安保闘争

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
国会を取り囲んだデモ隊(1960年6月18日)

安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民および批准そのものに反対する国内左翼勢力が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争、傷害、放火、器物損壊などを伴う大規模暴動である。自由民主党など政権側からは、「安保騒動」とも呼ばれる。

60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた。しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った。

日ソの国交回復以降在日大使館通商代表部に潜入したソ連国家保安委員会(KGB)工作員や、日本社会党労働組合等に多数侵入した誓約引揚者(ソ連のスパイ)等が、ソ連による安保改定阻止の意向を受けてスパイ活動を行い、運動が拡大化したという側面がある。

安保条約[編集]

1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカサンフランシスコにおいて、アメリカやイギリスをはじめとする第二次世界大戦連合国47ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、主席全権委員であった吉田茂首相は、同時に平和条約に潜り込まされていた特約(第6条a項但し書き。二国間協定による特定国軍のみの駐留容認)に基づく「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。この条約によって日本を占領していた連合国軍の1国であるアメリカ軍は「在日米軍」となり継続して日本に駐留する事が可能となった。

なお、当時冷戦下でアメリカやイギリス、フランスなどのいわゆる「西側諸国」と対峙していたソビエト連邦は、西側諸国主導のサンフランシスコ平和条約に対立の意思を示し、49カ国の条約締結国には入らなかった上に、自国を事実上の仮想敵国ソ連脅威論)とした日米安全保障条約に対しても激しく非難を行った。

60年安保[編集]

衆議院通過までの過程[編集]

1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)頃から自由民主党岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸首相以下全権団が訪米、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。

新安保条約は、

  1. 内乱に関する条項の削除
  2. 日米共同防衛の明文化(日本をアメリカ軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)※アメリカ軍の防衛の明文化はされていないとの反論が多数されている。
  3. 在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置

など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供するための条約から、日米共同防衛を義務づけたより平等な条約に改正するものであった(※より平等でないとの意見もあり)。日米共同防衛義務がないとの意見がある。日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の項目を参照。)

岸首相が帰国し、新条約の承認をめぐる国会審議が行われると安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾した。締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すという懸念や、在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判(在日米軍裁判権放棄密約事件の項目参照)により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げて、総力を挙げて、反安保闘争に取り組んだ。

まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや東條内閣の閣僚であった岸首相本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(※在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」として、多くの市民が反対した。これに乗じて既成革新勢力である社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり貫徹したが、全学連の国会突入戦術には皮相的な立場をとり続けた。とりわけ共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト集団[1])」を批判した。これに対し批判された当の全学連は、既成政党の穏健なデモ活動を「お焼香デモ」と非難した。

なお、ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、自著『対日工作の回想』のなかで、ミハイル・スースロフ政治局員の指導のもと、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもこれらの勢力がソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取り合っていたと記述している。

衆議院における強行採決

5月19日衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。これは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに自然成立させようと採決を急いだものであった。本会議では社会党・民社党議員は欠席し、自民党からも強行採決への抗議として石橋湛山河野一郎松村謙三三木武夫らが欠席、あるいは棄権した。

闘争の激化[編集]

その結果、「民主主義の破壊である」として一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどる。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。これに対して岸首相は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内のアイク歓迎実行委員会委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暴力団関係者の会合に派遣した。松葉会藤田卯一郎会長、錦政会稲川角二会長、住吉会磧上義光会長、「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組尾津喜之助組長ら全員がデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。

さらに右翼暴力団で構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会、岸首相自身が1958年に組織し木村篤太郎が率いる新日本協議会、以上3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。当時の「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」には「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8000人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。岸首相は創価学会にも協力を依頼したが、これは断られたという。彼らは政府提供のヘリコプター、小型機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」と書かれている。

岸首相は、「国会周辺は騒がしいが、銀座後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」と語った。しかし、元首相3人(石橋、東久邇宮稔彦王片山哲)までが退陣勧告をするに及び、事態は更に深刻化していった。

ハガチー事件および、樺美智子の死[編集]

ハガティ報道官を乗せた海兵隊ヘリ(1960年6月10日)
日比谷公園から国会に向かうデモ隊(1960年6月15日)

6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ大統領報道官(当時の報道表記は「ハガチー新聞係秘書」)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に迎えの車を包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件)。

6月15日には、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。在京局で唯一中継をしていたラジオ関東島碩弥警棒で殴られ負傷した。21時に開かれた国会敷地内での全学連抗議集会で訃報が報告されたことで、警察車両への放火等を行うなど一部の学生が暴徒化し、負傷学生約400人、逮捕者約200人、警察官負傷約300人に上った。国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。

日付が変わって16日午前1時30分、岸内閣は緊急臨時閣議声明を発した。

このたびの全学連の暴挙は暴力革命によって民主的な議会政治を破壊し、現在の社会秩序を覆さんとする国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動に他ならないのであって、もとより国民大多数の到底容認し得ざるところである。
我々は自由と民主主義の基盤の上に初めて真の平和と繁栄が築かれることを確信しているがゆえに、これらを破壊せんとするいかなる暴力にも屈することなく完全にこれを排撃し、以て民生の安定を守り抜かんとするものである。
計画的破壊活動に対して治安当局のとれる措置は当然のところである。
国民諸君においても今回の不祥事件の背後に潜む本質を見極め一層の理解と協力あらんことを要望してやまない。

このように激しい抗議運動が続く中、岸首相は15日と18日赤城宗徳防衛庁長官に対して陸上自衛隊治安出動を要請した。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、石原幹市郎国家公安委員会委員長が反対し赤城防衛庁長官も出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。

七社共同宣言[編集]

安保報道参照

自然成立後[編集]

条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立していった。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職を表明した。岸首相は7月15日の総辞職の前日、暴漢に襲撃され重傷を負った。

「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたが、戦前の東條内閣閣僚でありA級戦犯容疑者にもなった岸首相とその政治手法に対する反感により支えられた倒閣運動という性格が強くなり、安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、岸内閣が退陣し池田勇人内閣が成立(7月19日)すると、運動は急激に退潮した。

池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、社会党も経済政策で対抗したため、安保闘争の影は薄くなっていった。さらに、7~8月に行われた、青森県埼玉県群馬県の各知事選で社会党推薦(埼玉では公認)候補は惨敗(山崎岩男栗原浩神田坤六が当選)。総選挙でも自民党圧勝の雰囲気さえ出てきた。10月12日、社会党の淺沼委員長暗殺事件で再び政権は揺らぎかけたが、池田首相は動揺を鎮めることに成功。11月20日総選挙では、社会党と民社党が互いに候補を乱立させた影響もあり、自民党は追加公認込みで300議席を獲得する大勝を収めた。安保条約の改定が国民の承認を得た形になり、現在(2015年)まで半世紀以上にわたり、安保条約の再改定や破棄が現実の政治日程に上ることはなくなっている。

余波[編集]

デモ隊側から見れば安保阻止は実現できなかったものの、自らの運動によって内閣を退陣させることに成功した意義は大きいとみなされ、活動の主体となった大学生による反体制運動は、続くベトナム戦争反戦運動により拍車がかかり、1968年(昭和43年)に起こる一連の大学紛争へ至る。一方では、安保闘争を「敗北」と総括した共産主義者同盟(ブント)をはじめ、急進派学生には、強い挫折感が残ることになった。全学連指導者の一人だった唐牛健太郎は、安保闘争の終結直後に運動から身を引き、香山健一森田実などは転向する。新左翼党派は、ブントが四分五裂の分裂を開始し、北小路敏ら全学連指導部の一部は、ブントから革命的共産主義者同盟全国委員会に移行するなど、再編成の季節を迎えることになった。

安保闘争は、議会政治自体への反発や否定の側面があった。しかし、マスメディアが「七社共同宣言」で議会政治擁護をその根拠としたことで、主立ったマスメディアで、議会政治自体を否定する論調はほぼ無くなった。また、安保闘争は、総選挙で与党の自由民主党に対する政権交代を実現させる方向には働かず、選挙結果への影響がほとんど無かったことも注目される。

1963年(昭和38年)2月26日東京放送(TBSラジオ)が実録インタビューで構成した番組『歪んだ青春-全学連闘士のその後』を放送する。この番組は60年安保闘争時の全学連が、戦前の日本共産党の指導者で60年当時は土建会社を経営しながら「反共右翼」としての活動を行っていた田中清玄から資金援助を受けていたことを暴露する。日本共産党は「ブント全学連の挑発者としての正体が露呈した」と指摘し、新左翼を「ニセ「左翼」暴力集団」と呼ぶ、つまり左翼とは認めない根拠としている。

また、安保闘争における過程で岸首相が右翼をデモ隊に対抗する行動部隊として動員させる過程で、児玉などを使い暴力団を動員した結果、一部の右翼と暴力団などの反社会的勢力との関係が深まり、一部の暴力団が右翼団体や政治結社を名乗り活動するなど右翼活動に暴力団がおおっぴらに食い込み、両者の区別があいまいになるきっかけとなったという評価もある。

ソ連は安保改定を自国への挑戦と受け止め、上記のように社会党や共産党、総評の安保反対活動に対して多大な援助を行うとともに、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で確約された「平和条約締結後に歯舞群島色丹島を返還する」約束を撤回し、アメリカ軍が駐留可能となる地域が増えることは好ましくないとして、日本政府に対して一方的に不返還を通告した。日本政府は、共同宣言発効の際には既に安保条約が存在しており、双方は矛盾しないとして抗議、結局ソ連が不返還通告を撤回することで収束した。

評価[編集]

新安保条約や60年安保闘争への評価は政治的な立場により異なるが、新安保条約は現在(2015年)まで半世紀以上にわたり存続しており、ソ連崩壊冷戦が終結し、対ソ連、対東側諸国への抑止力としての安保体制の意義は消滅したものの、新たに北東アジアにおける軍事的脅威として浮上してきた中国北朝鮮に対峙するための日米の軍事同盟として、そしてアメリカのトルコ以東地域への軍事的存在感維持などの新たな意義づけのもとに維持されているなど、日本の政治体制・軍事体制の基礎として完全に定着しており、当時安保改定反対の理由として主張された「新安保条約により日本が戦争に巻き込まれる危険が増す」との意見は現在では余り聞かれない。

さらに、1994年7月成立の村山内閣で、日本社会党委員長である村山富市首相が国会の所信表明演説において「日米安保堅持」と発言した上、2009年に発足した民主党社会民主党国民新党の連立政権(鳩山由紀夫内閣民社国連立政権)においても、日本社会党を継承した社会民主党の福島瑞穂党首(特命担当大臣)が、入閣後は安保について明確に反対の意思を示していないなど、一部の左翼陣営の中での国会内での安保条約を容認する動きも出てる。ただ、アメリカが日本国内で運用するオスプレイや、アメリカが提示する辺野古への基地移転、アメリカが強く支持する日米安保の新しい形とされる集団的自衛権行使に関しては、福島らを含めた左翼陣営は反対の姿勢をとる。

マスメディアの状況は、1960年当時では日米安保に批判的な論調が主流であったが、現在では概して日米安保自体は容認するようになっている。ただし、日米安保強化や在日米軍の方針に関しては、肯定的な立場と批判的な立場に分かれる。全国紙では、読売新聞や産経新聞は日米安保強化や在日米軍の方針に総じて肯定的であり、朝日新聞や毎日新聞は批判的である。例えば、在日米軍が進めるオスプレイの普天間基地配備に関しては、読売新聞と産経新聞は賛成しているのに対し、朝日新聞と毎日新聞は反対の立場である。普天間基地の沖縄県外への移転(=普天間基地の辺野古への移転計画の中止)についても、読売新聞と産経新聞は日米両政府が合意し、米政府が支持する辺野古移設案を変えることの無いように主張している。そして、アメリカ政府が歓迎し日米安保を強化する動きでもある集団的自衛権に関しても、集団的自衛権に肯定的な読売新聞や産経新聞と、集団的自衛権に批判的な朝日新聞や毎日新聞との間では意見が割れている。また、全国紙以外では、共同通信とその影響を強く受ける地方紙の大半は、日米安保強化や在日米軍の方針に関しては朝日新聞や毎日新聞と同じく批判的立場である。沖縄県の地元2紙(琉球新報沖縄タイムス)も同様である。例えば、オスプレイの普天間基地配備に関しても、辺野古移設に対しても、集団的自衛権に関しても、批判的である。ただし、地方紙でも石川県北國新聞三重県伊勢新聞などの保守色が強い一部の地方紙は日米安保強化や在日米軍の方針に肯定的なことが多い。

なお、小室直樹西部邁などは「安保反対と言って騒いでいた中に安保条約の中身を読んで反対していた人間はろくにいなかった」と公言している。西部は当時全学連中央執行委員をしていた。

岸信介首相と対峙しデモを主導した元全学連のリーダーは岸元首相が亡くなった際「あなたは正しかった」という弔文を書いてその死を悼んだという。

60年安保闘争の経緯[編集]

1959年(昭和34年)
1960年(昭和35年)

70年安保[編集]

1970年に10年間の期限を迎え、日米安保条約が自動延長するに当たり、これを阻止して条約破棄を通告させようとする運動が起こった。

学生の間では1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて全共闘や新左翼諸派の学生運動が全国的に盛んになっており、東大闘争日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。

街頭闘争も盛んに行われ、新左翼の各派は、1967年(昭和42年)10月、11月の羽田闘争、1968年(昭和43年)1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争、4月の沖縄デー闘争、10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)、1969年(昭和44年)4月の沖縄デー闘争、10月の国際反戦デー闘争、11月の佐藤首相訪米阻止闘争などの一連の闘争を「70年安保闘争の前哨戦」と位置づけて取り組み、「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦った。

国会前へのデモンストレーションは1970年(昭和45年)6月14日に行われ、また全国236箇所で社会党、共産党などによるデモが行われた。また、「インドシナ反戦と反安保の6・14大共同行動」と題して、市民団体と新左翼諸派は7万2千人を動員した。しかし、新左翼諸派は、機動隊を強化した佐藤政権による徹底した取り締まり、あるいは弾圧に加え、内ゲバによって既に疲弊していた。

同年6月23日、条約は自動継続となった。70年安保闘争は、ベトナム反戦運動、成田空港問題などと結び付き、一定の労働者層の支持を得たが、60年安保に比べ、全共闘を中心とした学生運動の色合いが濃くなっていた。社会党共産党などの革新勢力は、「70年安保闘争」を沖縄返還運動とセットの「国民運動」として位置づけ、70年の「自動延長」そのものには60年安保闘争ほどの力量を割かなかった。

「安保延長反対」の世論と運動への国民の支持は少なくなかった。しかし、全共闘と共産党系の民青の衝突を始め、全共闘に属する党派同士の内ゲバが激化し、多くの国民からかけ離れた存在となっていった。70年安保期の1969年(昭和44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗し、佐藤長期政権は1972年(昭和47年)まで継続した。

それでも学生運動、新左翼運動を続ける者はいたが、8月4日には中核派による革マル派活動家殺害が発覚し、革マル派も報復として中核派活動家を殺害。また、1972年連合赤軍によるあさま山荘事件、そして発覚した山岳ベース事件が国民に知られるようになると、その凄惨さから、学生運動・新左翼運動は殺人と同義と見なされるようになった。それまで左翼を擁護していた知識人たちも、一斉に左翼運動を批判するようになり、新左翼の勢力は一気に退潮した。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • トロツキー支持者とは限らず、共産党と敵対する左翼全般への非難用語として使われた。ニセ「左翼」暴力集団も参照