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'''孫 文'''(そん ぶん、[[1866年]][[11月12日]] - [[1925年]][[3月12日]])は、中国の[[政治家]]・[[革命家]]。初代[[中華民国]]臨時大総統。[[中国国民党]]総理。[[辛亥革命]]を起こし、「中国革命の父」、中華民国では'''国父'''([[国家の父]])と呼ばれる。また、[[中華人民共和国]]でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。
 
'''孫 文'''(そん ぶん、[[1866年]][[11月12日]] - [[1925年]][[3月12日]])は、中国の[[政治家]]・[[革命家]]。初代[[中華民国]]臨時大総統。[[中国国民党]]総理。[[辛亥革命]]を起こし、「中国革命の父」、中華民国では'''国父'''([[国家の父]])と呼ばれる。また、[[中華人民共和国]]でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。
  

2020年1月8日 (水) 03:57時点における版

[[Image:Sunyatsen1.jpg|350px|thumb|孫文]] '''孫 文'''(そん ぶん、[[1866年]][[11月12日]] - [[1925年]][[3月12日]])は、中国の[[政治家]]・[[革命家]]。初代[[中華民国]]臨時大総統。[[中国国民党]]総理。[[辛亥革命]]を起こし、「中国革命の父」、中華民国では'''国父'''([[国家の父]])と呼ばれる。また、[[中華人民共和国]]でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸で尊敬される数少ない人物である。 中国では孫文よりも'''孫中山'''の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。[[1935年]]から[[1948年]]まで発行されていた[[法幣]]([[不換紙幣]])で肖像に採用されていた。現在は100[[ニュー台湾ドル|新台湾ドル]]紙幣に描かれている。 == 孫文と日本~辛亥革命 == 1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら、「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。 孫文の思想の根源 に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。同年、宮崎滔天らの援助で東京池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。 ここで留学中の蒋介石と出会う。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治 維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。 孫文自身1919年に次のように発言している。 「そもそも中国国民党は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、 はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じるこ とができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした 」 また1923年には、次のように発言している。 「日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する」 == 呼称・号 == 譜名は'''徳明''' 、[[字]]は'''載之'''、[[号 (称号)|号]]は'''日新''' 、'''逸仙''' (Yìxiān) または'''中山''' 、幼名は'''帝象''' 。他に'''中山樵'''、'''高野長雄'''がある。中国や台湾では孫中山として、[[欧米]]では孫逸仙の[[広東語]]ローマ字表記である'''Sun Yat-sen'''として知られる。 ===号の由来=== 孫文が日本亡命時代には東京の[[日比谷公園]]付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を'''孫中山'''と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。 中華民国の[[国立中山大学]]および中華人民共和国を代表する[[大学]]のひとつである[[中山大学]]、[[南極大陸]]の[[中山基地]]、そして現在[[台湾]]や[[中国]]にある「[[中山公園]]」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。 == 生涯 == === 生い立ち === [[File:Sun Yat-sen as A School Boy In Hawaii, age 13.jpg|thumb|100px|alt=ホノルル、ハワイ、13歳の学校の男の子として、中山の彫像|ホノルル、ハワイ、13歳の学校の男の子として、中山の彫像]] [[File:Sun Yat Sen's Young Time2.png|thumb|160px|孫文(17歳)]] [[ファイル:TaiwanP1935-1Yuan-1946 a.jpg|200px|thumb|孫文の肖像画の台湾ドル紙幣]] 清国[[広東省]]香山県翠亨村(現[[中山市]])の[[客家]]の農家に生まれる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]新領の[[ハワイ]]にいた兄の[[孫眉]]を頼り、[[ホノルル市]]の[[プナホウ・スクール]]に学び[[西洋]]思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された。帰国後、香港西医書院([[香港大学]]の前身)で[[医学]]を学びつつ革命思想を抱くようになり、[[ポルトガル]]の[[植民地]]の[[マカオ]]で[[医師]]として開業した。 === 革命家へ === [[清仏戦争]]の頃から[[政治問題]]に関心を抱き、[[1894年]]1月、ハワイで[[興中会]]を組織した。翌年、[[日清戦争]]の終結後に広州での武装蜂起([[広州蜂起]])を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。[[1897年]]、[[宮崎滔天]]の紹介によって政治団体[[玄洋社]]の[[頭山満]]と出会い、頭山を通じて[[平岡浩太郎]]から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は[[犬養毅]]が斡旋した。 [[1899年]]、[[義和団の乱]]が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。1902年、[[日本人]]の[[大月薫]]と[[駆け落ち]]に近い形で[[結婚]]した。 のちアメリカを経て[[イギリス]]に渡り、一時[[清国]]公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に[[革命家]]として有名になる。この直後の[[1904年]]、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した。以後、革命資金を集める為、[[世界]]中を巡った。 [[1905年]]に[[ヨーロッパ]]から帰国をする際に[[スエズ運河]]を通った際に、現地の多くの[[エジプト人]]が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、[[日露戦争]]での日本の勝利が[[アラブ人]]ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「[[辮髪]]もやめたい」と言ってきた。同年、[[宮崎滔天]]らの援助で[[東京]]池袋にて興中会、[[光復会]]、[[華興会]]を糾合して[[中国同盟会]]を結成。ここで留学中の[[蒋介石]]と出会う。 === 中華民国建国 === [[ファイル:Wuchangqiyi paobing.JPG|thumb|250px|武昌蜂起の兵士たち]] [[1911年]][[10月10日]]、共進会と同学会の指導下、[[武昌蜂起]]が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える[[辛亥革命]]に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は[[武昌]]派と[[上海市|上海]]派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が[[12月25日]]に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌[[1912年]][[1月1日]]、孫文を'''臨時大総統'''とする[[中華民国]]が[[南京市|南京]]に成立した。 ===国民党と第二革命・第三革命=== [[1913年]]3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得。同党の実質的な指導者である[[宋教仁]]を総理とした。[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]の退位と引き換えに清朝の実力者となった[[袁世凱]]はアメリカの政治学者グッドナウによる強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた。 これに伴い、同1913年(大正2年)7月、袁世凱打倒の'''[[第二革命]]'''がはじまる。[[1914年]]に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。 [[1915年]]には共和制を廃止、帝政を復活させ、袁世凱自らが中華帝国大皇帝に即位する。直ちに反袁・反帝政の'''[[護国戦争|第三革命]]'''が展開される。翌年、袁は病死するが、[[段祺瑞]]が後継者になる。 ===広東軍政府と護法運動=== この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「[[軍閥]]割拠」の状況であった。孫文は、西南の[[軍閥]]の力を利用し、[[1917年]]、[[広州市|広州]]で'''広東軍政府'''を樹立する。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の[[陸栄廷]]を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は[[陳炯明]]との路線対立により、広州を追われた。 孫文は一時、日本へ[[亡命]]した。日本亡命時には「[[明治維新]]は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。 この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の[[宋慶齢]]と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の[[1913年]] - [[1916年]]の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の[[梅屋庄吉]]であった。 ===五・四運動の影響=== 1915年、第一次世界大戦中の日本が[[対華21ヶ条要求]]を北京政府に要求。[[1917年]]には[[ロシア革命]]が起きる。[[第一次世界大戦]]後の[[1919年]]1月の[[パリ講和会議]]によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。[[五・四運動]]である。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。 [[陳独秀]]や[[毛沢東]]もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、[[ボリシェビキ]]をモデルとした。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。 ===佐々木到一軍事顧問就任=== [[ファイル:Sun Yat-sen and Chiang Kai-shek.jpg|thumb|200px|孫文(右)と蒋介石]] [[1922年]]に広東駐在武官となった[[佐々木到一]]は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり深い関係を持った。佐々木は後年国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蒋介石を紹介された。なお[[人民服]](中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は[[1924年]]に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。 ===孫文・ヨッフェ共同宣言=== [[1922年]]のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、[[1923年]]1月26日には孫文と[[ソビエト連邦]]代表[[アドリフ・ヨッフェ]]の共同声明である「[[孫文・ヨッフェ共同宣言]]」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言は、[[コミンテルン]]、[[中国国民党]]および[[中国共産党]]の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。 しかし、連ソ容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、蒋介石を裏切り者と攻撃している。 ===国共合作=== 1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった。 コミンテルンの[[工作員]][[ミハイル・ボロディン]]は、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により[[1924年]][[1月20日]]、中国共産党との[[国共合作#第一次国共合作|第一次国共合作]]が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。[[黄埔軍官学校]]も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。[[1925年]]にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のために[[モスクワ中山大学]]が設立された。 1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の[[神戸市|神戸]]で有名な「[[大アジア主義講演]]」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、[[欧米]]の[[帝国主義]]にたいし[[東洋]]の[[王道]]・[[平和]]の思想を説き、日中の友好を訴えた。 === 死後 === [[ファイル:Sun Yat-sen 1924 Guangzhou.jpg|thumb|200px|孫文の晩年の写真(1924年)]] 1925年、有名な「''革命尚未成功、同志仍須努力'' (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して(実際には[[汪兆銘]]が起草した文案を孫文が了承したもの)[[北京市|北京]]に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は[[中山陵]]と呼ばれる。 霊枢を北京より[[南京]]城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読。霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使・蒋介石と共に廟後の墓の柩側に立った。 孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった[[廖仲ガイ|廖仲愷]]は暗殺され、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。 孫文の死後に[[上海]]で発生した[[五・三〇事件]]を背景にして、汪兆銘は[[広東省|広東]][[国民政府]]を樹立。[[1926年]]7月には、約10万の[[国民革命軍]]が組織される。総司令官には蒋介石が就任し、孫文の遺言でもあった[[北伐]]を開始した。 [[1927年]]、蒋介石の[[上海クーデター]]により国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、[[1928年]][[6月9日]]には北京に入城し、[[北京政府]]を倒すことに成功した。 国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。 == 思想 == ===明治維新と孫文の革命観=== [[保坂正康]]によれば、[[宮崎滔天]]や[[山田良政]]・[[山田純三郎]]らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、[[明治維新]]または[[自由民権運動]]の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという。しかし孫文自身も[[1919年]]に次のように発言している {{Squote|そもそも中国国民党は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした。}} また[[1923年]]には、次のように発言している。 {{Squote|日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する}} このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった。 ===革命三段階論=== 孫文は決して[[民主制]]を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、[[軍事政権|軍政]]、訓政、憲政の'''三段階論'''を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、[[宋教仁]]らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式[[大統領制]]による[[連邦制]]国家を目指していたが、宋教仁は[[議院内閣制]]による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。 ===民族主義=== [[三民主義]]の一つに民族主義を掲げ、[[秦]]以来[[万里の長城]]の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した。 しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、[[1928年]]には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う。 == 遺言 == {{cquote|余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は[[大アジア主義]]に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、[[西洋史観]]、[[東洋史観]]、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の[[覇道]]に対するアジアの[[王道]]の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『[[三民主義]]』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。}} == 日本との関係 == 孫文は生前、日本人とも交遊関係は幅広く持っていた。[[犬養毅|犬養木堂]](毅)の仲介を経て知り合った[[宮崎滔天]]や[[頭山満]]・[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた。また、実業家では、[[松方幸次郎]]、[[安川敬一郎]]や株式相場師の [[鈴木久五郎]]、[[梅屋庄吉]]からも資金援助を受けている。日本滞在中に日本人女性と結婚して孫文に非常に良く似た容姿の娘をもうけたが、帰国後に母子に対して経済的な援助を一切行っていない。 ほかにも日本陸軍の[[佐々木到一]]が軍事顧問にもなっている。ほか、[[南方熊楠]]とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた。 また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・[[平山周]]・[[大石正巳]]・[[尾崎行雄]]・[[副島種臣]]・頭山満・[[平岡浩太郎]]・[[秋山定輔]]・[[中野徳次郎]]・鈴木久三郎・安川敬一郎・[[大塚信太郎]]・[[久原房之助]]・[[山田良政]]・宮崎寅蔵・[[菊池良一]]・[[萱野長知]]・[[副島義一]]・[[寺尾亨]]の名前を列挙し、深く感謝の意を表している。 == 評価 == 孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から[[帝国主義]]に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「[[大アジア主義講演]]」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。 しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の[[独裁]]主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・[[客家人]]である)な[[民族主義]]といった点が問題視されるようになり、現在の[[権威主義]]的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。 孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの[[借款]]に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目標のためには手段を選ばない運動のスタイルである。 彼の思想である「三民主義」も、[[マルクス・レーニン主義]]、[[リベラル]]・[[デモクラシー]]、[[儒教]]に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。 孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。 孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。 == 人物 == *[[春秋時代]]の[[孫武|孫子]]および[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]の末裔と伝わる。 * 生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。 * 非常に短気で激昂しやすい性格であったと伝わる。[[林語堂]]はその態度を批判して、古来の諺を引用して「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」と諫言したが、孫文は耳を貸さず「水に落ちた犬は打て(打落水狗)」と過激な発言を行った。現在の日本や韓国では、むしろその孫文の過激発言のほうが有名な諺になっている。 ==親族== * [[孫科]] - 字は哲生、孫文の先妻の息子 * [[孫治平]]・[[孫治強]] - 孫文の孫、孫科の長男と次男 * [[孫国雄]]・[[孫偉仁]] - 孫文の曾孫と玄孫 * [[宮川富美子]] - 孫文と[[大月薫]]との子 * [[宮川東一]] - 孫文の孫 == 孫文が登場する作品 == [[ファイル:そんぶん.jpg|thumb|そんぶん]] ;小説 * [[陳舜臣]]『江は流れず-小説日清戦争』 [[中央公論社]]、1981年(文庫、1984年) *陳舜臣『青山一髪』(上下巻)[[中央公論新社]]、2003年(改題『孫文』文庫、2006年) *陳舜臣『山河在り』[[講談社]]、1999年(文庫、2002年) * [[浅田次郎]]『蒼穹の昴』講談社、1996年(文庫、2004年) *浅田次郎『中原の虹』講談社、2006-07年(文庫、2010年) *革命浪人 滔天と孫文 [[三好徹]] 中央公論社, 1979.11. のち文庫  *砂の密約 孫文外伝-革命いまだ成らず [[伴野朗]] 実業之日本社, 1997.9 のち集英社文庫. *天の涯までも 小説・孫文と宋慶齢 平路 [[池上貞子]]訳 風濤社, 2003.6. ;映画 ;孫文が主人公の映画 * [[孫文 (1986年の中国映画)|孫文]](1986年、中国、監督:[[丁蔭楠]]、孫文役:[[劉文治]]) * [[孫文 (1986年の香港映画)|孫文]](1986年、台湾・香港、監督:[[丁善璽]]、孫文役:[[ラム・ワイサン]]) * [[孫文 -100年先を見た男-]](2006年、中国、監督:[[デレク・チウ]]、孫文役:[[ウィンストン・チャオ]]) ;孫文が登場する映画 * [[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ#「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱」|ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱]](1993年、香港、監督:[[ツイ・ハーク]]、孫文役:[[ジャン・ティエリン]]) * [[宋家の三姉妹]](1997年、香港、監督:[[メイベル・チャン]]、孫文役:ウィンストン・チャオ) * [[孫文の義士団]](2009年、香港・中国、監督[[テディ・チャン]]、孫文役:[[チャン・ハンユー]]) * [[1911 (映画)|1911]](2011年、中国・香港、総監督:[[ジャッキー・チェン]]、監督:[[チャン・リー]]、孫文役:ウィンストン・チャオ) ;漫画 * [[一輝まんだら]]([[手塚治虫]]) ;同人誌 * [[鉄拳無敵孫中山]] ==関連記念館・建築== * [[移情閣]] - [[神戸市]][[垂水区]]にある孫文ゆかりの建物 * [[孫中山紀念館]] * [[国父記念館]] - [[中華民国]][[台北市]]にある孫文の記念館 == 参考文献 == *孫文主義の哲学的基礎 [[戴季陶]] 中山志郎 訳. 生活社, 1939. *孫文主義国家論 林桂圃 中山志郎訳 生活社, 1940. *孫文の生涯と国民革命 [[河野密]] 日本放送出版協会, 1940 ラジオ新書 *孫文 高橋勇治 日本評論社, 1943. 東洋思想叢書 *孫文の経済思想 出口勇蔵. 高桐書院, 1946. *孫文 小野則秋. 大雅堂, 1948. *孫文伝 [[鈴江言一]]. 岩波書店, 1950. *孫文 中国革新の父 [[小田岳夫]] 偕成社, 1953. 偉人物語文庫 *革命前夜 孫文をめぐる人々 長崎武, 萱野長雄共著. 松沢書店, 1958. *孫文 革命いまだ成らず [[野沢豊]] 誠文堂新光社, 1962. 歴史の人間像 *孫文と中国革命 野沢豊 1966. 岩波新書 *孫文の研究 とくに民族主義理論の発展を中心として [[藤井昇三]] 勁草書房, 1966. *茫々の記 宮崎滔天と孫文 [[立野信之]] 東都書房, 1966. *現代中国と孫文思想 [[安藤彦太郎]],[[岩村三千夫]],野沢豊編. 講談社, 1967. *孫文と日本 [[貝塚茂樹]] 1967. 講談社現代新書 *孫文 [[横山英]],[[中山義弘]] 清水書院, 1968. センチュリーブックス. 人と思想 *孫文 中国の国父 R.チフビンスキー 高山洋吉訳. 刀江書院, 1972. *孫文 救国の情熱と中国革命 [[堀川哲男]] 清水書院, 1973. センチュリーブックス. 人と歴史シリーズ 「孫文と中国の革命運動」清水新書 *孫文思想 王昇 松田憲澄 編訳. 世界情勢研究会, 1978.11. *君ヨ革命ノ兵ヲ挙ゲヨ 日中友好秘録 革命の父・孫文に生涯した一日本人 [[車田譲治]] 六興出版, 1979.4. *革命いまだ成功せず 孫文伝 安藤彦太郎 国土社, 1981.9. 世界を動かした人びと *人類の知的遺産 63.孫文 堀川哲男 講談社, 1983.9. *孫文と中国革命 孫文とその革命運動の史的研究 [[池田誠]] 法律文化社, 1983.11. *孫文の革命運動と日本 兪辛焞 六興出版, 1989.4. 東アジアのなかの日本歴史 *移情閣遺聞 孫文と呉錦堂 [[中村哲夫(歴史学者)|中村哲夫]] 阿吽社, 1990.3. *醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎 結束博治 プレジデント社, 1992.9. *仁あり義あり、心は天下にあり 孫文の辛亥革命を助けた日本人 [[保阪正康]] 朝日ソノラマ, 1992.2. のちちくま学芸文庫 *孫文の経済学説試論 中村哲夫. 法律文化社, 1999.10. *孫文 百年先を見た男 [[田所竹彦]] 築地書館, 2000.3. のち新人物文庫  *孫文を守ったユダヤ人 モーリス・コーエンの生涯 ダニエル・S.レヴィ 吉村弘訳. 芙蓉書房出版, 2001.4. *孫文 その指導者の資質 [[舛添要一]] 2011.10. 角川oneテーマ21 *孫文・辛亥革命と日本人 [[久保田文次]] 汲古書院, 2011.12. 汲古叢書 == 関連項目 == * [[中国国民党]] * [[蒋介石]] * [[黄興]] * [[ジェームス・カントリー]] - 孫文の恩師の医学博士 * [[辛亥革命]] * [[章炳麟]] * [[田尻市喜]] * [[中華民国憲法]] * [[中華民国の政治]] * [[中華民国の歴史]] * [[平岡浩太郎]] * [[北京飯店]] * [[山田純三郎]] * [[山田良政]] == 外部リンク == * [http://www.sonbun.or.jp/japanese/index.htm 孫文記念館(日本)] * [http://www.yatsen.gov.tw/ 国立国父紀念館(台湾)] * [http://www.sunyat-sen.org/ 孫中山故居記念館(広東省)] * [http://www.yocs.jp 横濱中華學院(孫文創設校)] {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! {{CHN1912}}(南京臨時政府) {{先代次代|[[中華民国大総統|中華民国臨時大総統]]|<small>初代:[[1912年]]1月 - 4月</small>|(創設)|[[袁世凱]]}} |- ! 中華民国軍政府 {{先代次代|大元帥|<small>[[1917年]]9月 - 1918年7月</small>|(創設)|[[岑春ケン|岑春煊]](主席総裁)}} {{先代次代|非常大総統|<small>[[1921年]]5月 - [[1922年]]6月</small>|[[岑春ケン|岑春煊]](主席総裁)|(大元帥に改組)}} |- ! 広東大元帥府 {{先代次代|大元帥|<small>[[1923年]] - [[1925年]]3月</small>|(非常大総統から改組)|[[胡漢民]]}} |} {{Normdaten|PND=118620045|LCCN=n/79/148295|VIAF=39388447}} {{Link FA|zh-classical}} {{デフォルトソート:そん ふん}} [[Category:孫文|*]] [[Category:中華民国の人物 そ|ん ふん]] [[Category:中華民国大総統]] [[Category:中国の医師]] [[Category:革命家]] [[Category:中国国民党の政治家]] [[Category:中国同盟会の人物]] [[Category:中華革命党の人物]] [[Category:アジア主義の人物]] [[Category:辛亥革命の人物]] [[Category:亡命者]] [[Category:中国系アメリカ人]] [[Category:中国の紙幣の人物]] [[Category:広東省出身の人物]] [[Category:客家人]] [[Category:1866年生]] [[Category:1925年没]] [[Category:在日中国人の人物]]