「マイヤ・プリセツカヤ」の版間の差分

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'''マイヤ・ミハイロフナ・プリセツカヤ'''([[ロシア語|露]]: '''Майя Михайловна Плисецкая'''、1925年11月20日生まれ)は[[ロシア]]の[[バレエダンサー]]。しばしば現代最高のバレリーナと呼ばれる。
 
  
==生い立ち==
 
[[モスクワ]]の芸術家を多く輩出する有名な[[ユダヤ人]]一家に生まれた。エンジニアの父の仕事の都合で、[[スピッツベルゲン島]]の学校へ通う。1938年、父親は[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の粛正により処刑され、サイレント映画女優だった母親は[[カザフスタン]]へ強制送致され、母方のおばにあたるバレリーナ[[スラミフィ・メッセレル]]の養子となった。
 
 
1934年、一家は休暇のためモスクワに帰りその期間中に、帝室バレエ学校のエフゲニヤ・イワノヴナ・ドリンスカヤのクラスに編入する。バレエを始めて1年目で「軍縮会議」という演目の中国人役で舞台に舞台に立つ。その後再びモスクワに戻り、教師は変わりバレリーナであった[[エリザヴェータ・ゲルト]]のもとで6年間学ぶ。1943年にバレエ学校を卒業し、[[ボリショイ・バレエ]]に入団した。
 
 
==活動歴==
 
バレエ学校卒業後、ボリショイバレエ団にコール・ド・バレエ(群舞を担当するダンサー集団)として入団。ボリショイ劇場以外での公演に積極的に出演し経験を積む。入団1年目を終えるころに、欠員のため「くるみ割り人形」のマーシャ役に抜擢された。
 
 
[[アンナ・パヴロワ]]の代表作「[[瀕死の白鳥]]」を演じ、当たり役とする。また最大の当たり役は、「[[白鳥の湖]]」のオデット/オディール(1947年)、「[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]」のオーロラ姫(1961年)である。跳躍の高さ、柔軟で大きく反る背中、技術の確かさ、カリスマ性すべてにおいて高く評価されたが、劇場上層部の彼女への待遇はあまりよいものではなかった。[[反ユダヤ主義]]的風潮のなかで1956年の国外公演には同行が許されなかった。1958年、作曲家[[ロディオン・シチェドリン]]と結婚、翌年には[[ソ連人民芸術家]]として表彰される。1959年に彼女が西側世界に初めて登場すると、バレエ界は大きな衝撃を受けた。
 
 
1960年、[[ガリーナ・ウラノワ]]が引退すると、ボリショイ劇場の[[バレリーナ|プリマ・バレリーナ]](首席バレリーナ)に任命される。1967年ソヴィエトで制作された『[[アンナ・カレーニナ]]』の映画版では、トヴェルスコイ公爵夫人(ヴェッツィ)を演じ、1971年には、シチェドリンの作曲、自身の振り付けによるバレエ版「アンナ・カレーニナ」を発表し、主役アンナを演じた。他に[[ユーリー・グリゴローヴィチ]]、[[ローラン・プティ]]、[[アルベルト・アロンソ]]、[[モーリス・ベジャール]]などの著名な振り付け師が彼女のために作品を振り付けている。
 
 
1980年代には、シチェドリンとともに海外で過ごすことが多くなり、ローマ・オペラ・バレエや、[[マドリッド]]のスペイン国立バレエの芸術監督を務める。65歳で、ついにボリショイ劇場のソリストから引退したが、その後も芸術活動を続けている。70歳の誕生日には、ベジャールの振り付けによる「アヴェ・マイヤ」を初演。
 
 
1994年からは自身の名を冠したマイヤ・プリセツカヤ国際バレエコンクールの審査員長を務めている。
 
 
2003年、宝塚歌劇星組公演「[[アイーダ|王家に捧ぐ歌]]」の振付を担当し話題になった。
 
 
2006年、第18回[[高松宮殿下記念世界文化賞]]の演劇・映像部門を受賞した。
 
 
==DVD・書籍==
 
*「闘う白鳥」(自伝)
 
*「アンナ・カレーニナ」(1967年モスフィルム製作 - DVD出版元 RUSCICO(ロシア映画評議会))
 
 
==外部リンク==
 
{{commonscat|Maya Plisetskaya}}
 
*[http://www.shchedrin.de/ プリセツカヤ・シチェドリン国際財団公式サイト(ドイツ語・英語・ロシア語)]
 
{{Wikipedia/Ja}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ふりせつかや まいや}}
 
[[Category:ロシアのバレエダンサー]]
 
[[Category:ユダヤ系ロシア人]]
 
[[Category:ソ連人民芸術家]]
 
[[Category:1925年生]]
 

2010年8月10日 (火) 18:54時点における版