地道行雄

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地道 行雄(じみち ゆきお、1922年1月22日 - 1969年5月15日)は、日本ヤクザ暴力団・三代目山口組舎弟(元若頭)、地道組組長。神光工業取締役[1]兵庫県神戸市兵庫区出身。


来歴 [編集]

大正11年(1922年)1月22日、神戸市兵庫区で、生まれた。父親は工員だった。

昭和11年(1936年)、兵庫尋常小学校を卒業した。その後、三菱電機の工員として働いた。

昭和16年(1941年)、姫路師団に入隊した。中国華北華中の戦線を転戦した。

昭和20年(1945年)の戦後田岡一雄(後の三代目山口組組長)は、湊川田岡組を結成した。

昭和21年(1946年)4月、地道行雄は、陸軍兵長として復員した。それから、神戸市福原で自転車修理業を始めた。

同年の敗戦後、神戸市の山口組に出入りするようになった。山口組は、自警団を組織して、「戦勝国民」を自称する、三国人の一部と対立していた。地道行雄は、一部の不良在日外国人と喧嘩を繰り返した。

同年7月、山口組舎弟会が開かれた。二代目山口組・山口登組長の若衆だった藤田仙太郎(元関脇山錦善治郎。本名は山田善治郎)は、山口組三代目に、田岡一雄を提案した。舎弟頭・森川盛之助湊芳次ら全員が田岡一雄の山口組三代目就任に賛成した。

同年10月13日[2]、田岡一雄の山口組三代目襲名式が、神戸市・新開地の食堂「ハナヤ食堂」[3]で、行われた。参加者は10人程度だった。

同年10月17日、田岡一雄は、神戸市生田区相生町の料亭「三輪」で、披露宴を行った。山口組三代目の初代若頭には、山田久一(通称:小トラ)が就任した。このとき、岡精義(後の三代目山口組七人衆)は田岡一雄の若衆(後に舎弟)となった。田岡一雄からの最初の盃を、吉川勇次(後の三代目山口組若頭補佐)が受けた。このとき、組員は、先代の舎弟6人、先代の若衆14人、田岡一雄の直系若衆13人だった。

昭和22年(1947年)2月、地道行雄は、田岡一雄の若衆となった。

昭和23年(1948年)、国と各自治体は、競輪競馬を施行した。

昭和25年(1950年)9月、山口組と西海組の抗争事件が勃発した。
詳細は 山口組と西海組の抗争事件 を参照

昭和30年(1955年)頃、地道行雄は、安原政雄の後任の山口組若頭に就任した。

昭和32年(1957年)7月12日、小松島抗争が勃発した。

同年11月18日、山口組は小松島抗争に介入することになった。
詳細は 小松島抗争#山口組の介入 を参照

昭和34年(1959年)5月、柳川組柳川次郎組長(通称:マテンの黒シャツ。本名は梁 元鍚)はテキヤ北三沢組藤本与治組長とキタの露天で提携した。すぐに柳川組と北三沢組は、大野会大野鶴吉会長の舎弟双葉会丹羽峯夫組長と小競り合いとなった。最初は三代目山口組舎弟中川組中川猪三郎組長がこの仲裁に、当たった。結局は、この仲裁は失敗し、別の者の仲裁で解決した。

同年6月、中川猪三郎の仲介で、柳川次郎は地道行雄とを交わして、地道行雄の舎弟となった。柳川組の福田留吉園幸義黒沢明(後の三代目山口組若中)らは、地道組(組長は地道行雄)の若衆に直った。

昭和35年(1960年)8月9日、明友会事件が勃発した。
詳細は 明友会事件 を参照

同年、竹中英男に大島組からの盃の話が起こったため、竹中正久(後の四代目山口組組長)は、兄弟分の宇野正三に相談した。宇野正三が竹中英男に真意を確かめると、竹中英男は大島組入りを拒否し、「兄の竹中正久を一人前にさせたい」と言った。宇野正三は、父の山口組宇野組宇野加次組長に、竹中正久の山口組入りを頼んだ。宇野加次は、竹中正久を、地道行雄に推薦した。姫路市湊組湊芳治組長と姫路市の渋谷組渋谷文男組長が、竹中正久の山口組入りに反対した。地道行雄は、博打で竹中英男と顔見知りだった今治市矢嶋組矢嶋長次組長を、竹中正久のもとに送り、竹中正久の反応の確かめた。竹中正久は、山口組入りに拘ってはいなかった。

同年9月、鳥取県米子市山陰柳川組柳川甲録(本名は柳甲録)組長と小塚組小塚斉組長を舎弟とした。

同年12月13日、山口組「御事始」(または、「正月事始」。通称「事始め」)の席で、柳川次郎と石井一郎の直系昇格が決定し、「御事始」終了後に山口組本部事務所で結縁の盃事が執り行われた。取持ち人は、倭奈良組舎弟の水谷奈良太郎だった。田岡一雄は、柳川次郎と石井一郎を直参とした。

元々大阪を地盤にしていた柳川組は、大阪に進出してきた他の山口組系列化の団体と紛争を起こした。山口組は各組の利害を調整するために南道会藤村唯夫会長(後の三代目山口組七人衆)を、大阪地区の総責任者としたが、柳川組の膨張は止まらなかった。地道行雄は、柳川組を他府県に進出させることを提案し、田岡一雄が最終的に了承した。

昭和36年(1961年)、山陰柳川組が鳥取県鳥取市に進出した。鳥取市の菅原組・松山芳太郎組長は、田岡一雄に対抗するために、本多会若頭平田勝市から盃を貰い、菅原組を平田会鳥取支部と改称した。

同年10月4日、山陰柳川組組員3人が、山陰本線鳥取発米子行きの夜行列車内で、松山芳太郎を、日本刀で刺殺した。田岡一雄は、地道行雄の推薦を受け、柳川甲録と小塚斉を若衆とした。その後、柳川甲録と小塚斉を、山口県から京都府までの日本海側の地区の責任者に任命した。

同年12月13日、地道行雄が田岡一雄に推挙していた竹中正久が、田岡一雄から盃をもらい、直参となった。細田組細田利光組長(後の若頭補佐・細田利明の父)、小野組小野新次組長、中村組中村憲逸組長、前本組前本重作組長らの山口組直参や、湊芳治らの田岡一雄の舎弟が見届け人となった。その後、竹中正久は神戸市三宮の「神戸観光ホテル」で行われた山口組「御事始(事始)」に出席した。

昭和37年(1962年)1月16日、夜桜銀次事件が勃発した。
詳細は 夜桜銀次事件 を参照

昭和37年(1962年)1月、柳川組は京都に進出した。しかし、中島会図越利一会長(後の三代目会津小鉄会会長)は、武力で柳川組に対抗すると同時に、本多会本多仁介会長を通じて、山口組に働きかけてきた。これにより、柳川組は京都進出を中止した。

同年8月、田岡一雄は、広島打越会打越信夫会長を舎弟とした。これにより、山口組は第二次広島抗争に介入することになった。
詳細は 広島抗争#第二次広島抗争 を参照
同年12月14日、岐阜抗争が勃発した[4]
詳細は 岐阜抗争 を参照

昭和38年(1963年)、国鉄三宮駅前に、地下街「さんちかタウン」が建設されることが決まった。山本健一(後の三代目山口組若頭)が、さんちかタウンの工事の用心棒を請け負うことになった。まもなく、山本健一が逮捕され、収監された。吉川勇次と地道行雄が、さんちかタウンの用心棒を、山口組直轄で行うようにした。地道行雄は、田岡一雄の舎弟・岡精義(後の山口組七人衆)を通じて、さんちかタウンの建設を請け負った建設会社から、用心棒代を出させた。

柳川次郎は、昭和34年に起こした債権取立てに絡んだ恐喝容疑の裁判で、懲役1年が確定し、昭和38年(1963年)3月1日から、大阪刑務所に服役した。地道行雄は三代目山口組若中清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)を柳川組の目付役とした。

昭和38年(1963年)1月15日、地道行雄は、岡山県児島市の初代熊本組熊本親組長に舎弟盃を与え、地道行雄の舎弟とした[5]

同年3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海錦政会(会長は稲川聖城)、東京松葉会(会長は藤田卯一郎)の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。

谷川康太郎(後の柳川組二代目組長。本名は康東華)は、大垣市西原組を作り、韓吉洙を組長に据えた。

昭和38年(1963年)3月13日午後10時30分ごろ、大垣市高島町のバー「夕暮」で、柳川組西原組組員と本多会系河合組組員と喧嘩になった。

同年3月14日午前0時30分、河合組組員と河合組の友誼団体木原組組員17人が、西原組組員10人の宿泊先だった大垣市高橋町の旅館「みその」を襲撃した。1人が死亡した。本多会若頭平田勝市は、自身の平田会を率いて、大垣市に入った。山口組は地道行雄を大垣市に派遣した。山口組は本多会を破ったが、岐阜は地道組の直轄となった。

同年5月、北九州市若松区梶原組(組長は梶原国弘)、安藤組(組長は安藤春男)を傘下に収めた。

同年6月、熊本市西川組西川敏郎組長(後に堅気に戻り、警備会社を起業した)と佐世保市谷山組谷山政男組長を舎弟とした。

同年7月、北九州の長畠組(組長は長畠広)を傘下に収めた。

その後、梶原国弘は、地道行雄を通して田岡一雄に、北九州市での力道山プロレス興行実施を依頼した。日本プロレス協会副会長だった田岡一雄は、すぐに了承した。これを知った工藤組(後の工藤會。組長は工藤玄治草野組草野高明組長は、梶原国弘に対抗して、北九州市で北原謙二の公演を開催することを決めた。これを切っ掛けに、紫川事件が勃発した。
詳細は 紫川事件 を参照

同年8月、田岡一雄は、協議機関「七人衆」を設置した。地道行雄、松本一美、藤村唯夫、松本国松安原武夫、岡精義、三木好美が七人衆になった。

同年12月13日[6]、田岡一雄は、山口組「御事始」(または、「正月事始」。通称「事始め」)の席で、若頭補佐を新設した。吉川勇次、山本健一、菅谷政雄、梶原清晴(後の三代目山口組若頭)が若頭補佐に任命された。

柳川次郎は、昭和32年4月大阪駅で起こしたプー屋恐喝事件、昭和33年2月10日に起こした鬼頭組との乱闘事件、他2件の併合審理事件を上告していたが、昭和39年(1964年)1月16日に棄却されることが確実となり、懲役7年の刑が決定的となった。上告棄却2日前の1月14日、柳川次郎は獄中で引退声明を出し、それを引き換えに仮出所を許された。同年2月、柳川次郎は、柳川組組員たちから、豊中市の300坪の家[7]をプレゼントされたが、受け取らず、「レストラン・サンマテオ」とし、梅本昌男に経営させた。

昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。

同年2月、警察庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。

同年3月5日、柳川次郎は大阪市北区中之島の回生病院に入院した。柳川次郎は長期の服役を余儀なくされたので、組の跡目を決定する必要に迫られた。柳川次郎は谷川康太郎を考えた。この案に、野沢義太郎(後の五代目山口組舎弟)、加藤武義(本名は蘇武源)、金田三俊(四代目山口組舎弟)らが難色を示した。地道行雄は柳川組二代目に清水光重を推薦した。このため、柳川組幹部一同は、谷川康太郎を柳川組二代目に推挙することでまとまった。初代柳川組組長・柳川次郎の舎弟、若中をそのまま二代目組長・谷川康太郎が引き継ぐこととなった[8]

同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会(会長は磧上義光)、東京・日本国粋会(会長は森田政治)、東京・東声会(会長は町井久之、本名は鄭建永)、川崎日本義人党(党首は高橋義人)、東京・北星会(会長は岡村吾一)だった。

同年3月、地道行雄は、名古屋市の「春日荘別館」で、日本国粋会森田政治会長と五分の兄弟を交わした。

同年6月7日、第1次松山抗争が勃発した。地道行雄は、矢嶋長次の義父である森川組森川鹿次組長に、「矢嶋長次が戻って来るまで、今治に直系組長3人を常駐させ、留守を預からせたい。弁護士費用や差し入れ代も全て山口組が負担する」と提案した。森川鹿次はこの提案を丁重に断った。結局、矢嶋長次不在の間は、森川鹿次が今治市を守っていくことになった。
詳細は 第1次松山抗争 を参照

同年7月10日、福岡市旧柳町の料亭「新三浦」で、地道行雄と谷川康太郎の兄弟が行われた。谷川康太郎は、地道行雄の舎弟となった。

同年、山口組に対する第一次頂上作戦が開始された。これにより、地道は警察に逮捕された。
詳細は 第一次頂上作戦#山口組に対する第1次頂上作戦 を参照

昭和43年(1968年)2月7日、田岡一雄は、地道行雄を若頭から解任した。

昭和44年(1969年)4月27日、地道行雄が、自宅で吐血した。地道行雄の妻は、110番通報で、パトカーを地道邸に呼んだ。地道行雄は、パトカーで病院に搬送されたが、5つの病院が診療を拒否した。地道行雄の妻は、田岡一雄の妻・フミ子に電話をし「関西労災病院に地道を受け入れてくれるようにして欲しい」と頼んだ。地道行雄は、関西労災病院に入院した。地道行雄は末期肺癌だった。

同年5月15日、地道行雄は、関西労災病院で、死亡した。享年47。

エピソード・人物[編集]

  • 地道行雄の死後、地道組に2代目は立てられず名跡は絶たれたが、地道組若頭の佐々木組佐々木道雄佐々木将城とも名乗った)組長が三代目山口組の直参に昇格した[9]。佐々木道雄は後に一和会に合流、幹事長に就任している。

脚注[編集]

  1. 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.289
  2. 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では、「昭和21年(1946年)10月13日に田岡一雄の山口組三代目襲名式が行われた」としているが、溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では、「山口組三代目襲名式が行われたのは、昭和21年8月」としている。また、実話時代編集部『山口組三代目 制覇の野望』 大和書房〈だいわ文庫〉、2007年では「山口組三代目襲名式が行われたのは、昭和21年6月」としている
  3. 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「山口組三代目襲名式が行われた場所は、食堂『ハナヤ食堂』」としているがでは、溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では「山口組三代目襲名式が行われたのは、神戸市須磨の割烹料亭『延命軒』」となっている
  4. 出典は、大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房<だいわ文庫>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4のP.234
  5. 出典は、溝口敦笠井和弘ももなり高『実録・山口組抗争史 血と抗争!菱の男たち 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6094-8のP.205
  6. 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.70や溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4のP.165では、「昭和38年(1963年)に若頭補佐が新設された」ことが明記されているが、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.113には「彼は昭和三十一年に田岡の舎弟となり、三十二年には若頭補佐の要職についているが、その時点で子分を持っていなかった」と記述(つまり、昭和32年の段階で若頭補佐のポストが既に存在していたことになる)されている
  7. 総工費1億円。2年5ヶ月で完成した
  8. 通常だと、組長が引退した場合、その舎弟もみんな引退する。若中は舎弟となり、新組長の直属だった若中は、そのまま組の若中となる
  9. 出典は、溝口敦笠井和弘ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6086-7

地道行雄関連の書籍[編集]


地道行雄関連の映画・オリジナルビデオ[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

  • アウトロー 極道・人物アウトローズ