成城

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成城(せいじょう)は東京都世田谷区の地名。一丁目から九丁目までが設置されている。郵便番号157-0066。日本の高級住宅街として有名。

地理[編集]

東に仙川、西に野川が流れ、台地状の土地に街は広がる。また、西に国分寺崖線神明の森みつ池がある。 住居表示としての成城は、小田急小田原線成城学園前駅を中心とした約68万坪(225.9ヘクタール)に及ぶ地域である。都内屈指の高級住宅街として有名である。駅南側が成城一丁目から成城三丁目にあたり、駅北側が成城四丁目から成城九丁目にあたる。

建築[編集]

成城六丁目は大部分が2階建ての住居である。

成城四丁目・成城五丁目は成城六丁目よりは居住者の移転が少ないため、昔から居住する者が概して多い。

建蔽率容積率が異なる成城八丁目には都営住宅や三菱重工業ジャパンライン丸紅農林中金などの社宅があったが、近年、社宅は相次いで姿を消し、跡地に2棟の中高層の分譲マンションが建設された。また、都営住宅も建て替えが決定し、居住者の移転が終わり建設工事が開始された。建設期間は4年を予定しており、9階建が3棟となる。現在ある豪壮な9階建ての超高級有料老人ホームサクラビア成城と分譲マンション2棟をあわせ成城八丁目の約半分は巨大マンション街区の様相になる。

このように、成城八丁目には中高層マンションが立ち並ぶこととなる一方、成城九丁目は以前からマンションはあるものの、いずれも5階建て以下である。

住民協定[編集]

古くから成城の一軒家に居住する住人たちは、協定(成城憲章)を結び、塀を生垣にする、地下室をつくらないなど街の環境を守ってきた。しかし、近年では相続の影響からか大きな区画も細分化され、ミニ開発やマンションの建設に住民は危惧感を抱いている。かつて、統一教会の進出やグリーンプラザ跡地のマンション建設に際しては大規模な住民運動も展開された。2010年には、成城四丁目に知的障害者のグループホーム開設に当たり、反対派住民が『知的障害者グループホーム開設計画の白紙撤回を求める要望書』を作成。区民以外も含む1,035名の反対署名を集め、計画は白紙になる。

地価[編集]

住宅地の地価は、2014年平成26年)1月1日公示地価によれば、成城6-32-18の地点で74万円/m2となっている。

歴史[編集]

明治の末ごろまでは北多摩郡砧村大字喜多見と呼ばれ、武蔵野の雑木林原野が広がっていた。

調査により、この地に小田急線が開通することを突き止めた小原國芳の尽力で、学園建設資金捻出のため、周辺の土地2万坪を購入し、区画整理をして売り出す。当時、この土地をみた小原は、「雑木林、家一軒もない、この百二十丁歩の高台、地価は安く、家はなし、いい高台で、西に富士の秀峰、足下は玉川の清流、全く不思議な土地でした」と述べている[1]。小原は、さらに、中央鉄道(現在の小田急電鉄)と交渉して学園前駅の開設の約束を取り付けた。学園用地2万4000坪のうち1万坪は地元の大地主の鈴木久弥の寄付によるものであり、小原は鈴木から現金1万円(当時、公務員の給与は75円)の寄付をも受けている。

ちなみに、玉川学園はこの成城学園都市建設を主導した小原國芳がその手法を応用して開設した学園都市である。

なお、成城学園が手がけて売り出したものは駅北側で、駅南側(現:成城一丁目から成城三丁目)は鈴木久弥によるものである。成城一丁目(東京都市大付属中・高校区立砧中科学技術学園高等学校、などの所在地)はかつての御料林であり、学習院の移転話も持ち上がっていた。

当初は、柳田國男野上弥生子、後に、大江健三郎大岡昇平川上宗薫中河与一水上勉横溝正史らが移住し、文士村の様相を呈していた。

1932年東宝撮影所ができてからは、黒澤明市川崑本多猪四郎志村喬三船敏郎加東大介加山雄三石原裕次郎宇津井健有島一郎藤田進司葉子深作欣二大林宣彦らが居住するようになった。また、映画産業と関係が深い芥川也寸志松村禎三小澤征爾のような音楽家も住むようになった。

1966年には三船プロダクションの撮影所もできた。

1980年代からバブル期にかけては、折からの経済成長とともに、企業の持ち屋が増加した。

時代とともに、成城町にはかつての祖師谷や喜多見だった周辺場所も編入され、現在は成城一丁目から成城九丁目となる。

近年も芸能人の居住が目立つようになってきている。

地名の由来[編集]

1925年大正14年)に東京市牛込区(現新宿区)原町の成城学校(現、成城中・高等学校)からこの地に分離独立してきた成城学園が由来であり、「成城」というのは詩経の「哲夫成城」という句が元になっている。それまでは北多摩郡砧村大字喜多見という地名であった。1927年昭和2年)に同学園の要請を受ける形で小田急電鉄によって成城学園前駅が設置され、地名として定着していった。

沿革[編集]

  • 1924年(大正13年) - 区画整理と成城学園の校舎建設の開始。第1期の分譲により成城学園の生徒の父兄を中心に178人ほどが土地を購入。売出の当初、一区画の敷地は400坪ほどであった。
  • 1925年(大正14年) - 最初の住宅4戸が建つ。4月、成城学園が移転・開校。5月、砧村大字喜多見字西之原・東之原の全域および中之原、八ケの各一部を分割して大字喜多見成城を設置。小田急線敷設予定地を境に字北・字南を設け、地名としての「成城」が登場する。
  • 1927年(昭和2年) - 小田急線開通と共に住民が移住。40戸ほどの住宅が完成。
  • 1931年(昭和6年) - 駅の南側に東宝の砧撮影所の前身であるPCL(写真化学研究所)が建つ。以後、芸能人などが住み始める。
  • 1936年(昭和11年) - 10月、東京市世田谷区に編入され、大字喜多見成城の部分に成城町が設置される。
  • 1970年(昭和45年) - 3月、住居表示を実施。周辺の祖師谷一丁目、祖師谷二丁目、喜多見町、砧町の各一部を含めた成城一 - 九丁目になる。

交通[編集]

鉄道[編集]

詳細は 成城学園前駅 を参照

小田急小田原線、成城学園前駅がある。急行、多摩急行、準急、区間準急、各駅停車が停車するが、一部を除いた特急ロマンスカーと快速急行は通過する。喜多見駅寄りに電車基地があり、同駅から引き込み線がつながっている。

同駅は、平日や土曜日の朝方は様々な学校の学生でごった返す。

バス[編集]

成城学園前駅 を参照

施設[編集]

脚注[編集]

  1. 河野秀樹『周縁を呑み込んだ都市』p.115(文芸社、2001年)

関連項目[編集]