藤木幸太郎

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藤木幸太郎は沖仲士から身を起こし、やがて横浜港の港湾荷役の中心者となり叙勲を受けるまでになった人物。稲川会埋地一家の初代組長。長男は横浜エフエム放送株式会社 代表取締役社長の藤木幸夫

綱島一家鶴岡政次郎笹田一家笹田昭一堀井一家三代目の加藤伝太郎と並び横浜四天王と呼ばれた。

埋地一家は埋地ノ仙太こと渡辺仙太郎が明治に結成した。横浜外国人居留地が埋立地であったことに由来している。当時の外国人居留地は治外法権で、日本の警察が手が出せなかった。このため安全な居留地の賭場は大賑わいだったようだ。明治の侠客「埋地の仙太」こと渡辺仙太郎が他界すると埋地の名称は一旦途絶えた。その後、名跡が途絶えるが、昭和に入り横浜港を牛耳っていた親分「藤木幸太郎」が「埋地一家」を復活させ初代を名乗った。 二代目を「海岸」こと外峯勇が継ぐ。外峯勇は稲川会の前身錦政会に加入。二代目の死後、再び名跡が消え四十数年にわたり途絶えたままとなっていたが、2008年、埋地一家の貸元衆の一人山田時造の流れを汲む杉浦一家組織委員長・貞方組々長が平成二十年三月に三代目を継承し、名称を復活させた。稲川会直参・貞方留義が三代目を継承した。今現在組員50人。

祖 - 渡辺仙太郎

初代 - 藤木幸太郎

二代目 - 外峯 勇

三代目(2008年~) - 貞方留義

最高幹部

総長 - 貞方留義

相談役(舎弟) - 高橋 進

総長補佐(舎弟) - 齋藤 修

総長補佐(舎弟) - 林俊 一

理事長 - 松田真知

本部長 - 黄 季雄

幹事長 - 須藤 隆

組織委員長 - 寺島元樹

局長 - 高橋龍司

執行部 - 細野力也

執行部 - 浅岡 望

執行部 - 中島広一


田中清玄とのつながり[編集]

田中清玄田岡一雄とは仲がよく、もともとは田中の身元引受け人だった富田健治が、佐藤軍次という横浜で海運業をやっていた男を紹介したことがはじまりで、その佐藤が京浜一帯の沖仲仕の総元締で大親分だった藤木幸太郎を紹介した。

戦後の京浜地区は鶴見の埋立てをめぐって抗争が激しく、陸を仕切っていた土建業松尾組松尾嘉右衛門と、海を仕切っていた藤木が対抗していた。日本の海運業はこのあと藤木によって、海運業者の集団を日本海運協会に、従業員の集団を日本海運共同組合にしたことが基礎になる。藤木はこの海運協会の会長に田岡をもってこようとするのだが、田岡は固辞した。このとき田岡は政治的なことは田中清玄さんのような人に任せ、自分はヤクザのほうを取り仕切ると決めたらしい。

参考文献[編集]

書籍名:ミナトのおやじ-藤木幸太郎伝 著者名:白土 秀次 著者紹介:元神奈川新聞論説委員。TVKニュース解説委員。

発行社:中央公論事業出版 総頁数:470 発行日:昭和53年12月01日 1978 判サイズ(mm×mm):225 156


外部リンク[編集]