大日本帝国

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大日本帝國
日本の国旗
国旗
菊花紋章
準国章: 菊花紋章
Location Japanese Empire.png
標語 (なし)
公用語 日本語(事実上の公用語)
朝鮮語台湾語なども使われていた。
首都 東京
面積 675千km2(昭和初期の領土)
人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口)
政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制
国家元首 明治天皇大正天皇昭和天皇
内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照
通貨
国歌 君が代

大日本帝国(だいにっぽんていこく / だいにほんていこく、旧字体: 大日本帝國)は、1889年明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇大日本帝国憲法を通じて統治する日本として使用された国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本の領土に加え、南樺太千島列島朝鮮半島台湾などを領有していた他、北東アジア太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。

以下は大日本帝国憲法下の国家について記述する。

国名[編集]

憲法原本での国名

経緯[編集]

明治天皇1868年1月3日慶応3年12月9日)、王政復古を宣言。1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国名を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に日本とあるので文体を統一するために憲法も日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により日本帝國に決められた[1]

帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「the Empire of Japan」 と訳され、「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國大日本國と表記し、外交文書では日本日本國とも称したし、国内向けの公文書でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対する拘りが表面化した1935年(昭和10年)7月、外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一することを決定した[2]国号を参照。

第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では、国名を「大日本帝國」のままにしていたが、2月13日、GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が日本國となり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられることとなった。 日本国憲法下の日本では主権在民に変更されつつ、象徴天皇制として皇室は維持された。

通称[編集]

通称では帝国と呼び、また皇国とも称した。日本海海戦での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」が有名であるが、より一般的な日本や日本国等も通称では使われていた。

現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫のみである。民間では帝国データバンク帝国劇場(通称「帝劇」)、帝国ホテル帝国書院帝国制帽帝国石油のように、「帝国」を使用しているものもある。

2004年東京地下鉄(東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「帝都」を冠した帝都高速度交通営団であった。京王電鉄も同様に、社名変更前は「京王帝都電鉄」(京王電鉄と帝都電鉄が合併した名称)と「帝都」を冠し、警備会社ではテイケイが「帝国警備保障」を、帝人が「帝国人造絹糸」と「帝国」を冠していた。

また、同様に「大日本」の文字が使用されている企業もある。

国土[編集]

大日本帝國の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2'. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮(以上領土)、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島

大日本帝国憲法下の日本の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟に統治を委任された委任統治区域があった。このほか、行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。

首都[編集]

憲法や法令に首都の規定はないが、大正12年9月12日詔書で「東京ハ帝国ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都と称され、宮城(きゅうじょう、皇居)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会が開かれ、戦時には大本営が置かれた。

東京以外の首都機能としては、天皇の所在を示す高御座京都御所に安置され、即位の礼大嘗祭が行われていたことから、京都市がその一部を担っていたといえる。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、大東亜戦争本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕に移す予定であったが、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。

領土[編集]

領土は完全な領有権を有する区域であり、内地樺太(後に内地に編入)、台湾朝鮮からなる。このほか一時遼東半島を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記の通り。領土面積は最大675,000km2。各領土の概要は下記の通り。

内地
日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下の通り。
このほか以下の島々を内地に編入した。
  • 北大東島南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。
  • 硫黄島北硫黄島南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。
  • 南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。
  • 魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。
  • 沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。
  • 竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。
  • 中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。
  • 沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。
樺太
日持上人が訪れるなど、古くは鎌倉時代から日本との関わりがあり、江戸時代松前藩陣屋アイヌなどとの交易場所なども設けられていたが、樺太島仮規則などの不平等条約ロシアとの雑居地とされた後、1875年、千島樺太交換条約によりロシアに譲渡。1905年、日露戦争樺太作戦)で占領し、同年のポーツマス条約(日露講和条約、明治38年勅令号外)により北緯50度以南を割譲させ回復。1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。樺太庁を参照。
台湾
台湾本島と澎湖島日清戦争で占領し、1895年、下関条約(日清講和条約、明治28年勅令号外)により、清国に割譲させて獲得。1938年、新南群島を台湾高雄市に編入した(昭和14年台湾総督府令第31号、台湾総督府告示第122号)。日本統治時代 (台湾)の項を参照。
遼東半島(奉天半島)
日清戦争で占領し、1895年、下関条約により清国に割譲させて獲得したが、三国干渉を受けて、同年中の奉天半島還付ニ関スル条約(明治28年勅令号外)により返還した。この間、ごく短期ではあるが、領土であった。
朝鮮
1910年、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第3号)により領土に加え、韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件(明治43年勅令第318号)により朝鮮に改称した。日本統治時代の朝鮮の項を参照。

租借地[編集]

租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借した。

関東州
遼東半島先端の大連旅順近辺。ロシアの租借地だったが、日露戦争で占領。1905年、ポーツマス条約により清国の承諾を条件に租借権を譲り受け、日清間満洲ニ関スル条約(明治39年勅令号外)により清国の承諾を得て租借した。租借期限は1923年までだったが、1915年、南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約(大正4年条約第3号)により1997年まで延長(ポツダム宣言受諾により1945年に失効)。
膠州
山東半島南岸の青島近辺。ドイツの租借地だったが、第一次世界大戦で占領。1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により租借地とするが、2年後の山東懸案解決ニ関スル条約(大正11年条約第3号)により中華民国に返還。

委任統治区域[編集]

南洋群島
西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟委任に基づき統治する委任統治区域とした。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行う。

一部統治区域[編集]

南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)
南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなる。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得した。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃した(昭和12年条約第15号)。
租界
専管租界を1897年杭州蘇州に、1898年天津に、1898年漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設した。また、上海共同租界に参加していた。北京には正式な租界ではないが、事実上の共同租界として機能した公使館区域があった。このほか沙市福州厦門に租界を設置する権限があったが設置しなかった。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1943年、中華民国(汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃した(昭和18年条約第1号、同第2号)。

第二次世界大戦による占領地[編集]

香港フィリピンベトナムラオスカンボジアマレーシアシンガポールビルマインドネシアブルネイ

住民[編集]

大日本帝国憲法下の日本で大日本帝国の国籍を有する者を日本人日本国民日本臣民といった。大日本帝国憲法では日本臣民の名称が使用されている。国籍の要件は国籍法(明治32年法律第66号)で規定された。下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。

国民[編集]

内地人
内地人とは戸籍法(明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である。現在の日本国民にほぼ相当する。内地人には華族士族平民の別があり、華族は貴族院議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。
樺太人
樺太人は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では土人と呼ばれた。また樺太土人ともいう。樺太人は大日本帝国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では大日本帝国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。樺太人のうち8割近くが樺太アイヌであり、他にニヴフウィルタ(当時の通称はオロッコ族)などがいた。1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。
台湾人
台湾人台湾の在来住民である。本島人ともいう。1895年台湾割譲の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。本島人のうち9割が漢族、1割が高砂族である。行政上は日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上は日本国と中華民国との間の平和条約の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失したとされている。
朝鮮人
朝鮮人は朝鮮の在来住民である。1910年の韓国併合の際に大日本帝国国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。朝鮮人のうち旧大韓帝国の皇族は王公族、一部の両班や韓国併合に功績のあった者は朝鮮貴族に封じられた。これらの人々は1952年、日本国との平和条約の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失した。

国民以外[編集]

正式な領土とされなかった統治区域の在来住民は、大日本帝国籍が与えられず、国民として扱われなかった。

国際連盟からの委任統治区域であった南洋群島の在来住民を島民といった。島民は国籍がなかった。島民の大部分はカナカ族であり、他にチャモロ族がいた。

租借地である関東州や満鉄附属地の在来住民は当初清国籍、後に中華民国籍を経て、1932年に満州国が建国された後は満洲国籍とみなされた[3]。租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。これらの大部分は漢族である。

統治機構[編集]

大日本帝国は1890年帝国憲法施行に伴い立憲君主国家に移行した。帝国憲法上は国家元首である天皇が統治権全体を掌握する建前であったが(憲法第4条)、実質上は国家の各機関が権限を分掌していた。これは「統治構造の割拠性」といわれる(辻清明)。

内閣と宮中[編集]

統治権に関する天皇の権限は国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使された(憲法第55条)。内閣は国務大臣で組織され(内閣官制第1条)、帝国憲法上天皇大権とされた権限は原則として内閣の決定に基づいて行われた。

内閣総理大臣は国務大臣の首班であり、重要決定事項を天皇に報告し、その了解に基づいて行政を統制した(内閣官制第2条)。内閣総理大臣の選任方法については、明文の規定はなく、元老(のち重臣)と呼ばれる有力者たちが内閣総理大臣を選んだ。

天皇の実際の役割は、内閣の決定に従ってこれに形式的な裁可を与えて国家意思を確定することであった。ただし、天皇は単なる傀儡ではなく、当時のイギリス国王など他の立憲君主と同様、政治上の決定に関与していた(伊藤之雄)。天皇の側近には、侍従長内大臣などがおり、特に内大臣は昭和期に天皇の政治秘書として活動した。その他、皇室の事務については宮内大臣が輔弼した。なお、内大臣と宮内大臣は国務大臣ではなく内閣に関与しない。

帝国議会と枢密院[編集]

立法権は、天皇が帝国議会の協賛(同意)に基づいて行った(憲法第5条)。帝国議会は貴族院衆議院の二院制であり、貴族院は皇族華族勅任議員(元官僚など)で組織され、衆議院は公選された議員から組織された(憲法第33 - 35条)。

帝国議会は法律の制定について協賛(同意)する権限を持った(憲法第37条)。国民の権利・義務に関わる事項は原則として法律によらなければ(すなわち帝国議会の同意がなければ)侵害されなかった(憲法第2章)。また、帝国議会は毎年の予算に対しても協賛権を持った(憲法第64条)。予算が不成立の場合は前年度の予算が施行されるが(憲法第71条)、前年度予算では行政が成り立たないため、帝国議会の予算審議が内閣の死命を制することとなり、これにより政党内閣への道が開かれた。ただし、他の立憲諸国と比較すれば、以下の点で議会の権限は弱かった。

  • 政府は法律の定めのない事項につき独立命令により法規を定める権限を有した(憲法第9条)。
  • 国際条約の締結に関して帝国議会の協賛は不要であった(憲法第12条)。
  • 教育関係の規定は、国民の権利義務に関わる事項であっても、法律ではなく勅令で定められる慣習があり、帝国議会の協賛は不要であった。
  • 皇室典範改正については帝国議会の協賛は不要であった(憲法第74条)。
  • 憲法改正については帝国議会に発案権がなかった(憲法第73条)。

もっとも、これらの事項に関しても政府が自由に裁量できるものではなく、帝国議会の代わりに枢密院の審議を経る必要があった。枢密院は天皇の諮詢(相談)を受けて重要な国務を審議する機関にすぎないが(憲法第56条)、これらの事項に関して事実上の拒否権を有した。枢密院は行政への関与を禁じられたが(枢密院官制第8条)、しばしば政府に干渉した。

裁判所[編集]

司法権は天皇の委任により裁判所が行った(憲法第57条)。民事・刑事の裁判については、大審院を頂点とする通常裁判所が裁判したが(裁判所構成法)、欧州大陸型の司法制度に倣って、行政訴訟は特別の行政裁判所が扱った(憲法第61条、行政裁判法)。

陸海軍[編集]

陸海軍の統帥(憲法第10条)は国務大臣の輔弼の外に置かれ、統帥部が担当した(統帥権の独立)。統帥部は陸軍参謀本部海軍軍令部が並立し、戦時に両者は形だけ統合して大本営が置かれた。統帥部は内閣を経ないで天皇に決定を求める帷幄上奏権という特権を有した。陸軍大臣と海軍大臣は、国務大臣であるとともに統帥機関としての地位も有し、やはり帷幄上奏権を行使したほか、帷幄上奏を通じて統帥に関する勅令の決定を求め、これに副署する権限を有した。この勅令は総理大臣の副署を要しなかったが、1907年の公式令制定によって全ての勅令に総理大臣の副署が必要になると、勅令とは別に「軍令」という法形式を新設し(明治40年軍令第1号)、陸海軍大臣のみが副署する権限を保った。

この統帥権の独立によって陸海軍に対するシビリアンコントロール(文民統制)が機能せず、その結果軍部の独走を助長し、国内の混乱及び諸外国との軍事的衝突をいたずらに広める結果になったとする意見もある[4]

外地統治[編集]

内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地(殖民地)などという。外地には朝鮮総督府台湾総督府樺太庁関東庁南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任された。これら外地官庁の要職は内地人で占められていた。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しなかった。外地では地方参政権を付しており、朝鮮人や台湾人[5]による地方議会が運営されていた。

詳細は 外地 を参照

国際連盟常任理事国[編集]

大日本帝国は1920年に発足した国際連盟常任理事国であり、1933年3月27日(正式には1935年3月27日)に脱退するまで大きな役割を果たしてきた。国際連盟設立へ向けた1919年パリ講和会議では非白人国唯一の大国として人種差別撤廃案を提出し人種平等を訴え多くの国の賛意を得た。

その他[編集]

  • 台湾の領有により、大日本帝国最高峰は富士山から玉山(新高山)へと変わった。
  • 第二次世界大戦中、軍部の使用に便を図るため、東京のタクシー会社は4社に統合させられた。これら4社大和自動車交通日本交通帝都自動車交通国際自動車の各社名は、「大日本帝国」を分割したものに由来するといわれている。東京四社営業委員会を設立し、戦後も業界大手として営業し、タクシーチケット、タクシークーポンの共通化など連携した営業行動をとる。現在でも、東京四社営業委員会に属するタクシー会社4社の通称として「大日本帝国」と呼ぶことがある。

脚注[編集]

  1. 枢密院会議筆記明治21年(1888年)6月18日午後。
  2. 外務省条約局作成(昭和11年5月)「我国国号問題二関スル資料」(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」所収)。外務省外交史料Q&A[1]「戦前の日本では、国号の英語標記を “Japan"から“Nippon"に変更しようとする動きがあったそうですが、このことに関する史料はありますか。」
  3. ただし満州国には国籍法が存在しなかったため、法的な「満州国民」は存在しなかった。満州国#国籍法の不存在を参照のこと。
  4. 中曽根康弘、石原慎太郎共著『永遠なれ日本』(PHP研究所 2001年)p.115
  5. 戦間期台湾地方選挙に関する考察 台湾研究フォーラム

参考文献[編集]

  • 美濃部達吉著『憲法撮要』改訂第5版、有斐閣、1932年(復刻1999年)
  • 百瀬孝著・伊藤隆監修『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』吉川弘文館、1990年
  • ジョン・トーランド著『大日本帝国の興亡』ハヤカワ文庫、毎日新聞社訳、1984年
  • 「国号に見る「日本」の自己意識」前野 みち子(名古屋大学大学院国際文化研究科 言語文化研究叢書第5号(2006年3月)「日本像を探る」 )[2]
  • 我国国号問題ニ関スル資料(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」外務省条約局第一課昭和11年5月 アジア歴史資料センター所収)[3]レファレンスコード「B04013401600」で検索可能

関連項目[編集]