小川博

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ロッテ・小川 博
ロッテ・小川 博
1985年の小川 博。隣は稲尾和久監督

小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃木県足利市出身、群馬県育ちの元プロ野球選手投手)。2004年の強盗殺人により、現在は受刑者

来歴・人物[編集]

出生は栃木県だが、1歳時に子供に恵まれなかった群馬県在住の大工・清掃作業員夫婦の養子となり、以後養父母の元で育つ。前橋工高では3回甲子園に出場。甘いマスクと豪腕で人気を集め「群玉(群馬の玉三郎)」とよばれ、甲子園のアイドルとなる。卒業後、青山学院大学へ進学、当時東都大学野球連盟で弱小だった青学大野球部の躍進に貢献した。同大学は現在の様に運動に力を入れる前の段階にあって同大学出身のプロ野球選手は非常に珍しく、小川自身の甘いマスクと相俟って同大学の後の野球部躍進のきっかけをつくる。

卒業後の1984年ドラフト2位でロッテオリオンズに入団。サイドスローから繰り出す速球と変化球・シンカーを武器に活躍し、元祖ドクターKとも呼ばれたが、現役生活全体を通して勝ち運に恵まれず、バックの援護が届かず1点差で負けてしまうゲームが多かった。

1988年にはオールスターに出場し、5者連続三振を記録。伝説の10.19では第1試合のロッテの先発投手として近鉄の前に立ち塞がった。この年は両リーグ最多の204奪三振を記録し、最多奪三振のタイトル創設のきっかけを作った。なお、シーズン最多奪三振投手で投球回数を上回る奪三振を記録した最初の右投手である(左投手ではそれ以前に金田正一江夏豊が記録している)。

しかし1989年に肩を痛めてからは低迷し、千葉マリンスタジアムにフランチャイズ移転後の初年度1992年に引退した。引退後もロッテに残り1999年までコーチ、2000年から2002年まで編成担当の球団職員を務めた。ロッテ退団の際には台湾球界からコーチ就任のオファーを受けたが、金額面で折り合いがつかず断っている。

以降は球界を離れ、産業廃棄物処理会社に就職。2004年、勤務先で強盗殺人を起こし逮捕された。その際、小川が現役途中から多重債務を抱えていたことも発覚した。2006年2月23日、東京高裁で無期懲役判決が確定し、現在服役中。


元千葉ロッテマリーンズ投手強盗殺人事件[編集]

2004年11月に発生した強盗殺人事件。元プロ野球選手が強盗殺人を犯した前代未聞の事件として注目された。

名投手からの暗転[編集]

野球選手の小川博は高校時代に投手として3回甲子園に出場し、「群玉(群馬の玉三郎)」と呼ばれ、甲子園のアイドルとなる。高校卒業後、青山学院大学へ進学して、青学大野球部の躍進に貢献。大学4年時にドラフト2位でロッテオリオンズに入団。1988年にはオールスターに出場し、5者連続三振を奪い、伝説の10.19の第1試合ではロッテの先発投手を務めた。この年は自身初の2ケタ勝利を挙げ、両リーグ最多の204奪三振を記録し、最多奪三振のタイトル創設のきっかけを作るなどの実績があったため、給与が一気に跳ね上がったという。プロに入団して以降は数千万円の年俸を稼ぐようになったが、当時から浪費が激しく、貯蓄をあまり考えなかった。しかし、1989年に肩を痛めてから低迷し、1992年に引退。

1999年までコーチ、2000年から2002年まで編成担当の球団職員を務めた。しかし、かつて大金を稼いでいた頃の浪費癖が忘れられずに借金を重ね、金融機関だけでなく、かなりの数の知人に金を借りたため、小川自身の信用を貶めた。また、小川は離婚していたため、養育費や慰謝料、住宅ローンなども抱え込み、さらに経済的に追い詰められるようになった。

2002年に借金催促が会社にも及んだことが理由で解雇され、球界を離れる。球界関係者は「前妻との離婚の際に多額の慰謝料を払うために借金をした。ロッテ時代も選手やスタッフに借金を重ね、02年に退団したのも金銭トラブルだった」などと話した。

2003年1月に、新聞広告を見て埼玉県産業廃棄物処理会社に就職。その後に多重債務のため自己破産宣告をしたが、それでも小川の浪費癖は改善されなかった。

強盗殺人[編集]

2004年11月18日午後6時30分、小川は当日中に返済が必要な3万円の金策のために勤務先の産廃処理会社の会長宅を尋ねた。会長は留守であったため、住み込みで働いていた女性社員西内和子さん(67)が応対。小川は西内さんに金の無心をする。しかし、同年8月に会長宅で室内が荒らされる窃盗未遂事件や同年11月に社員寮で50万円が盗まれる事件が発生しており、どちらも状況から社内の人間の犯行が疑われ、借金のある小川も疑いを受けていた。

西内和子さんは小川の依頼を断ろうとしたが、小川は西内さんに土下座をして3万円を借りようとした。それでも西内さんが断ったことに逆上した小川は西内さんを突き飛ばして気絶させた。小川は2階にあった会社が請け負った仕事の代金である現金入りの封筒を奪い、更にその発覚を恐れて、気を失った西内さんを車に乗せ、約4km先の旧荒川に投げ込もうとする。その中、小川はまだ西内さんに息があることを知りながら、川に投げ込んで水死させた。

その後、奪った数十万の現金で借金の一部返済に奔走した。

逮捕・裁判[編集]

2日後の11月20日に川で釣りをしていた男性が西内和子さんの水死体を発見。警察は遺体の状況から殺人事件として捜査をする。女性水死体の身元の判明と「事件現場で女性を車で運ぶ大柄な男」の目撃証言から、小川が最重要容疑者としてマークされた。

約1か月後の12月21日埼玉県警上尾警察署強盗殺人容疑で逮捕された。逮捕時から、小川は一貫して容疑を認めていた。なお産廃処理会社は逮捕前日に解雇されていた。

2005年9月29日さいたま地裁(福崎伸一郎裁判長)は求刑通り無期懲役の判決を下した。この地裁判決の争点は、どの時点で殺意を持ったと裁判所が判断するかであった。検察側は借金を断られた時点で殺して金を奪おうと考えたと主張した。しかし、裁判所は「借金を断られたからと言って、直ちに殺して金を奪おうと考えたというのはあまりに飛躍がある」として検察の主張を退け、突き飛ばした時点で凶器等を使わなかった事から「女性をよそに運び出そうとした時点で殺害する決意があった」と計画性の薄い事後的強盗殺人として認定した。

小川は「無期懲役は重過ぎる」と量刑不当を理由に、東京高等裁判所控訴していたが、2006年2月23日、東京高裁(仙波厚裁判長)は一審のさいたま地裁判決を支持し小川側の控訴を棄却、二審でも無期懲役の判決を受けた。同裁判長は、判決の中で「引退後も浪費を重ねて金銭的困窮に陥ったのが原因で、動機に酌量の余地はない」と述べた。

阪神優勝決定の日に、元ロッテ・小川博に無期懲役の判決が下った。本拠地の甲子園で宿敵・巨人を破っての優勝決定であった。甲子園で歓喜の輪にいた阪神コーチ、和田豊正田耕三は小川と同じ1984年のドラフトでプロ入りしている。同じスタートを切った者が、一方は美酒を味わい、一方はどん底にいた。

その他[編集]

  • 長い日本プロ野球の歴史においては交通事故交通違反飲酒運転速度超過など)、傷害恐喝八百長、闇賭博脱税詐欺強制わいせつ婦女暴行薬物使用といった不祥事が発覚し、選手や元選手が検挙された事例はあったが、殺人事件は前代未聞であり、各方面から批判が相次いだ。
  • 現役時代のロッテ監督であった有藤道世は、『サンデーモーニング』のインタビューで「目の前にいたら『死ね』って言ってやりたい」と語った。このように厳しい批判をした有藤だが、逮捕直後はそのことが信じられなかったという。「そんな大それたことをする奴じゃないはず。同じ野球人として寂しい」「三万円?その程度だったら貸してやったのに。相談してもらいたかった」とも語っていた。
  • 小川は養母に度重なる金の催促をしていたため愛想を尽かされていた。逮捕後には元妻や子供らは小川との関係を完全に拒絶したため、小川は養母しか手紙を出す相手がいなくなった。養母への手紙には、見栄を張るために堕落していった自分の人生を振り返る文章が書かれていた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]

1985 ロッテ 21 2 0 0 0 2 3 4 -- .400 273 61.2 52 6 39 3 5 47 3 0 38 32 4.67 1.48
1986 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 27 6.1 7 2 1 0 0 6 0 0 5 5 7.11 1.26
1987 40 8 3 0 0 3 5 0 -- .375 399 98.2 67 11 39 1 4 79 2 0 39 36 3.28 1.07
1988 31 25 10 1 0 10 9 0 -- .526 838 203.2 144 21 91 8 5 204 3 0 79 77 3.40 1.15
1989 14 13 2 1 0 3 8 0 -- .273 383 86.2 81 24 46 1 6 69 2 0 63 53 5.50 1.47
1990 20 8 0 0 0 3 1 1 -- .750 340 78.1 77 14 31 1 1 55 3 0 44 42 4.83 1.38
通算:6年 132 56 15 2 0 21 26 5 -- .447 2260 535.1 428 78 247 14 21 460 13 0 268 245 4.12 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):1回 (1988年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

記録[編集]

背番号[編集]

  • 26 (1985年 - 1992年)
  • 91 (1993年 - 1994年)
  • 88 (1995年 - 1999年)

26は現在マリーンズファンに割り当てられ現役選手は着けない準永久欠番の扱い(公式には出場選手登録25人に次ぐ“26人目”の意)だが、小川事件の翌年に永久欠番となった。

関連項目[編集]

関連書籍[編集]

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