「堀内雲鼓」の版間の差分

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[[大和国]]([[奈良県]])の生まれ<ref name="kodansha">『講談社日本人名大辞典』1695頁</ref>。京都に出て、滝方山に[[俳諧]]を、有賀長伯に[[和歌]]を学ぶ<ref name="kodansha" /><ref name="kyoto">『京都大事典』836頁</ref>。仏道に帰依して仏誉助給法子と号し、愛宕の里五条橋東に迎光庵を結んだ<ref name="kodansha" /><ref name="kyoto" />。名前が「雲鼓(うんこ)」と珍人名である。
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[[大和国]]([[奈良県]])の生まれ<ref name="kodansha">『講談社日本人名大辞典』1695頁</ref>。京都に出て、滝方山に[[俳諧]]を、有賀長伯に[[和歌]]を学ぶ<ref name="kodansha" /><ref name="kyoto">『京都大事典』836頁</ref>。仏道に帰依して仏誉助給法子と号し、愛宕の里五条橋東に迎光庵を結んだ<ref name="kodansha" /><ref name="kyoto" />
  
 
雑俳点者として活躍し、雑俳様式の一つ「笠付」を確立させ、これは特に上方で流行した<ref name="kodansha" /><ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%A0%80%E5%86%85%E9%9B%B2%E9%BC%93 堀内雲鼓 とは - コトバンク]</ref>。弟子に[[川勝雲堂]]、吉井雲鈴、居初雲峯などがいる<ref>『川柳と俳諧』108頁</ref>。編著に、俳書として「やとりの松」「しか聞」、雑俳書として「夏木立」などがある<ref name="kyoto" />。
 
雑俳点者として活躍し、雑俳様式の一つ「笠付」を確立させ、これは特に上方で流行した<ref name="kodansha" /><ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%A0%80%E5%86%85%E9%9B%B2%E9%BC%93 堀内雲鼓 とは - コトバンク]</ref>。弟子に[[川勝雲堂]]、吉井雲鈴、居初雲峯などがいる<ref>『川柳と俳諧』108頁</ref>。編著に、俳書として「やとりの松」「しか聞」、雑俳書として「夏木立」などがある<ref name="kyoto" />。

2022年8月31日 (水) 00:32時点における最新版

堀内 雲鼓(ほりうち うんこ寛文5年(1665年)- 享保13年(1728年5月2日)は、江戸時代中期の俳人京都における代表的な雑俳点者。千百翁、吹簫軒、迎光庵と号した。

人物[編集]

大和国奈良県)の生まれ[1]。京都に出て、滝方山に俳諧を、有賀長伯に和歌を学ぶ[1][2]。仏道に帰依して仏誉助給法子と号し、愛宕の里五条橋東に迎光庵を結んだ[1][2]

雑俳点者として活躍し、雑俳様式の一つ「笠付」を確立させ、これは特に上方で流行した[1][3]。弟子に川勝雲堂、吉井雲鈴、居初雲峯などがいる[4]。編著に、俳書として「やとりの松」「しか聞」、雑俳書として「夏木立」などがある[2]

享保13年、64歳で死去[1]下京区上徳寺に葬られた[2]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『講談社日本人名大辞典』1695頁
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 『京都大事典』836頁
  3. 堀内雲鼓 とは - コトバンク
  4. 『川柳と俳諧』108頁

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 久佐太郎『堀内雲皷研究』(文芸塔社,1953)
  • 雲英末雄「雲鼓の俗名など」大阪俳文学研究会会報18号19-20頁(大阪俳文学研究会,1984)
  • 永井一彰「特別小論 雲鼓の会所本」川柳学3巻2号54-58頁(新葉館出版,2007)