出羽ヶ嶽文治郎

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出羽ヶ嶽 文治郎(でわがたけ ぶんじろう、1902年(明治35年)12月20日 - 1950年(昭和25年) 6月9日)は大相撲力士。最高位は関脇1902年(明治35年)12月20日山形県上山市に生まれる。本名佐藤文治郎、後に斎藤に改姓。生年は1901年(明治34年)説もある。


来歴・人物[編集]

子供の頃から大きく奉公へ出そうにもその大きさで断わられ続けて、青山脳病院の斎藤紀一(斎藤茂吉の養父でのちの継父)に面倒を見てもらっていた。世間や斎藤家の関係者も、彼は紀一の養子であると思っていたが、戸籍上は紀一と同郷の斎藤某の養子であった[1]

青山学院中等科に入学した時は既に身長182cm、体重100kgに達し、元横綱常陸山出羽海が入門を勧める。本人は医者志望だったので断わったが最後には折れて入門。この時、身長198cm、体重140kgの巨大漢であった。

大正6年5月初土俵。四股名は最初から出羽ヶ嶽。大正14年1月新入幕、5月には優勝同点の9勝2敗、大正15年1月には関脇。その後三役に定着した。若い頃は栃木山による指導が功を奏し、さらにより大きくなった体格(207cm、203kg)を活かした小手投げ鯖折りが強く(ただし腕力そのものは非力であったが)これで負傷者が続出したので相手からは恐れられた。これを強烈に印象づける取組として、大正15年5月、大関太刀光電右エ門との相撲で、太刀光は出羽ヶ嶽の鯖折りで右脚を負傷。この怪我が原因で大関から陥落、以後再起できなかった。昭和3年から昭和4年にかけて左右の脚を相次いで負傷、平幕に下がる。昭和7年春秋園事件で脱退するが1人だけ髷を残した。同年5月には番付外幕尻格で帰参。

三役に定着していた時代には大関や横綱を期待されていたが、栃木山の引退で稽古を付けてくれる人がいなくなり、さらに脊髄カリエスを患い急降下。三段目まで下がったこともあり年齢も体重も約半分の力士たちに苦戦していた。斎藤茂吉は「番付も下りくだりてよわくなりし出羽ヶ嶽見に来て黙しけり」と詠んでいる。昭和14年5月幕下10枚目、これを最後に引退、年寄田子ノ浦を襲名した。

相撲は不器用だったが手先は器用で小鳥の飼育、マージャン、ビリヤード、釣、カメラなどの多彩な趣味の持主だった。ビリヤードは師匠譲りか。晩年は焼鳥屋を開いていたが、その店を友人と訪れた半藤一利は、出羽ヶ嶽が暇な時に読むとおぼしい岩波文庫を発見し「文ちゃんは巨体に似合わぬ知性派ではないか」と友人と語り合ったという。

「文ちゃん」「鯖折文ちゃん[2]」などの異名で人気があり、斎藤茂吉らの作品にも登場している。戦後、GHQに接収、「メモリアルホール」と改名された旧国技館では、下駄での入場は禁止されたが、ただひとりこれを許された。貸し出し用のスリッパでサイズの合うものが無かったからだという。

富岡八幡宮の「巨人力士身長碑」に昭和の力士としては唯一人名を残す。が登場してきたとき、同碑に名を刻むことが検討されたが、公称身長が出羽ヶ嶽より1センチ低かったために実現しなかった。

土俵から四本柱をなくして現在のような吊り屋根にした時、柱のかわりとなる房の高さは7尺とされたが、当時は「出羽ヶ嶽の髷がひっかからないようにしたのだ」ともてはやされた。現在でもこの裏話は好角家の間でよく知られ、半実話化している。ただし、吊り屋根になった当時の現役力士には出羽ヶ嶽より背の高い不動岩三男がおり、おそらく実際には不動岩の髷がひっかからないように設定されたものと思われる。

なお、茂吉の長男である精神科医斎藤茂太の随筆などによると、出羽ヶ嶽の晩年は寂しかったとあり、亡くなった際に遺体は解剖され、頭骨は東大病院に標本として保管されている。

主な成績[編集]

  • 幕内在位 31場所(関脇2場所、小結8場所)
  • 幕内通算成績 150勝138敗53休、勝率.521

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 北杜夫『北杜夫による北杜夫』P.13
  2. 色川武大の著書『怪しい来客簿』には「サバ折り文ちゃん」の見出しで出羽ヶ嶽文治郎についての記述がある。