金正恩

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金正恩
金正恩

金 正恩(キム・ジョンウン、1983年1月8日 - )は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家軍人。同国の第2代最高指導者金正日の三男で後継者。父の死により最高指導者の地位を継承した。

現在、朝鮮労働党第一書記朝鮮民主主義人民共和国国防委員会第一委員長、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員、朝鮮人民軍最高司令官を務める。党内序列は第1位。

経歴[編集]

幼少期[編集]

金正恩は北朝鮮の第2代最高指導者である金正日の三男として生まれた。母は高英姫横田めぐみとの説もある)。金正日の長男の金正男は異母兄、次男の金正哲は同母兄となる。祖父は北朝鮮の初代最高指導者である金日成

1996年9月よりスイスに留学し、ベルンの国際学校で「パク・ウン」という偽名を使用しながら教育を受けた。国際学校には数か月しか在籍せず、隣接する公立小学校でドイツ語を学んだ。在籍していた学校については諸説あり、リーベフェルト市の公立学校で金正恩と知り合いであったと主張する人物の情報もある。1998年8月、ベルンの自宅近くの公立中学校に編入。スイス滞在中は北朝鮮の在スイス大使が目付け役として身辺の管理を行っていたほか、親戚の寄り合いがインターラーケンレマン湖の別邸で行われることもあった。2000年8月、夏期休暇が終わると公立中学校を退学して帰国した。

留学の経験から母国語以外に英語中国語ロシア語ドイツ語フランス語など数ヶ国語を話せるとする報道もある。日本語についても漢字の書き取りなどをしていたとされ、来日経験もある。

帰国後[編集]

2000年以降の動向はスイス時代と共に北朝鮮政府内の秘密事項として公にはされず、現在でも指導者就任から間もないこともあり部分的にしか報道されていない。明確なのは、父と同じく北朝鮮内における最高の教育機関である金日成総合大学に在学していたことと、軍の教育機関である金日成軍事総合大学(党内の養成機関である金正日政治軍事大学とは異なる)で訓練を受けていたことである。金日成総合大学では情報工学を学び、金日成軍事総合大学では砲兵指揮を専攻したとされている。

北朝鮮では最高指導者の地位が金日成から金正日に世襲されたため、日本韓国などのメディアでは高齢である金正日が自身の子息を対象にした後継者選択を想定する傾向にあり、その中で日韓のメディアにおいては後継者候補として三男である金正恩の名前も挙げられることがあった。ただし当初は長男の金正男、あるいは軍部の支持を受けていた次男の金正哲の指名が予想される傾向があり、必ずしも最有力と見なされていた訳ではなかった。しかし2009年1月15日、「金正日が金正恩を後継者として指名した」と韓国の聯合ニュースが報道するなど、次第に金正恩後継者説が濃厚になっていった。さらに同年2月15日の聯合ニュースの報道によれば、金正日の健康が悪化した際に義弟の張成沢が金正日に金正恩を後継者にするよう働きかけたという。

2009年6月2日、韓国の東亜日報は、同年5月25日核実験後に、金正恩が後継者に選ばれたことを在外公館に通知した事実が確認されたと報じた。また金正恩が「国防委員長代行」という職位に就いているという複数の証言もあったが 、これは現在に至るまで公式には確認されていない。2010年2月17日、韓国の自由北朝鮮放送が、北朝鮮当局が全国の「ジョンウン」を名乗る人物に対し改名を命令したと報道した。

後継者指名[編集]

2010年9月27日、金正日は金正恩ら6人を10月10日付けで朝鮮人民軍の大将に昇進させる朝鮮人民軍最高司令官命令を発した 。そして9月28日に開催された朝鮮労働党代表者会において、金正恩は党中央委員に選出され、同日に開かれた党中央委員会総会で党中央軍事委員会副委員長に選出された。これらの動きにより金正日の後継者としての地位が確定したとみなされている。

同年10月5日、金正恩は金正日の朝鮮人民軍第851軍部隊合同訓練視察に同行した。金正日の現地視察に金正恩が同行したことが公式に報道されたのはこれが初めてである。10月8日、金正日が新設された国立演劇劇場と芸術家の住宅に現地指導に赴いた際にも同行した。10月9日、平壌で開催された朝鮮労働党創建65周年慶祝中央報告大会に金正日と共に出席し、マスゲームと芸術公演「アリラン」を鑑賞した。そして翌日に挙行された朝鮮労働党創建65周年慶祝閲兵式に出席し、金正日と共に軍事パレードを観閲した。10月25日には訪朝した中国高位軍事代表団と金正日の会談に同席している。

2011年4月29日、韓国の国家情報院は「金正恩が国家安全保衛部部長に就任した」と発表した。しかし、北朝鮮の報道からは公式に伝えられておらず、確認はとれていない。

金正恩の後継指名と権力世襲について、兄・正男は「金正日自身は(世襲は)社会主義に合わないとして反対をしていたが、北朝鮮体制の安定のために必要だった(ので指名したのではないかと理解している)」という見解を『東京新聞』とのインタビューで明かしている。

権力の継承[編集]

2011年12月17日金正日が死去12月19日、北朝鮮の公式メディアである朝鮮中央放送によって金正日の訃報が宣告された。これによって1994年から17年間に亘って続いた金正日体制は終焉を迎えた。そして金正恩はこの訃報において「卓越した領導者」と呼称され、金正日の政治的後継者である事が内外に示された。以降、金正日の朝鮮人民軍最高司令官就任記念日にあたる12月24日には朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』は金正恩を「最高司令官」「将軍」と呼称し、翌日には朝鮮中央通信が「革命武力の最高指導者」と呼称、また「不世出の先軍統帥者」とも呼称するなど、軍事指導者であることも示された。

12月20日錦繍山記念宮殿に安置された金正日の遺体がメディアに公開され、金正恩が涙を流しながら父の遺体の前に立つ場面が報道された。12月28日、平壌市内で行われた父の国葬において、金正恩は軍・党・政府の高官を率いて金正日の霊柩車に付き従い、軍・党・政府から指導者としての支持を得ていることが強調された。

12月29日、金正日中央追悼大会が挙行され、党内序列2位にして対外的な元首の役割を果たしている最高人民会議常任委員長金永南が追悼の辞で「権力の継承問題は完全に解決した」とし、金正恩を「党・軍・人民の最高指導者」と呼称して金正恩の権力継承を公式に宣言した。

12月30日、朝鮮労働党中央委員会政治局会議において、亡父の後任として朝鮮人民軍最高司令官に推戴され、同職に就任した。

金正日の死によって空席となった朝鮮労働党の最高職である総書記と国家の最高職である国防委員長を継承すると見られていたが、金正恩は両職とも「金正日が永久に就くべき地位」であるとして就任せず、事実上廃止した。2012年4月11日に開催された第4回党代表者会において、金正恩は総書記に代わる党の最高職として新たに設置された第一書記に推戴され、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長にも就任した。そして、4月13日の第12期最高人民会議第5回会議において、「国防委員長」に代わって新設された「国防委員会第一委員長」に就任し、金正恩は正式に党・国家・軍の三権を握る最高指導者となったのである。同年7月17日、党中央委員会などの決定により、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された。

指導者として[編集]

金正恩は、最高指導者に就任して以降、軍を積極的に視察している。将校や兵と親しく話したり、抱き合ったりするなど、父の金正日の時代では有り得なかったほど積極的に軍と接近しようとしている。軍の忠誠心を得ることが狙いと指摘されている。

一方、『朝鮮日報』の報道によれば、金正恩が朝鮮人民軍最高司令官に就任後、粛清された者は2桁に登るとされる。また、その中には金正恩が「髪の毛1本も残すな」と指示した結果、公開処刑の手段として、迫撃砲が用いられた事例もあったという。

また、2010年11月の延坪島砲撃事件を金正恩が指揮していたことが、朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』によって明らかとなった。『労働新聞』は「金正恩領導者の非凡な知略と戦術で敵の挑発は挫折し、延坪島は火の海になった」と伝えている。

権力継承後の2012年1月28日、金正恩は朝鮮労働党幹部を前に、国家による統制経済の行きづまりによる深刻な経済危機から脱却するため、資本主義的手法を取り入れた経済論議を容認する姿勢を示した。

同年4月15日、平壌で金日成の生誕100周年を記念する軍事パレードが行われ、金正恩が観閲を行った。閲兵式上、金正恩は演説を行い、金正日の政策である先軍政治(軍事優先の政治)の継承と「核抑止力」の保持を強調した。演説の中で「人民生活の向上」を政治の目標とする姿勢を示したが、一方で「民族の尊厳と国の自主権がさらに貴重だ」として核ミサイルの開発を機軸とする「先軍」路線を国民生活より優先する方針を明確にした。なお、金正恩の肉声が北朝鮮内外に伝えられたのはこの演説が最初である。父親の金正日は国民を前にほとんど演説を行わなかったが、権力継承後「遺訓統治」と称して金正日の統治スタイルに従ってきた金正恩は、演説に関しては父の例を継承しなかったことになる。金正恩の演説は祖父・金日成を意識したもので、演説の放映を視聴した人々からは「金日成と似ている」との声が上がった。

4月19日、『労働新聞』は初めて金正恩の公式談話を掲載した。内容は先軍路線の継承と食糧問題の解決を訴えるものであった。

北朝鮮の国民は、金正恩に対して、金日成、金正日よりも信頼を置いていないという。元韓国統一省次官の金錫友(キム・ソクウ)は「金主席に対する敬意と尊敬を100とすれば、金総書記は70、金第一書記は30程度」という脱北者の話を紹介している。

各国の人権問題を話し合う国連総会第3委員会では「金正恩第1書記の体制でも市民への抑圧のひどさに変わりはない」と指摘し、2012年12月20日の同委員会で北朝鮮の人権弾圧を非難する決議案を採択した。同様の決議は8年連続だが、初めて無投票の全会一致(コンセンサス方式)で採択した。同委員会は「指導者が交代したにもかかわらず、人権状況が悪化した」と指摘している。

2012年から2013年にかけて、人民武力部長、同部第一副部長、朝鮮人民軍総参謀長人民保安部長国家安全保衛部第一副部長等の軍上層部の解任を繰り返した。2013年8月には、妻の李雪主が過去に所属していた「銀河水管弦楽団」等の音楽家9名をポルノ映像制作容疑で公開処刑した。この中には愛人であった玄松月も含まれていた。そして、同年12月には事実上のナンバー2であった張成沢とその側近たちを処刑した。張成沢処刑時点で、金正日の国葬時に霊柩車を囲んだ金正恩を除く7名の権力中枢人物のうち、張成沢、李英浩金永春金正覚禹東則の5名を粛清するか更迭したことになる。

正恩氏に幹部あぜん「コメでなく肉食べれば…」(2013年12月)[編集]

北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢(チャンソンテク)朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を1座に実行しなかったことが契機になった。金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始された。

部下2人は、同部の李竜河(リリョンハ)第1副部長と張秀吉(チャンスギル)副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、「張成沢部長に報告する」と即答を避けた。激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じた。

部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。

韓国政府関係者は、今回の正恩氏の命令に触れ、「衝動的で現実を無視した指示が多く、求心力を保てるか疑問だ」と話す。関係者によると、正恩氏は、留学先のスイスをまねて街に緑を増やすため、住民の貴重な食料供給地となっている自宅の庭の畑に芝生を敷くよう指示。また、「これからは自家用車の時代だ」と言って、平壌に新設するアパートに駐車場を併設するよう命じたり、「コメの代わりに肉を食べれば食料不足は解消する」と訓示したりして幹部をあきれさせているという。

シークレットシューズで骨折(2014年9月)[編集]

北朝鮮の金正恩第1書記の動静報道が途絶えていることについて、朝鮮日報は、両足首の骨にひびが入り、9月中旬に手術を受けて入院中だとする消息筋の話を報じた。

同紙によると、最近、北朝鮮を訪れた有力な消息筋の話として、「正恩氏は6月に現地指導に出向いた際、右足首にけがを負い、これを放置していたら両足首の骨にひびが入ったと聞いている」と伝えた。

この関係者は「正恩氏は肥満で過体重になっているにもかかわらず、背が高く見えるシークレットシューズを履いて視察を続けた結果、足首に無理な負荷がかかったようだ」とも話している。

人物[編集]

スポーツ好きで分野を問わず全般的にこなす。スイス滞在時代についての記録によればバスケットボールに熱中している普通の少年で、マイケル・ジョーダントニー・クーコッチコービー・ブライアントらのファンであったという証言がある。温厚でクラスメートからの人望が厚かったという証言もある。

藤本健二とは金正日の専属料理人時代に遊び相手として付き合っており、カードゲームや10代ながらタバコ、飲酒を嗜んでいたという。様々な遊びを知る藤本には強い親近感を抱いていたようで、二人きりで政治的にきわどい話をしたり、「ブイ(喫煙を指す。タバコを吸う際に指の形がV字になることから)やろうぜ」という合言葉を作るなど深く付き合っていた。

007シリーズの映画が好きだとも言われている。またスイスの国際学校時代のクラスメートの証言によれば、日本やアメリカの漫画が好きでよく読んでいたという。さらに金正恩とクラスメートが描いたバッグス・バニーのイラストが残されている。

朝鮮人民軍の高級軍人であるが、2011年2月16日朝鮮中央放送が放送した視察映像では、双眼鏡を上下逆さまに持って覗き込む姿が映っており、実務経験が浅いことが指摘されている。

名前[編集]

金正日の三男の名前については、藤本健二により「キム・ジョンウン」と紹介された。当初、ハングル表記は「김정」、漢字表記は「金正」とされた。

しかしその後、正しいハングル表記は「김정」ではないかという説が浮上し、2009年10月7日には韓国の統一部がハングル表記を変更すると発表した。漢字表記は「金正」もしくは「金正」ではないかと推測された。これを受け、『朝日新聞』、『東京新聞』、『読売新聞』は、表記を「金ジョンウン」に変更すると発表した。ハングルの "" と "" は日本語では区別できず双方ともに "ウン" である。

また、『毎日新聞』は、北朝鮮関係者の多くが適切と証言しているとして、「金正」という表記を採用していた。韓国でも「誕生日の2009年1月8日前後に金正雲から金正銀に改名した」と報じるメディアがあり、2010年9月28日には中国の新華社通信中国中央電視台も「金正」の表記を使用していた。ただし、北朝鮮は中国政府に正式な漢字表記を伝えていないという報道もあった。

2010年10月1日朝鮮中央通信により、漢字表記を「金正」とすると発表され、彼の名前を巡る問題は終息した。

写真[編集]

金正日の後継者として登場する以前の金正恩の姿はほとんどメディアに流れる事はなく、各国情報機関においても不明な部分が多い存在であった。彼が公式な地位を得るまでは長年にわたって僅かな写真が存在するのみであった。金正日の息子の存在およびそれを証明する写真は、特に北朝鮮国内では最高機密とされて出回ることがなかったが、2009年1月16日のニュース番組「NEWS ZERO」(日本テレビ系)で、10歳の頃の正恩の写真が公開された。その後2009年6月頃から、JNN読売新聞がスイスのインターナショナルスクール時代(10代半ば)の金正恩の写真を公開して大きな話題になった。なお、JNNが入手した写真は、2010年6月8日に韓国の聯合ニュースが未公開写真を入手したと報じている。

しかし、その後もしばらくは謎に包まれた存在であった。上述の10歳の時の顔写真から26歳の顔を推定した合成写真がアメリカの公開情報センターによって作成されたり、2010年4月20日毎日新聞に金正恩の近影とされるものが掲載されたが、実際には全くの別人であった事が後に判明するなど混乱も見られた。

2010年9月9日香港衛星テレビ局、鳳凰衛視(香港PHX)の番組「時事弁論会」で「北朝鮮は中国の負担になっているか?」というテーマの回が放映された際、同年8月末に父親・金正日と一緒に訪中した事実とともに、その際の写真が放映された。それによると顔は父親似であるが祖父である金日成の面影もあり(ただし、金日成に似せて整形をしたという一部報道もある)、身長は金正日より頭一つ分位高い。

2010年9月30日、北朝鮮のメディアが式典に参加する金正恩の姿を映した写真と映像を公開し、初めて公に姿を現した。金正恩が出席した2010年10月10日の軍事パレードは海外メディアにも取材が認められ、彼の映像が西側諸国のカメラによって初めて撮影された。

2012年4月12日、『労働新聞』電子版はスーツを着用した金正恩の写真を配信した。金正恩のスーツ姿が確認されたのはこれが初めてである。

家族[編集]

大韓民国政府や朝鮮中央放送などにより、李雪主(리설주、リ・ソルジュ)という名前の妻がいることが公表されている。しばしば金正恩と並んで親しげに登場する女性が妻ではないかとの推測があるが、リ・ソルジュと同一人物であるかは確認されていない。このほか、2010年に生まれた娘、2013年頃に生まれた娘がいるとされている。

長兄の金正男とは不仲説があり、金正恩の側近が金正男を暗殺しようとしたとの話もある。一方、金正男が金正恩に、健康を気遣う手紙を出したと報じられるなど、一定の交流があるとの指摘もある。

テンプレート:金正日家系図

関連項目[編集]

参考文献[編集]

テンプレート:PRK2
先代:
金正日
最高指導者
2011年 -
次代:
現職
先代:
金正日
(国防委員長)
国防委員会第一委員長
2012年 -
次代:
現職
先代:
金正日
朝鮮人民軍最高司令官
2011年 -
次代:
現職
テンプレート:KWP 朝鮮労働党
先代:
金正日
中央委員会総書記
第一書記
2012年 -
次代:
現職
先代:
金正日
中央軍事委員会委員長
2012年 -
次代:
現職

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