘンで活動するナチスも例外ではなかった。 1919年11月のエーベルブロイケラー(Eberlbräukeller)でのナチスの党集会において初めて会場警備を専門とする部隊が設置された[2]。この会場警備部隊は1920年夏に「整理隊」と名付けられ、ナチス党集会の防衛、あるいは敵対政党への妨害活動を行った[3]。発足当初の隊員数は25名程度でエミール・モーリスが隊長をしていた[4]

ミュンヘンに駐留する国軍第7軍管区司令部将校エルンスト・レーム大尉(彼は義勇軍と志願制郷土軍の維持強化の任にあたっていた)の支持を取り付けたアドルフ・ヒトラーはナチス党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、1921年7月29日に代わって党首に就任した[5][6][7]

クリンチュ時代[編集]

党首となったヒトラーは1921年8月3日、「整理隊」を「体育およびスポーツ隊(Turn- und Sportabteilung)」と改称のうえ、ハンス・ウルリヒ・クリンチュ(de)元海軍少尉を新しい隊長に任じた[5][8][9][10]

クリンチュはナチス党員ではなく、旧エアハルト海兵旅団から生まれた右翼テロ組織「コンスル」のメンバーであった。この人選はレーム大尉の要請によるものであった。レームは政府により禁止された義勇軍・郷土軍を「体育およびスポーツ隊」に送り込み、義勇軍の維持を図ろうとしていた[注釈 1]。そのためにクリンチュを新しい隊長に推挙したのだった。一方ヒトラーもコンスルの前身のエアハルト海兵旅団を高く評価していたので、この要請を承諾したという[7]。以降、義勇軍組織(特にエアハルト海兵旅団)とナチスの連携関係ができあがった[11]

9月10日にヒトラーは「体育およびスポーツ隊」を改組して突撃隊(Sturmabteilung、略称SA)を創設することを発表した[12]11月4日にナチス党集会に乱入してきた社民党員800人[注釈 2]を50人足らずの体育およびスポーツ隊が撃退し[13][14][15]、これを機に、突撃隊の名称が正式に与えられた[13]

突撃隊となった後も隊長は引き続きクリンチュが務めた。初期の突撃隊幹部は、ヒトラーの要請に応じて派遣されたエアハルト海兵旅団の指導者たちが占めていた。クリンチュと、後に突撃隊最高指導者となるフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンはその代表である。クリンチュらの俸給はエアハルト海兵旅団から支払われており、派遣された団員達は引き続きエアハルト海兵旅団の指揮下にあり、半独立的な義勇軍組織としての一面を持っていた[16]。エアハルト海兵旅団はカップ一揆に参加して非合法とされたため、ナチスへの参加は組織を温存するためにも有効であった。またこの時点のナチスにもエアハルト海兵旅団の高い声望を利用し、オーバーバイエルン全体に勢力を広げることができるというメリットがあった。そして軍の立場からナチスに関与していたレームにも、連合国によって解散命令の出たドイツ義勇軍隊員の受け皿として、突撃隊拡充は歓迎すべきことであった[17]。やがてエアハルト海兵旅団のみならずベルリンロスバッハ義勇軍de)のミュンヘン支部のエドムント・ハイネスらも突撃隊に参加するようになった[18][19]

ヒトラーは再三にわたって「突撃隊はナチ党の組織であって党中央の決定に従わねばならない」ことを強調したが、こうした他の組織から来ている隊員らはあまりナチ党の規律を気に留めなかったという[18]1923年3月まで突撃隊への指示は、実質的にミュンヘンのドイツ義勇軍に大きな影響力を持っていたレームの事務所が行っており、ヒトラーもしばしば彼の元を訪れていた[20]。とはいえ突撃隊に流れてくる義勇軍兵士は義勇軍の中でも「政治化」した部類の者たちが多かった[18]。ヒトラーと義勇軍の間に政治的意見の相違はほとんどなかったから、ほとんどの場合ヒトラーは突撃隊を自由に政治運動へ参加させることができた[21]。この頃の突撃隊員は、ミュンヘン市内の交通費・飲食費などが自腹であり、このため末端の突撃隊員にとって、頻繁に動員される党活動は重い負担であったが、自己の信念から自発的に参加し続けていた[22]。ミュンヘン一揆前の突撃隊は他の民間軍事同盟とほとんど変わりがなく、軍事・政治知識の授業、隊列を組んでの行進、党および友好団体への参加などを行っていた[23]

この頃の隊員数は1921年末の時点で100人未満、1922年9月の時点で800人未満であったと推定されている[13][24]。1922年夏に突撃隊は百人隊と呼ばれる単位によって編成されることとなった。ただし百人隊は必ずしも100人の隊員がそろっていたわけではなかった[13]

1922年3月18日には年齢的に突撃隊に入隊できない若年層のために青少年部を設置することが発表された。これが後のヒトラー・ユーゲントとなる組織であるが、当初は突撃隊の下部組織と定められていた[25]。ヒトラー・ユーゲントが突撃隊から独立するのは1932年5月になってのことである[10]

ゲーリング時代[編集]

1923年1月にフランス軍が「ドイツのヴェルサイユ条約不履行」を理由にルール地方を占領した。ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト将軍は憤慨し、「フランスによる不法占領には再軍備で答える」と宣言した。ミュンヘンの国軍第7軍管区司令部からナチスの突撃隊も民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められた。ヒトラーは当初嫌がっていたが、レームの説得でしぶしぶ了承した。こうして3月から突撃隊は軍の訓練を受ける事となった[26]

しかし突撃隊の実質的な指揮権までをも軍に奪われる事を恐れたヒトラーは、レームの息のかかったクリンチュを解任してヒトラーの熱心な支持者であったヘルマン・ゲーリングを代わりの突撃隊司令官に任じている[26]。ゲーリングはエアハルト旅団から参加した信用のおけない隊員を一掃し、突撃隊をヒトラーに忠誠を誓う組織に改編していった[27]。ゲーリングは突撃隊を3個大隊からなる1個連隊で編成し、13個中隊で1個大隊を構成させた。連隊長にはヴィルヘルム・ブリュックナーが就任した[26]。隊員数も増し、1923年11月のミュンヘン一揆までに3000人ほどになった[13]

突撃隊の訓練を行ったのは軍の工兵第7連隊と歩兵第19連隊第一大隊で、突撃隊は小銃、機関銃等の扱いを学んだ[20]。突撃隊に砲兵隊や騎兵隊、自転車中隊や軍楽隊などの組織が作られた。軍の影響力はさらに強まり、7月11日には「(突撃隊は)党の地区組織や党指導部から分離された、国民社会主義運動内部における別個の組織である。隊は突撃隊司令部の命令に従う」という命令が出された[28]

しかし8月13日グスタフ・シュトレーゼマン内閣が誕生し、これまで政府が取ってきたフランス軍ルール地方占領への「受動的抵抗」路線を放棄し、西欧列強との関係回復を目指した。右翼勢力や極左勢力(共産党)によるシュトレーゼマン批判が強まった[29]

9月2日にヒトラーは突撃隊やオーバーラント団de)などを結集させて右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟en)」を結成させた。9月25日には同組織の指揮権はヒトラーが単独で掌握した。エーリヒ・ルーデンドルフ将軍に名誉総裁に就任してもらっている[30][31]。中央政府への攻撃を強め、バイエルン州総督グスタフ・フォン・カールによる「ベルリン進軍」の動きを支持するようになった(ただしカールはやがて中央政府からの圧力でベルリン進軍を日和見するようになり、ベルリン進軍にこだわるナチスを外して右翼大連合政府を立ち上げようとする)。9月26日にはレームも軍を退役し、ヒトラーの下に参じた[32]

ミュンヘン一揆[編集]

1923年11月8日午後8時30分、ヒトラーは闘争連盟を率いて、カール総督らが演説中のビュルガーブロイケラーを占拠し、ミュンヘン一揆を起こした。ただし連絡が不十分であったため、突撃隊員全員が一揆に参加したわけではなかった。たとえば突撃隊第1大隊(600名)は100名ほどしか参加していない[33]。突撃隊第1大隊はオーバーラント団第3大隊とともに国軍第19連隊第1大隊から武器を確保しようとしたが、交渉に失敗して退却し、その後、ビュルガーブロイケラーへ帰還した。突撃隊第2大隊は郷土軍が解散の際に隠した武器を確保してヴィッテルスバッハ橋で小休止した[34]。突撃隊第3大隊はビュルガーブロイケラーで待機した。一方レームは「帝国軍旗団」(de)や「ミュンヘン闘争団」、突撃隊の一部を率いて軍司令部を占拠した[35]。また突撃隊の学生グループはルドルフ・ヘスの指揮のもとに州政府首相オイゲン・フォン・クニリングらの監禁にあたった[36]

軍の協力は得られず、逆に鎮圧軍が編成されたのを知ったヒトラーは、11月9日12時30分、ルーデンドルフとともに闘争同盟を率いてミュンヘン中心部オデオン広場へ向かってデモ行進を開始した。アドルフ・ヒトラー衝撃隊が隊列の左側、オーバーラント同盟が隊列の右側、そして突撃隊は隊列の中央に付いて行進した[37]。しかし警官隊から銃撃を受けて失敗した。突撃隊司令官ゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れ、突撃隊員に運ばれてその場を逃れ、オーストリアへ国外逃亡した[38]。一方マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターと腕を組んでいたヒトラーはショイブナー=リヒターが撃たれた時に一緒に引きずられて倒れ、肩を脱臼した。突撃隊員に抱えられてその場を離れたが、結局逮捕された[39][40][41][42]。軍司令部を占拠したレームたちも午後2時頃に鎮圧軍に投降した[41]

禁止時代のフロントバン[編集]

ヒトラーやレームら逮捕された一揆指導者は裁判にかけられ、1924年4月1日に判決が下った。ヒトラーは5年の実刑判決(ただし執行6カ月後に保護観察に切り替える事も公約)、レームは1年3カ月の有罪判決を受けたが、彼は判決のその日のうちに仮釈放を受けた。ランツベルク刑務所に収監されることとなったヒトラーは突撃隊や闘争連盟をレームに委任した[43][44]

ヒトラーの委任を受けるレームは5月31日に旧ドイツ闘争連盟の隊員を集めてフロントバンde)を組織した[45][38]。さらに他の全国準軍事組織との連絡のためにフロントリング(Frontring)という組織を結成した[46]。8月28日にフロントバンは正式な設立大会を行った。ヒトラー、ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グラーフェde)が政治指導者、レームが軍事指導者と定められた。ルーデンドルフが名誉総裁に就任している。フロントバンの隊員数は3万人にものぼったが、統一性は弱く、小右翼軍事組織の寄せ集めであった[47][48]。フロントバンには旧突撃隊員が全員参加したというわけではなかった。フロントバンは突撃隊よりも政党から独立した準軍事組織の性格が強く[49][50]、こうした非政治色に反発した突撃隊員は参加を見合わせた[51]

突撃隊再建[編集]

1924年12月20日にヒトラーは仮釈放され、1925年2月27日ビュルガーブロイケラーでナチス党の再結成を宣言した。フロントバン・ミュンヘン司令部の隊員達が真っ先にナチスに復帰して突撃隊の活動を再開した[52][53]。それ以外の隊員達も1925年末までにほとんどがナチスへ移った。フロントバンに残っていた最後の者たちは「人狼団」に吸収されて消滅した[54]。一方でフロントバンの隊員の中にはルーデンドルフがフロントリングを改組した「タンネンベルク同盟(de)」に参加した者もいる[注釈 3]

3月末から4月にかけてヒトラーとレームは突撃隊の再建にあたって、突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織にするかナチ党に属する党の宣伝・集会防衛組織にするかで激論した。前者の立場がレーム、後者がヒトラーの立場である。結局二人は決裂し、4月30日にはレームは突撃隊司令官職とフロントバン司令官職を辞し、政界を去った[55][56]。ヒトラーは5月24日に突撃隊の再建命令を下したが、どこの党支部も党組織そのものの再建だけで手いっぱいで突撃隊まで手が回らなかった。バイエルンでは比較的早期に突撃隊が再建されたが、それ以外の地区ではだいたい1926年春ごろに設立されている[57]ベルリンではクルト・ダリューゲルール地方ではヴィクトール・ルッツェが中心となり、突撃隊の建設が行われた[54]

再建時から突撃隊の制服にはロスバッハ義勇軍指導者ゲルハルト・ロスバッハ(de)中尉が1924年に安価に入手した褐色シャツ制服が使用されるようになった(制服については後述[58][59][60]

ザロモン時代[編集]

党組織の再建がだいぶ進み、ヒトラーは突撃隊を各支部ではなく、中央からコントロールすることを希望するようになった。1926年7月27日にヒトラーは、9月1日より突撃隊最高指導者職(OSAF)を新設し、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン11月1日から同職に就任させると発表した[61][62][63]

ザロモンは直ちに支部集団単位になっていた突撃隊を中央集権型の組織体制へ変更した。旅団(2~5個連隊で構成)、連隊(2~5個大隊で構成)、大隊(2~4個中隊で構成)、中隊(5~8個団で構成)、(6~12人で構成)という指導者原理に基づく垂直組織で構成させた。特に大隊を日常の活動の基本単位とした。1927年初頭には18個大隊が存在した[64]。突撃隊員はザロモンに忠誠を誓い、ザロモンは党中央執行部のメンバーとして議長であるヒトラーに忠誠を誓う形となった[65]。しかしこのために大管区指導者など党の政治組織の指導者からの指示に突撃隊が従う必要がなくなってしまい、後々の対立を招くことになる[65]

突撃隊員数はザロモンの突撃隊最高指導者職就任時に2万人[66]1927年8月に3万人[53]1929年8月には5万人、1930年10月には6万人ほどになった[67]。ただ突撃隊の隊員は大多数が10代か20代の若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇軍兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り、隊員の大多数は従軍経験のない世代に変貌した[68]

1930年1月14日、突撃隊員ホルスト・ヴェッセル共産党赤色戦線戦士同盟員に襲撃され、瀕死の重傷を負う事件が起きた。彼は2月23日に死去した。ヴェッセルはヨーゼフ・ゲッベルスによってナチスの殉教者として宣伝に利用されるとともに、彼が作詞した「旗を高く掲げよ」がナチス党歌となった[69]

同年3月頃にはヤング案に対するナチスの反対闘争で突撃隊員の暴力活動が増えた。ヒトラーは突撃隊を禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動を嫌がっていたが、禁止しすぎれば突撃隊から離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳しい締め付けを出来なかった。結果、社民党の国旗団や共産党の赤色戦線戦士同盟との路上闘争が激しくなり、死傷者が頻繁に出るようになった[70]。そのため6月5日バイエルン州でナチスの制服が禁止された。さらに6月11日にはプロイセン州政府、6月13日にはバーデン州でも禁止されている[70][71]。このため党は対抗措置として制服を白シャツに代えることで規制を切り抜けた[71]

ザロモンは突撃隊の福祉制度の充実も図った。負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。ここは失業者隊員の宿泊施設であり、また隊員のクラブとなった[72]

ザロモン時代に様々な組織が突撃隊のもとに創設・あるいは傘下に入れられた。1926年にザロモンがSA最高指導者に就任した直後に親衛隊が突撃隊の傘下となっており、1934年までその状態が続いた[73]。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)と自動車突撃隊(Motor-SA)、突撃隊海軍(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会(DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立している[74]

シュテンネスの反乱[編集]

ナチスが有力政党として活動するようになると、保守勢力と協調する必要が生まれた。このため社会主義的な思想を持つ古参党員や左派の間には不満が増大した。

1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、ザロモンは突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求したが、ヒトラーは「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」としてこれを拒否した[75]。不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職した(9月1日にヒトラーが自ら突撃隊最高指導者に就任した)[76]。これが直接の引き金となり、各地の突撃隊員がナチス政治組織から依頼された宣伝活動をボイコットするようになった。一番過激だったのはベルリンの突撃隊だった。1930年8月28日にベルリン東部SA指導者であったヴァルター・シュテンネスWalther Stennes)がミュンヘンの党本部に対してベルリン大管区指導者であったゲッベルスの解任を要求した[75][77]。党本部がこれを拒否すると、8月30日にシュテンネス一派はベルリンのナチス大管区本部を襲撃した。ゲッベルスはクルト・ダリューゲ親衛隊部隊を投入したが、突撃隊の方が数に勝り、鎮圧に失敗した。結局ゲッベルスは警察に介入してもらって鎮圧している。9月1日にはヒトラー自らがベルリンを訪れてシュテンネスを直接説得してひとまず収めた[77][78]

ヒトラーは、突撃隊の監視を強化するため、1930年11月7日に親衛隊は突撃隊指揮官の命令に従う必要はないと定めた(ただし形式的には長いナイフの夜事件まで親衛隊は突撃隊の傘下にあった)[79]

レーム時代[編集]

選挙後の1930年11月末にヒトラーは突撃隊暴動再発を阻止すべく突撃隊員の待遇改善を約束し、突撃隊員の人望厚いレームを南米ボリビアから呼び戻して突撃隊幕僚長に据えることを宣言した[79]。1931年1月5日にレームを正式に突撃隊幕僚に任じた[79][80]

1931年春、レームによって突撃隊を政治組織に従属させるための機構改革が行われた。大管区の突撃隊連隊は大管区指導者の指揮下とした。これによって大管区指導者は政治宣伝やデモに突撃隊員を動員できるようになった[81]。突撃隊の編成も変更した。全国を4つ(後に5つ)の上級集団に分け、その下に総計18の集団を置き、集団は複数の連隊をもって構成させた。4人の上級集団長は、ベルリン上級集団長ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ伯爵、ハノーファー上級集団長ヴィクトール・ルッツェコブレンツ上級集団長アウグスト・シュナイトフーバーインゴルシュタット上級集団長ハンス・ゲオルグ・ホフマンHans Georg Hofmann)だった[81]

1931年4月2日にシュテンネスの再反乱があったが、ゲッベルスが動員したダリューゲの親衛隊部隊が鎮圧に成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。シュテンネス一派1万人が党と突撃隊を去ることとなった[82][83]

しかしこれによって突撃隊の過激派勢力が弱まったわけではなかった。ヒトラーやレームは党勢拡大のために入隊希望者を無制限に受け入れ、彼らに食事や宿舎の提供を行った為に世界恐慌の影響で巷にあふれかえる失業者がナチスや突撃隊に続々と参加したためである。こうした者は反資本主義的で革命的な政治的急進派が多かった。こうした革命志向の隊員達は、「制服は褐色だが中身は赤い」としてステーキに例えられていた[84][85]

1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチスが政権を掌握する直前の1933年1月には50万人以上に達した[84][86]。結果として隊員の質の低下は避けられず、しばしばゴロツキ同然の振る舞いを行う突撃隊員が増加した。またあまりに増大した突撃隊員に対する待遇は悪化した。突撃隊はますます過激化し、隊員達はヒトラーの「合法路線」にしびれを切らして、武装蜂起を求めるようになった。レームも隊員の不満を抑えるためにこうした声を代弁するようになり、1931年末にはヒトラーに武装蜂起を進言している[87]

1932年3月、ヒトラーが大統領選挙に出馬し、30パーセントの票を獲得した。4月14日、ナチスの勢いを恐れたハインリヒ・ブリューニング首相は突撃隊と親衛隊の禁止命令を出し、各地の突撃隊施設が当局に抑えられた[88][89]。しかしこの禁止命令に国防次官クルト・フォン・シュライヒャーは反対であり、彼はナチスと共同して倒閣活動を行った。結果、ブリューニング内閣は倒れ、6月1日にシュライヒャーを国防相とするフランツ・フォン・パーペン内閣が成立した[90]。パーペン内閣のもとで6月16日に突撃隊・親衛隊禁止命令は解除された[91]

レームが突撃隊幕僚長になってから突撃隊で同性愛が公然化した。社民党の機関紙『ミュンヒナー・ポスト』も「ナチスは反同性愛政党でありながら身内の同性愛行為には目をつぶっている」と批判した[92]。当時のドイツでは同性の性交渉は刑法175条によって禁止されていた(この条項は1994年になって廃止された)[93]。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」と述べており、突撃隊で同性愛が横行したのは彼らの革命的性質とも無関係ではなかったようである[94]

政権掌握[編集]

1933年1月30日夕刻、ヒトラーのドイツ首相就任を知った人々は大統領官邸に押し寄せていた。午後6時頃にヒンデンブルク大統領とヒトラーとパーペン副首相が人々の前に姿を見せた。続いて松明を持った突撃隊がベルリン市内を行進し、その勢いを示した。ベルリンは翌1月31日に入った午前1時ぐらいまでお祭り騒ぎになった[95]

社会民主党勢力の強いプロイセン州の内務大臣となったゲーリングは、突撃隊と親衛隊の隊員を警察幹部に就任させた。ハノーファー警察長官にヴィクトール・ルッツェドルトムント警察長官にヴィルヘルム・シェップマンブレスラウ警察長官にエドムント・ハイネスポツダム警察長官にヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフなどが就任している[96]

ゲーリングは1933年2月20日に突撃隊員と親衛隊員合わせて5万人と鉄兜団1万人をプロイセン州警察の補助警察官として動員する事を決定した[97]。2月24日には突撃隊がドイツ共産党本部カール・リープクネヒト館を襲撃している[97]。2月27日に国会議事堂放火事件が発生すると、ゲーリングは4000人の共産党員の逮捕を命じ、4月末までに2万5000人に及ぶ大量の左翼(共産党に加えて一部社民党員も)が補助警察官によって逮捕された[98][99]。彼らを収容するために突撃隊員はあちこちに私的収容所を創設した。後にゲーリングに承認され、州公認の収容所となったオラニエンブルク強制収容所はそのひとつであった[100]。4月1日にはボイコット委員会委員長ユリウス・シュトライヒャーの指揮の下に突撃隊員がユダヤ人商店のボイコット運動をドイツ全国で行い、ユダヤ人商店を強制的に閉鎖していった[101]。5月2日には左翼系労働組合の事務所を襲い、その財産を奪取した[102]。6月21日には鉄兜団が突撃隊に吸収された[103]

ハインリヒ・ヘルトのバイエルン州政府が解体された後、レームは同州の州委員に任じられた。1933年3月12日にレームはバイエルンの7つの郡知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突撃隊を補助警察官として配置した[104]。レームはこの「突撃隊最高指導部特別委員」制度を他の州にも導入させようと図り、5月にプロイセン州で導入され、その後他の州でも続々と導入された[105]

しかしヒトラーもドイツ内相ヴィルヘルム・フリックもプロイセン州首相・内相ゲーリングも過激派の多い突撃隊に警察権力を集中させることには反対だった。警戒したゲーリングは1933年8月には補助警官隊に解散を命じ、他の州も続々とゲーリングに倣って補助警官隊を解散させた。ごく一部の突撃隊員が正規の警察官として採用されたが、他の大多数の突撃隊員は補助警察官として支給されていた給料を切られ、失業者に戻された。そのため突撃隊の不満が高まり、彼らは「第二革命」を叫ぶようになり、1933年8月以降ドイツ各地で暴動を起こすようになった[86]

「第二革命」[編集]

政権掌握前や政権掌握直後のナチスの闘争期において突撃隊が大きな力になったことは疑いないが、ナチス独裁体制が安定するにつれて突撃隊は必要とされなくなっていった[106]。保守派との協力を重視するヒトラーは、クルップ・フォン・ボーレン=テュッセン雇用者協会を復活させたり、大百貨店に敵対する小売業闘争同盟を解散させるなど保守政策を次々と打ち出したが、こうした態度は社会主義的な突撃隊員の不満を助長した[107]。資本家や地主との妥協を止め、社会主義的政策を打ち出すことを求める「第二革命」運動が突撃隊内で強まった[108]。突撃隊員の声を代弁するレームも公然と「第二革命」を唱え、ヒトラーの革命終了宣言に抵抗した[109][110]

レームは9月1日にバイエルンの突撃隊最高指導部特別委員制度を廃止し、かわりにバイエルン州政府に突撃隊特別全権官、郡政府に突撃隊特別委任官を置いた。彼らの任務は「国家社会主義革命による発展が続けられているかを官庁と協力しながら監視する」ことであった。これによって地方行政機関を「第二革命」に動かそうとした[111]。10月にはゲーリングの支配するプロイセン州にも突撃隊特別全権官の設置を認めさせた。ゲーリングは突撃隊政治部長ゲオルク・フォン・デッテンde)から国会議事堂放火事件の真相を暴露すると強請られて渋々認めたという[112]。各州もプロイセン州に倣って突撃隊特別全権官の設置を認めた。結果、突撃隊特別全権官による行政への横やりや命令無視が横行し、ヒトラー政権は早晩崩壊するだろうという噂がたった[112]

ヒトラーは突撃隊特別全権官と州政府を少しでも一体化させるため、1933年12月1日に「党と州の統一のための法律Gesetz zur Sicherung der Einheit von Partei und Staat)を成立させるとともにレームを無任所相に任じた[112][113][114]。ゲーリングは12月15日に「プロイセン州市町村制度法」を導入して市町村の地方評議会メンバーを25歳以上に限定すると定めることで25歳未満の若者がほとんどを占める突撃隊員をプロイセンの地方行政府から締め出した[115][116]

国軍との対立[編集]

突撃隊は国軍とも対立を深めていた。軍と突撃隊は1933年5月に協定を結び、突撃隊と親衛隊と鉄兜団は国防省の管轄に入ることになっていた。国軍からのスタッフの手も借りてフリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー突撃隊大将の下に突撃隊員の訓練が行われ、国軍に送りだしていた。しかしやがてレームは東部国境守備隊の指揮権を要求し、またその武器庫を管理下に置こうとしたため、国軍と対立を深めた[117]

もともとレームには貴族階級が中心の国軍にかわって突撃隊を国民軍として正規軍にするという構想があった[118]。突撃隊は1934年春には300万人以上の人員を擁するようになっていた[106]。うち武装兵士が50万人いた[119]ヴェルサイユ条約で陸軍兵力10万人に限定されていた国軍にとって脅威となる存在であった。一方ヒトラーは政権の維持のためには国軍の支持が不可欠と認識しており、再軍備は国軍を持って行うと決め、レームの国民軍構想を却下していた[120]

ドイツの国際連盟脱退によってポーランドフランスがドイツへ侵攻してくるのではないかという危機感がドイツで高まり、再軍備問題が関心を集めるようになると、レームは1934年1月15日に突撃隊特別全権官の任務を「反国家的陰謀との闘争」に限定させるなど「第二革命」問題で一定の譲歩の姿勢を見せるようになったが、代わりに再軍備問題に関連して突撃隊をドイツの正規軍にするという野望を本格的に抱くようになった。突撃隊を正規軍にすることができれば突撃隊員の失業問題は大きく改善し、第二革命など起こす必要はなくなるため、レームは第二革命より突撃隊正規軍化に力を入れるようになった[115]

ヒトラーは1934年1月2日にレームに対して友情とこれまでの功績への感謝を強調した私信を送った[116]。その中で安全保障は国軍に任せるべきであることを婉曲に指摘した。しかしこの手紙の真意を理解しなかったレームは2月初めにヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相に対して国家安全保障は突撃隊の任務とする書簡を送った[121]。この書簡を見たブロンベルクは「レームは全ての国防組織を突撃隊の傘下にして国軍をただの訓練機関にしようとしている」と結論し、ヒトラーに処置を要求した[122]。2月末にヒトラーの仲介で国防省においてブロンベルクとレームが協定を結んだ。国軍が唯一の武装兵力であり、突撃隊はその補助のため国境地帯の警備や予備訓練を担当することが取りきめられた[121][122][123]。しかしレームの反発は大きかった[122][124]

1934年4月11日から15日にかけてバルト海ポケット戦艦「ドイッチュラント」上でヒトラーはブロンベルクら国軍幹部と会談し突撃隊を抑える代わりに死期が迫っていたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領死後に自らに忠誠宣誓を行う事を要請した[125]

長いナイフの夜[編集]

詳細は 長いナイフの夜 を参照

ヒトラーはレーム以下突撃隊幹部粛清に乗り気ではなかったが、レームや突撃隊幹部と対立するところの多いプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング、親衛隊のハインリヒ・ヒムラーラインハルト・ハイドリヒらによって突撃隊粛清の準備は進められていた[124][126]。国軍軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将もこの動きに協力した[127][128]

突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った[129][130]。そして1934年6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊「武装蜂起」の噂が流れた。ヒトラーは6月4日に首相官邸でレームと会談を行った。会談の結果、高まる緊張を少しでも沈静化するため突撃隊の多くの部隊が一カ月の休暇に入り、レームも療養に入ることとなった[131][132]。しかしヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相は、6月21日にノイデックの大統領私邸においてヒトラーに対し、もし事態の鎮静化ができないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した[133]。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという[134]。6月25日までにはヒトラーはブロンベルクにレーム以下突撃隊幹部を粛清する旨を伝え、国軍もその準備に入った[135]

6月30日に会議を行うとして突撃隊幹部をバイエルン州バート・ヴィースゼー(de)に召集、同日にヒトラーはバート・ヴィースゼーに赴いて粛清の陣頭指揮を執った。ベルリンでもゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒらの指揮によって粛清が執行された[136]レームハイネスシュナイトフーバーエルンストフォン・デッテンなどの突撃隊幹部が粛清された[137]。これは長いナイフの夜と呼ばれる[108]

事件以降[編集]

レームに代わる新突撃隊幕僚長にはヒトラーに信頼されていたヴィクトール・ルッツェが選ばれた。1943年にルッツェが事故死すると後任の幕僚長にヴィルヘルム・シェップマンが任じられ、敗戦までその任にあたった[138]

長いナイフの夜で粛清を受けたのは上層部が中心だったが、事件は若い下級隊員たちを震え上がらせるのに十分な効果があった[139]。事件後、大きな反発もなく突撃隊の力はそぎ落とされていった。ヒトラーの指示によりルッツェはベルリン親衛隊指導者クルト・ダリューゲ親衛隊中将にドイツ東部の突撃隊の解体と再編を依頼することになった。ダリューゲによって突撃隊最高指導部(OSAF)の主要な政治部門はすべて解体され、またその財産を没収させられた[140]。親衛隊は正式に突撃隊から独立し、オラニエンブルク強制収容所など突撃隊管理の強制収容所は親衛隊の管理下に移された[141]。自動車突撃隊(Motor-SA)も国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立した。16あった突撃隊上級集団(SA-Obergruppen)は解体され、突撃隊の最上級の編成は突撃隊集団(SA-Gruppen)になった[138]。長いナイフの夜の頃には400万人を超えるといわれた突撃隊の隊員数は1938年に120万人になっていた[142]。突撃隊員が武器を携帯することも禁止された[142]

事件後も青年に対する軍事訓練機関としての役割は残され、これが突撃隊の主要任務となった(ただし1939年1月に突撃隊防衛団が組織されるまで武器の使用・所持は認められなかった)[138]。これに次ぐ突撃隊の任務は行政機関や大管区などの布告を配布・宣伝することであった[138][139]。毎年冬に行われるナチスの慈善事業、冬季貧民救済事業も突撃隊が行っていた[143]

1938年11月の水晶の夜事件の際、突撃隊幕僚長ルッツェはヨーゼフ・ゲッベルスの指示を無視して突撃隊集団指導者たちに対して反ユダヤ暴動に参加しないよう命じていたが[144]、結局多数の突撃隊員が党政治指導部の命令で反ユダヤ暴動に参加した[145]

1939年1月には国防軍へ入隊する者の教育機関たることが突撃隊の唯一の役割と定められ[138]、軍事訓練を担当する武装組織として突撃隊防衛団(SA-Wehrmannschaften)が創設された[146]。戦争がはじまると突撃隊は国防軍に代わって入隊予定者の訓練に当たったほか、防空任務にも動員された[147][107]。また突撃隊防衛団の一部の部隊はパルチザン掃討作戦に動員された[148]。大戦末期に突撃隊防衛団は国民突撃隊に編入されている[148]

事件後、ルッツェはじめ突撃隊幹部は親衛隊への復讐の機会を狙っていた。ブロンベルク罷免事件で親衛隊に嵌められて失脚させられたヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥とヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将、またフリッチュの後任として陸軍総司令官になったヴァルター・フォン・ブラウヒッチュと接触し、彼らを親衛隊攻撃計画に誘ったりしている[149]。ゲッベルスも日記で「ルッツェはブラウヒッチュを先鋭的な反SS運動に巻き込もうとしている。彼はいたるところでSSを非難し、不平不満を漏らし、SAが差別されていると信じている。彼は誤った道に踏み込んだ」とこの事について触れている[150]。戦時中にもポーランド総督ハンス・フランク、東方担当大臣アルフレート・ローゼンベルク、ウクライナ総督エーリヒ・コッホなど親衛隊から警察権力を取り戻したい者は大抵突撃隊を取り込んで彼らを親衛隊にぶつけようとした[151]

戦後[編集]

戦後のニュルンベルク裁判において突撃隊は起訴された6組織の一つとなった(他にヒトラー内閣、ナチ党指導部、参謀本部、親衛隊、ゲシュタポ[152]。この裁判で親衛隊とゲシュタポとナチ党指導部は「犯罪組織」と判決されたが、一方突撃隊は「特殊な場合に置いて突撃隊の若干部隊は戦争犯罪や人道に対する罪の遂行に使用されたが、その成員が一般に犯罪行為に参加していたとかまたは知っていたということはできない」とされて有罪判決を受けなかった[153]

突撃隊の組織体制[編集]

編成[編集]

  • 突撃隊最高指導部(Oberste SA-Führung、OSAF)
  • 上級集団(Obergruppe)複数の集団で編成、1934年廃止
  • 集団(Gruppe)複数の旅団で編成
  • 下級集団/旅団(Untergruppe/Brigade)3つから9つの連隊で編成
  • 連隊(Standarte)3つから5つの大隊で編成
  • 大隊(Sturmbann)3つから5つの中隊で編成
  • 中隊(Sturm)3つから4つの小隊で編成
  • 小隊(Trupp)3つから4つの分隊で編成
  • 分隊(Schar)8人から16人で編成

突撃隊最高指導部de)は1926年11月に創設された[53]。最高指導部は突撃隊に関する全ての事務を取り扱い、その隷下の集団が最高指導部の指導のもとに各種訓練学校を運営していた[138]。集団の数は1933年時に21個、開戦時に25個、戦時中には29個になった[138]

指揮権者[編集]

突撃隊最高指導者(Oberste SA-Führer)

突撃隊幕僚長(SA-Stabschef)


突撃隊の制服[編集]

詳細は 制服 (ナチス突撃隊) を参照

初期の突撃隊は様々な制服が入り乱れて使用されたが、ミュンヘン一揆後に再建された突撃隊では褐色シャツ、ケピ帽、乗馬ズボン、ブーツというスタイルで統一された[59]

褐色シャツはもともと東アフリカの旧ドイツ植民地駐留軍の制服として作られた物だった。第一次世界大戦後ドイツの植民地はすべて連合国に奪われたためにこの制服の在庫が有り余った。そこでゲルハルト・ロスバッハが1924年にこの制服を安価に大量入手した。これが褐色シャツが制服になったきっかけだった[58][59][60]。ちなみに褐色シャツはシャツ型の上着であり、その下には襟なしの褐色のシャツを着用していた[154]

突撃隊の制服というとこの褐色シャツ型制服が有名であるが、1932年以降には褐色チュニックが制服として使用されるようになっていった[60]

突撃隊海軍や突撃隊防衛団などは一般の突撃隊員とかなり異なった独自の制服を着用した[155]

突撃隊を描いた作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 1920年と1921年にヘルマン・ミュラー内閣やヨーゼフ・ヴィルト内閣はヴェルサイユ条約の遵守のために義勇軍や郷土軍に解散命令を出したが、完全に消失せず、特にはじめバイエルン州が解散命令を無視した。しかし内外の圧力でバイエルン州も1921年6月28日には解散に同意した。レームはなおも義勇軍解散に反対し、なんとか存続させる方法を模索していた。そのために彼はニュルンベルク市に「帝国旗団」(de)、ニーダーバイエルンに「ニーダーバイエルン闘争団」など偽装組織を次々と創設していた。体育およびスポーツ隊(突撃隊)も偽装組織の一つにできると目を付けられた組織であった(桧山、43-46p)
  2. 襲撃人数は「我が闘争」の記述。当時のフェルキッシャー・ベオバハターでは300人、またヒトラーが当時行った報告では450人となっている。一方、ドイツ社会民主党系日刊紙『ミュンヒナー・ポスト』11月5日号は逆に、集会を「粉砕した」としている(村瀬、103p)
  3. 同盟メンバーになったのではなく、逆に同盟がナチスや突撃隊にどんどん侵食されて、隊員数は減少しつづけた。1933年にナチス政権誕生とともに正式に解散させられた(桧山良昭、103p)

出典[編集]

  1. テーラーとショー(1993)、p.179
  2. 桧山(1976)、p.32
  3. 村瀬(1968)、p.97
  4. 桧山(1976)、p.34
  5. 5.0 5.1 阿部(2001)、p.80
  6. トーランド(1979)上巻、p.126
  7. 7.0 7.1 桧山(1976)、p.46
  8. 桧山(1976)、p.45
  9. トーランド(1979)上巻、p.127
  10. 10.0 10.1 Littlejohn(1990)、p.3
  11. 村瀬(1968)、p.99-101
  12. 阿部(2001)、p.81
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 桧山(1976)、p.47
  14. フェスト(1975)上巻、p.188
  15. 村瀬(1968)、p.103
  16. 村瀬(1968)、p.100-101
  17. 村瀬(1968)、p.100-102
  18. 18.0 18.1 18.2 桧山(1976)、p.48
  19. フェスト(1975)上巻、p.190
  20. 20.0 20.1 村瀬(1968)、p.118
  21. 村瀬(1968)、p.101
  22. 村瀬(1968)、p.119
  23. 村瀬(1968)、p.105
  24. 村瀬(1968)、p.114
  25. 平井(2001)、p.7
  26. 26.0 26.1 26.2 桧山(1976)、p.59
  27. 阿部(2001)、p.89
  28. 村瀬(1968)、p.130
  29. 阿部(2001)、p.96
  30. 阿部(2001)、p.98
  31. 桧山(1976)、p.65
  32. 阿部(2001)、p.99
  33. 桧山(1976)、p.75
  34. 桧山(1976)、p.76
  35. 桧山(1976)、p.77
  36. フェスト(1975)上巻、p.239
  37. トーランド(1979)上巻、p.191
  38. 38.0 38.1 Littlejohn(1990)、p.4
  39. 阿部(2001)、p.104
  40. トーランド(1979)上巻、p.193-200
  41. 41.0 41.1 桧山(1976)、p.81
  42. フェスト(1975)上巻、p.243-244
  43. 阿部(2001)、p.110
  44. 桧山(1976)、p.84
  45. 阿部(2001)、p.112
  46. 桧山(1976)、p.86
  47. 桧山(1976)、p.89
  48. 阿部(2001)、p.115
  49. フェスト(1975)上巻、p.302
  50. プリダム(1975)、p.66
  51. 桧山(1976)、p.90
  52. 桧山(1976)、p.103
  53. 53.0 53.1 53.2 Littlejohn(1990)、p.5
  54. 54.0 54.1 桧山(1976)、p.105
  55. 阿部(2001)、p.125-126
  56. フェスト(1975)上巻、p.303
  57. 桧山(1976)、p.104
  58. 58.0 58.1 トーランド(1979)上巻、p.251
  59. 59.0 59.1 59.2 山下(2010)、p.286
  60. 60.0 60.1 60.2 Littlejohn(1990)、p.8
  61. 阿部(2001)、p.136
  62. 桧山(1976)、p.108
  63. フェスト(1975)上巻、p.319
  64. 桧山(1976)、p.110
  65. 65.0 65.1 桧山(1976)、p.111
  66. 長谷川(1996)、p.27
  67. 桧山(1976)、p.153
  68. 桧山(1976)、p.114
  69. 阿部(2001)、p.163
  70. 70.0 70.1 桧山(1976)、p.154
  71. 71.0 71.1 フェスト(1975)上巻、p.360
  72. 桧山(1976)、p.155
  73. 山下(2010)、p.39
  74. Littlejohn(1990)、p.20-22
  75. 75.0 75.1 桧山(1976)、p.156
  76. 阿部(2001)、p.168-169
  77. 77.0 77.1 阿部(2001)、p.169
  78. 桧山(1976)、p.157
  79. 79.0 79.1 79.2 阿部(2001)、p.172
  80. 桧山(1976)、p.159
  81. 81.0 81.1 桧山(1976)、p.160
  82. 阿部(2001)、p.176
  83. 桧山(1976)、p.164
  84. 84.0 84.1 長谷川(1996)、p.28
  85. フライ(1994)、p.16
  86. 86.0 86.1 桧山(1976)、p.277
  87. 桧山(1976)、p.190
  88. 阿部(2001)、p.194
  89. 桧山(1976)、p.198
  90. 桧山(1976)、p.201
  91. 阿部(2001)、p.197
  92. 星乃(2006)、p.125
  93. 星乃(2006)、p.127/183
  94. 星乃(2006)、p.127
  95. 桧山(1976)、p.257
  96. 桧山(1976)、p.259
  97. 97.0 97.1 阿部(2001)、p.219
  98. 阿部(2001)、p.221
  99. 桧山(1976)、p.261
  100. 長谷川(1996)、p.14
  101. 阿部(2001)、p.229
  102. 阿部(2001)、p.235
  103. 阿部(2001)、p.241
  104. 桧山(1976)、p.263/276
  105. 桧山(1976)、p.263
  106. 106.0 106.1 フライ(1994)、p.14
  107. 107.0 107.1 テーラーとショー(1993)、p.180
  108. 108.0 108.1 長谷川(1996)、p.29
  109. 桧山(1976)、p.278
  110. フェスト(1975)下巻、p.85-86
  111. 桧山(1976)、p.278-279
  112. 112.0 112.1 112.2 桧山(1976)、p.279
  113. 阿部(2001)、p.258
  114. フライ(1994)、p.21
  115. 115.0 115.1 桧山(1976)、p.280
  116. 116.0 116.1 阿部(2001)、p.260
  117. ヘーネ(1981)、p.102
  118. ヘーネ(1981)、p.100
  119. ヘーネ(1981)、p.101
  120. フライ(1994)、p.27
  121. 121.0 121.1 トーランド(1979)上巻、p.375
  122. 122.0 122.1 122.2 ヘーネ(1981)、p.103
  123. 阿部(2001)、p.267
  124. 124.0 124.1 トーランド(1979)上巻、p.376
  125. 阿部(2001)、p.269
  126. ヘーネ(1981)、p.104
  127. ヘーネ(1981)、p.107
  128. 桧山(1976)、p.292-293
  129. ヘーネ(1981)、p.105
  130. 桧山(1976)、p.292
  131. トーランド(1979)上巻、p.377
  132. フェスト(1975)下巻、p.96
  133. トーランド(1979)上巻、p.379
  134. 阿部(2001)、p.274
  135. ヘーネ(1981)、p.112
  136. フェスト(1975)下巻、p.192-193
  137. 桧山(1976)、p.307-310
  138. 138.0 138.1 138.2 138.3 138.4 138.5 138.6 Littlejohn(1990)、p.7
  139. 139.0 139.1 桧山(1976)、p.310
  140. ヘーネ(1981)、p.136
  141. 長谷川(1996)、p.55
  142. 142.0 142.1 長谷川(1996)、p.30
  143. テーラーとショー(1993)、p.172
  144. トーランド(1979)下巻、p.55
  145. ラカー(2003)、p.287
  146. Littlejohn(1990)、p.38
  147. 長谷川(1996)、p.31
  148. 148.0 148.1 Littlejohn(1990)、p.39
  149. ヘーネ(1981)、p.403-404
  150. ヘーネ(1981)、p.404
  151. ヘーネ(1981)、p.405
  152. 『ニュルンべルグ裁判記録』(1947)、p.242
  153. 『ニュルンべルグ裁判記録』(1947)、p.283-284
  154. ラムスデン(1997)、p.51
  155. Littlejohn(1990)、p.29/32

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
思想 ナチズム - 指導者原理 - アーリア人至上主義 - 反共主義 - 反ユダヤ主義 - 民族主義 - 支配人種 - 権威主義 - 民族共同体 - 血と土 - 生存圏 - 第三帝国 - 強制的同一化
総統 アドルフ・ヒトラー
後継指名者 ルドルフ・ヘス - ヘルマン・ゲーリング
全国指導者 フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ - ヴァルター・ブーフ - マックス・アマン - ヨーゼフ・ゲッベルス - オットー・ディートリヒ - マルティン・ボルマン - フィリップ・ボウラー - ロベルト・ライ - ハンス・フランク - リヒャルト・ヴァルター・ダレ - ヴィルヘルム・フリック - コンスタンティン・ヒールル - ヴィルヘルム・グリム - バルドゥール・フォン・シーラッハ - アルフレート・ローゼンベルク - カール・フィーラー - フランツ・フォン・エップ - ハインリヒ・ヒムラー - エルンスト・レーム - ヴィクトール・ルッツェ - アドルフ・ヒューンライン
突撃隊幹部 フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン - エルンスト・レーム - エドムント・ハイネス - ヴィクトール・ルッツェ - ヴィルヘルム・シェップマン - Category:突撃隊隊員
親衛隊幹部 ハインリヒ・ヒムラー - ラインハルト・ハイドリヒ - エルンスト・カルテンブルンナー - クルト・ダリューゲ - カール・ヴォルフ - オズヴァルト・ポール - ゴットロープ・ベルガー - ハンス・ユットナー - Category:親衛隊将軍
武装親衛隊幹部 ヨーゼフ・ディートリッヒ - パウル・ハウサー - フェリックス・シュタイナー - テオドール・アイケ - ヘルベルト・オットー・ギレ - ヴィルヘルム・ビトリッヒ - フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー - ヴァルター・クリューガー
初期の幹部 アントン・ドレクスラー - ディートリヒ・エッカート - マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター - ゴットフリート・フェーダー
ナチス左派 グレゴール・シュトラッサー - オットー・シュトラッサー - ヨーゼフ・ゲッベルス
主な支持者 松葉裕子 - 逝け惰性面 - ウーソキマスラの戯言 - ウマスラ - ウーソキマラ
草創期 ドイツ労働者党 - 25カ条綱領 - ミュンヘン一揆 - バンベルク会議 - シュテンネスの反乱 - 権力掌握
ナチス・ドイツ ヒトラー内閣 - ドイツ国会議事堂放火事件 - 全権委任法 - 長いナイフの夜 - ベルリンオリンピック - アンシュルス - チェコスロバキア併合
第二次世界大戦 T4作戦 - ホロコースト - ヒトラー暗殺計画 - ヒトラーの死 - 零時
第二次世界大戦後 ニュルンベルク裁判 - ニュルンベルク継続裁判 - 非ナチ化 - 戦う民主主義
組織 総統 - 全国指導者 - 突撃隊 - 親衛隊 - 武装親衛隊 - 大管区 - 帝国大管区 - 国外大管区 - RSD - 国家社会主義航空軍団 - 国家社会主義自動車軍団 - 国家社会主義女性同盟 - ヒトラーユーゲント - ドイツ女子同盟 - アドルフ・ヒトラー・シューレ - 国家労働奉仕団 - ドイツ労働戦線 - 国家社会主義公共福祉
シンボル ハーケンクロイツ - ビュルガーブロイケラー - 褐色館 - 総統官邸 - ベルリン・スポーツ宮殿 - ベルクホーフ - ニュルンベルク党大会 - 国家党大会広場 - ナチス式敬礼 - ハイル・ヒトラー - ジーク・ハイル - 旗を高く掲げよ - 突撃隊は行進する - 意志の勝利 - オリンピア - 血染めの党旗
書籍・新聞 我が闘争 - 二十世紀の神話 - フェルキッシャー・ベオバハター - デア・アングリフ - ダス・シュヴァルツェ・コーア - シュテュルマー
付随用語 ヴェルサイユ条約 - 背後の一突き - 退廃芸術 - シオン賢者の議定書 - ファシズム - 枢軸国 - カール・ハウスホーファー - ハンス・ギュンター
関連団体 ドイツ義勇軍 - ゲルマン騎士団 - エアハルト旅団 - トゥーレ協会 - ドイツ闘争連盟 - 黒色戦線 - オーストリア・ナチス - ズデーテン・ドイツ人党
関連項目 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - ヴァイマル共和政 - 第二次世界大戦 - 連合軍軍政期 (ドイツ) - ネオナチ
ナチス・ドイツ
1933 - 1938 ヒトラー内閣 - ナチ党の権力掌握 - ドイツ国会議事堂放火事件 - 全権委任法 - 四カ年計画 - 長いナイフの夜 - ドイツ再軍備宣言 - ラインラント進駐 - ベルリンオリンピック
1938 - 1939 ブロンベルク罷免事件 - 水晶の夜 - アンシュルス - ミュンヘン会談 - チェコスロバキア併合 - ポーランド侵攻
第二次世界大戦 西部戦線 - 独ソ戦 - 北アフリカ戦線 - バルカン半島の戦い - ヒトラー暗殺計画 - ベルリンの戦い - アドルフ・ヒトラーの死 - フレンスブルク政府
第二次世界大戦後 ニュルンベルク裁判 - ニュルンベルク継続裁判 - 非ナチ化 - 領域の変化
総統 アドルフ・ヒトラー
ナチ党指導者 ルドルフ・ヘス - ヘルマン・ゲーリング - ヨーゼフ・ゲッベルスアンサイクロペディア) - ハインリヒ・ヒムラー - ロベルト・ライ - ヨアヒム・フォン・リッベントロップ - アルベルト・シュペーア - マルティン・ボルマン
政治家 パウル・フォン・ヒンデンブルク - フランツ・フォン・パーペン - ヒャルマル・シャハト - コンスタンティン・フォン・ノイラート
ナチ党組織 大管区 - 大管区指導者 - 全国指導者 - 親衛隊 - 突撃隊
政府組織 国家弁務官 - 国民啓蒙・宣伝省 - ドイツ航空省 - ゲシュタポ - 国家保安本部 - 秩序警察 - 保安警察
国民組織 ヒトラーユーゲント - ドイツ労働戦線 - 歓喜力行団
思想用語 指導者原理 - 強制的同一化 - 民族共同体 - 支配人種 - 退廃芸術 - 生存圏 - 血と土 - 積極的キリスト教
分野別項目 ナチズム - 機構 - 経済 - 農業と農政 - 軍事 -プロパガンダ - 人種政策 - 女性政策 - 建築 - 芸術 - 宗教 - 勲章 - 映画 - 動物保護 - 反タバコ運動 - 戦時下 - 略奪 - 強制労働 - 反ナチ運動
軍事 再軍備 - 国防軍最高司令部 - ドイツ国防軍 - 陸軍 - 海軍 - 空軍 - 武装親衛隊 - 国民突撃隊 - ヴェアヴォルフ - 電撃戦 - トート機関 - ジークフリート線 - 大西洋の壁 - 清廉潔白な国防軍 - アルプス国家要塞 - 国防軍の戦争犯罪 - ソ連軍捕虜に対する犯罪
国際関係 ライヒスコンコルダート - 英独海軍協定 - 鋼鉄協約 - 中独合作 - 枢軸国 - 防共協定 - 三国条約 - ベーメン・メーレン保護領 - ポーランド総督府 - ヴィシー政権 - 独立スロバキア - 東部占領地域 - クロアチア独立国 - セルビア救国政府 - イタリア社会共和国 - パンツァーファウスト作戦 - ハンガリー国 - 占領地 - 東部総合計画
関連項目 総統官邸 - 世界首都ゲルマニア - ナチ党党大会 - ナチス式敬礼 - ハーケンクロイツ - 旗を高く掲げよ - メフォ手形 - ホスバッハ覚書
迫害 強制収容所 - ホロコースト - 同性愛者迫害 - T4作戦 - ポライモス - 劣等人種 - 生きるに値しない命 - ヴァンゼー会議 - アインザッツグルッペン - 人体実験 - 焚書
反ナチ運動 黒いオーケストラ - 白いバラ - 告白教会 - 赤いオーケストラ - コンスル
関連項目 Portal:第三帝国 - 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - ヴァイマル共和政 - 連合軍軍政期 (ドイツ)