梶原清晴

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梶原 清晴(かじわら きよはる、大正14年(1925年)10月5日[1] - 1971年7月25日)は、日本ヤクザ暴力団・三代目山口組若頭1968年1971年)、梶原組初代組長。兵庫県神戸市兵庫区出身。

来歴[編集]

大正14年(1925年)、神戸市兵庫区で生まれた。 高等小学校卒業後、川崎重工の工員となった。その頃から不良となった。

昭和25年(1950年)頃、三代目山口組田岡一雄組長の舎弟・坂口敬三の若衆となり、山口組興行部(後の神戸芸能社)で手伝いをした。

昭和28年(1953年)1月4日午後5時、山口組興行部番頭・西本一三とともに、田岡一雄から神戸市生田区橘通り2丁目の山口組事務所に呼ばれ、鶴田浩二への襲撃を命じられた。
詳細は 鶴田浩二襲撃事件 を参照
昭和29年(1954年)9月3日、山口組と谷崎組の抗争事件が勃発した。
詳細は 山口組と谷崎組の抗争事件 を参照

昭和38年(1963年)、国鉄三宮駅前に、地下街「さんちかタウン」が建設されることが決まった。山本健一が、さんちかタウンの工事の用心棒を請け負うことになった。まもなく、山本健一が逮捕され、収監された。吉川勇次と地道行雄が、さんちかタウンの用心棒を、山口組直轄で行うようにした。地道行雄は、岡精義を通じて、さんちかタウンの建設を請け負った建設会社から、用心棒代を出させた。

同年3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。

同年8月、田岡一雄は、協議機関「七人衆」を設置した。山口組若頭・地道行雄、舎弟頭松本一美藤村唯夫松本国松安原武夫岡精義三木好美が七人衆になった。

同年12月13日[2]、田岡一雄は、山口組「御事始」(または、「正月事始」。通称「事始め」)の席で、若頭補佐を新設した。吉川勇次山本健一菅谷政雄、梶原清晴が若頭補佐に任命された。

昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。

同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。

同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった。

同年5月23日、田岡一雄は、東京で倒れ、渋谷区セントラル病院に入院した。

昭和40年(1965年)、山口組に対する第一次頂上作戦が本格化した。
詳細は 第一次頂上作戦#山口組に対する第1次頂上作戦 を参照

昭和43年(1968年)2月7日、田岡一雄は、地道行雄を若頭から解任した。田岡一雄は、後任の若頭に、梶原清晴を据えた。若頭補佐には、山本健一、山本広中山美一白神英雄白神一朝とも名乗った)、小田秀臣小田芳一が任命された。

昭和44年(1969年)4月25日、恐喝容疑で兵庫県警に逮捕された。

昭和46年(1971年)5月、山口組は、傘下組織478団体、組員10508人となった。

同年7月5日、山口組の機関紙である季刊誌『山口組時報』が創刊された。発行人は梶原清晴、編集人は小田秀臣だった。

同年7月25日、梶原清晴は、鹿児島県硫黄島で、磯釣りの最中に、高波にさらわれて、溺死した。


脚注[編集]

  1. 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.291
  2. 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.70や溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4のP.165では、「昭和38年(1963年)に若頭補佐が新設された」ことが明記されているが、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.113には「彼は昭和三十一年に田岡の舎弟となり、三十二年には若頭補佐の要職についているが、その時点で子分を持っていなかった」と記述(つまり、昭和32年の段階で若頭補佐のポストが既に存在していたことになる)されている

梶原清晴関連の映画・オリジナルビデオ[編集]


参考文献 [編集]


先代:
梶原組組長
初代: 19** - 1971
次代:
仲田喜志登