ハンニバル

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ハンニバル・バルカHannibal Barca紀元前247年 - 紀元前183年)はカルタゴの高名な将軍である。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」ないし「バアルの愛する者」を意味し、バルカとは「雷光」と言う意味である。

歴史上で彼は第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、ローマ史上最大の敵として後世まで伝えられた。また現在でも、彼は歴史上で最も偉大な戦術家の一人として高く評価されている。

少年期[編集]

第一次ポエニ戦争シチリアローマに奪われると、父・ハミルカルは当時未開であったイベリア半島の植民地化政策に乗り出す。そして「カルタゴ・ノヴァ」を建設、イベリア人諸部族をまとめて軍隊を養成した。ティトゥス・リウィウスによると、ハンニバルが父に同行を願い出た際に父はハンニバルをバアル神の神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵とする事を誓うよう言ったと言う。そしてハミルカルの死後、ハミルカルの娘婿であり、ハンニバルにとっては義理の兄にあたるハスドルバルのもとで少年期を過ごす。

ハンニバル戦争[編集]

紀元前221年にハスドルバルが暗殺されるとハンニバルは軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島の指揮を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマとエブロ川を境界に相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市ザグントゥムと同盟関係を結び彼の侵出を阻止しようとする。しかし彼はザグントゥムを包囲攻撃、8ヶ月後に陥落させる。これにローマはカルタゴ政府にハンニバルの行動を条約違反とし彼に対しての懲罰を要求、しかしカルタゴ政府はハンニバルの絶対的な人気を前にして、彼に対して何も手を打たなかった。

そして紀元前218年に彼は5万の兵と37頭のを連れ、途中で遭遇するガリア人を懐柔あるいは服従させつつピレネー山脈を越える。そして制圧した彼等を配下に加えつつ西進、ローマが彼の進路に気付くまでにはすでにローヌ川付近にまで近付いていた。ローマ軍に発見されるも彼等の目から姿をくらましアルプス山脈を越えた。この時のルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている。そしてイタリアへ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争:紀元前218年~紀元前201年)の始まりであった。

トレビアの戦い[編集]

詳細は トレビアの戦い を参照

ローマではハンニバルの攻撃は予測できていたがまさかアルプス山脈から侵攻するとは思ってはおらず、イベリア半島での戦闘準備を行っていた。執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは直ちにハンニバルの動きを阻止すべくローマ軍を出動させる。しかしティキヌスの戦いでハンニバルに撃破され、スキピオ本人も負傷する。ローマ軍の敗北を見るや、周辺のガリア人部族はハンニバルと結託、続いてトレビアの戦いでもう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスを敗る。

トラシメヌス湖畔の戦い[編集]

詳細は トラシメヌス湖畔の戦い を参照

この戦いによって北イタリアの勢力基盤を築きあげると、ハンニバルはさらに勢力を拡大すべく紀元前217年の春に南下を進め、エトルリアに侵入する。一方ローマではハンニバルの侵攻に対して新たな執政官グナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスが再び彼の進路を阻もうとするが、トラシメヌス湖畔の戦いで敗北、執政官セルウィリウスとフラミニウスは戦死した。ハンニバルはここで部下からローマに直進するよう進言されるが、攻城機と十分な兵糧がない事を理由に退ける。それに対して部下は「あなたは勝利を得る事ができるが、それを活用する事は知らない」と言ったと言う。ローマの同盟都市が離反するように促すためにハンニバルは南イタリアへ向かった。

ここに至ってローマは非常事態宣言を発令し、ファビウス・マクシムス独裁官に任命する。ファビウスはハンニバルと対峙するも戦わない戦術を展開、その後もハンニバルはアプーリア(現在のプーリア)を荒し回りカンパニアへ進軍、ファビウスはハンニバルに接近するも彼が戦いの火蓋を切ろうとすると退くことを繰り返す。この戦法にローマ人の間でも不平不満が続出するが、後にファビウスの戦術はハンニバルの行動を徐々に狭めていく事になる。

カンナエの戦い[編集]

詳細は カンナエの戦い を参照

紀元前216年になって執政官にガイウス・テレンティウス・ウァロルキウス・アエミリウス・パウルスが当選。その中でもファビウスの戦術に不満を持つウァッロはハンニバルに対して果敢に立ち向かっていく。彼はローマ軍を増強、同盟都市からも兵を募り、ハンニバルのいるアプーリアへ南進。しかしハンニバルはウァッロの性急さを逆手に取り、カンナエの戦いで完膚なきまでにローマ軍を叩き潰す。50,000から70,000人のローマ兵士が戦死ないし捕虜になった。執政官パウルスは戦死、次期執政官に内定していた者2名も戦死、2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムも戦死、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという過去に例がないほどの完敗を喫した。これ以降ローマはハンニバルに対しては消極的な戦法に徹する事になる。

しかしながらハンニバルは戦略上首都ローマに進軍せずにローマ同盟都市の離反を図り紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥム離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それら極一部を除いて目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。その中でシラクサヒエロニモスと同盟、カルタゴ本国に補給を要求するも、カルタゴ政府はこの戦争に対して、はじめは日和見の立場を取り、制海権をローマに握られているせいもあってハンニバルは本国との連携や補給をうまく取ることが出来なかった。現在の戦術議論においても、カルタゴからの物資援助があればハンニバルはローマを直接攻撃できたのではないかと指摘されている。

ローマ側の反撃、スキピオ登場[編集]

その間にローマは戦術を転換する。ファビウスの戦術が効果を発揮し、ハンニバルの行動はカンパニア領内に封じ込められるようになってきた。しかし紀元前215年にハンニバルはアンティゴノス朝マケドニアフィリッポス5世とも同盟を結び、ローマを外から内から圧迫してゆく。

しかしローマはハンニバルを国内に抱え込みつつ国外の敵対勢力を撃破していく。紀元前211年に大スキピオによってハンニバルの本拠地であるイベリア半島を攻略、そしてギリシアのアエトリア同盟とも結託、東方マケドニアのフィリッポス5世の押さえとする。

対するハンニバルは紀元前210年アプリアに進撃するが、同年タレントゥムを失ってしまう。また紀元前208年にはロクリを攻略するローマ軍を蹴散らし、執政官マルッケルスを戦死させるものの、やはりタレントゥムの損失は大きく補給のおぼつかない彼の行動地域は制限を受けてしまう。さらにローマがルカニア地方、サムニウム地方を取り戻すと南イタリアでの彼の戦略的な主導権は奪われてしまう。

紀元前207年にハンニバルは再度北上しアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルは途路メタウルスの戦いで戦死してしまう。そしてハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴリグリア攻略失敗、またフィリップ5世との連携失敗など南イタリアでの主導権を回復する術を失う。このようにローマは彼の指揮下にない敵対勢力を小出しに削り取っていった。

ハンニバルがアプリア地方に囲い込まれる最中、ローマではヒスパニアで功績を挙げた大スキピオが攻勢に転じようと試みていた。シチリア島を占拠後彼は志願兵を募りここを拠点にしていたが、カンナエの戦いの失敗から攻勢に転ずるのを自重をする元老院はスキピオに渡航許可を与えなかった。しかし、ようやく元老院の許可(実際は黙認)が出てスキピオはアフリカに渡航する。いきなりハンニバルを無視して現れた敵にカルタゴ政府は驚き、ヌミディア王国のシファクス率いる騎兵を支援に戦うが敗北してしまう。

この敗戦に狼狽したカルタゴ政府は態度を一転しローマとの休戦交渉とハンニバルの召還の両方を画策、一見休戦交渉は成立するか見えたが、ハンニバル召還の連絡によって休戦交渉は突如反故、カルタゴ政府は外交上致命的な失敗を犯してしまう。

ともあれ紀元前203年ハンニバルは十数年ぶりに故国カルタゴに戻ってくる事となった。

この時彼が引き連れてきた兵士とはどこの兵士だったのかというのは現代の歴史家でも異論がある。ハンニバルを擁護する者はイベリア半島からの歴戦の兵士たちはほとんど長い戦役で絶えてしまい、南イタリアで現地採用したイタリア人を連れて来ざるを得なかったと言い、スキピオ贔屓の者はイタリアでの戦役での損失は主に現地採用兵であったので彼は自らの精鋭部隊をアフリカへ連れてくる事ができたと言っている。

ザマの戦い[編集]

詳細は ザマの戦い を参照

戦いの前に至って敵将スキピオはヌミディア王国のマッシニッサを配下に加えており、先の会戦でシファクスを追撃、王位から引き摺り下ろしマッシニッサをヌミディア王にさせていた。こうして今まで重要な騎兵兵力をヌミディアに依存していたカルタゴは利用できる騎兵は大幅に限られるようになってしまった。またハンニバル自身も十数年にわたる敵地での支援なき戦いの日々で疲れが隠せないでいた。

しかしこのような制限の中でハンニバルはスキピオに直接交渉の打診、こうして紀元前202年10月19日、相対する布陣を前にしてハンニバルはスキピオと直接出会った。

スキピオと会ってハンニバルは休戦交渉すなわちローマとカルタゴは相互不可侵とし、地中海を境に北をローマ領として認め、南をカルタゴ領とするという提案をする。しかしスキピオはこのたびの戦争はハンニバルのザグントゥム侵略が元凶だと指摘、ローマ人はカルタゴ人を信用できないと拒否する。個人的には互いの才能を高く評価していたふ人であったが、交渉は決裂した。

ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いとは変わり、歩兵ではカルタゴ有利なものの騎兵ではローマ軍に劣っていた。この劣勢を覆すためにハンニバルは先頭に軍象を配備した。しかしローマの歩兵は迅速な行動が可能な歩兵中隊、散在した軽装歩兵で軍象は無力化、大集団の密集した重装歩兵を基本とするカルタゴは勝る縦横無尽に動き回る騎兵戦力に対応できず、また前面から押しつぶす歩兵勢力に包囲され、ハンニバルは生涯で唯一の敗北を喫してしまった。この敗北でカルタゴの地中海での優位性は完全に失われた。第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。

戦後[編集]

カルタゴ再建[編集]

第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマの同盟国となりローマから膨大な賠償金を課せられ、カルタゴの前途も危ぶまれていた。今まで政治を牛耳っていたカルタゴの貴族たちが権勢を失い、これがハンニバルの返り咲きを許した。彼は先頭に立って経済建て直しをはかる。

まずハンニバルは政治家として行政の長であるスッフェトに選ばれ、この改革の筆頭として陣頭指揮を取る。まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェト自身の権限を回復、自分に権限を集中させ、カルタゴの行政母体である104人委員会の改革に着手、直接選挙による議員の任命へと改革する。また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと変更した。

ハンニバルの最期[編集]

ハンニバルの行政改革は効果があった。彼は財政再建の為に経費節減による行政改革を徹底させて賠償金返済を完遂し、武将としてだけでなく政治家としても一級の技量の持ち主であった事を証明する。続いてハンニバルは国力回復を目指すが、不可能と思われた賠償金の返済をやり遂げた事が、逆に大カトーを始めとするローマの反カルタゴ派の危機感を募らせる事にも繋がる。また、ハンニバルの改革は効果的ではあったのだが同時にかなり強引でもあり、カルタゴ国内に於いて反ハンニバル派の台頭を許してしまう。反ハンニバル派は彼が「シリアと内通している」とローマへ訴える。ローマは事実関係を究明するために調査団の派遣を決定したが、身の危険を感じたハンニバルはカルタゴを脱出し、セレウコス朝シリアアンティオコス3世の許へ走る。実際に内通していたかどうかは不明だが、当のシリアに逃れた事実から、実際に内通があった可能性も否定できない。

ハンニバルはシリア軍を率いてローマと対峙するが結局は敗北、ハンニバルは逃亡し、クレタ島、そして黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命、その後服毒自殺した。偶然にも彼の好敵手・スキピオも同年元老院の弾劾の末ローマを離れ寂しく没している。ともに国のために心身を尽くしながらも国に裏切られた末の死であった。

死後の評価、エピソード等[編集]

ローマ人の評価[編集]

ハンニバルはローマ史上最大の敵としてローマ人の記憶に残った。ハンニバルにまつわる記述のほとんどは後世のローマ人によるものであるため、当然ながらローマの敵として彼の能力は高く評価されつつも人間らしくない恐るべき人間として書かれている。一貫して決まりきった言い方では彼は残虐きわまりなかったとされており、その記述はティトゥス・リウィウス、またはキケロでさえもそのように述べている。しかしながら別の記述には、彼はトラシメヌス湖畔の戦いの後に死屍累々とした戦場で戦死した執政官フラミニウスの遺体を探し出し、パウルスを丁重に葬り、戦いに敗れたマルケルスの位牌をローマの遺族のもとに送ったと言われている。

後世のローマ人は彼をローマに立ち向かった偉大な敵として認識していたようで、このカルタゴ人の像を街の中心地に建立していたりもしていた。

エピソード[編集]

ザマの戦いから数年後、エフェソスに亡命していたハンニバルは使節として同地を訪れたスキピオと再会し、しばし言葉を交わしたというエピソードがティトゥス・リウィウスによって伝えられている。スキピオが史上もっとも偉大な指揮官は誰かと問いかけると、ハンニバルは「第1にアレクサンドロス大王、第2にエペイロスのピュロス、そして第3に自分だ」と答えた。スキピオがザマの戦いで自分を破っていたらと問い重ねると、「アレクサンドロスを越えてわたしが史上第一の指揮官になっていた」と率直に答えたという。

実際、スキピオはハンニバルを破っているもののその戦法(騎兵の後方機動による包囲殲滅)はハンニバルの模倣であり、ハンニバルのほうがスキピオよりも優れた戦術家である事は、両者ともに認めていたと思われる。

このエピソードはリウィウスの伝える話である以上真実性を疑う声も多い。

もっとも、ハンニバルの用いた包囲殲滅戦法は現代の陸軍士官学校でも必ず教材として使われる程に完成度の高いものであり、ハンニバルが戦術を研究する際にピュロスやアレクサンドロス大王を参考にしていたとしても、現代においては彼らに対する戦術家としての評価はすでに逆転していると言える。

余談[編集]

ラテン語に「戸口にハンニバル(Hannibal erat ad portas.)=危険が迫っている!」という格言がある。これが転じてイタリアでは今でも子供が悪い事をすると『ハンニバルが来てあなたを連れて行っちゃうよ!』と言う事があり、未だに恐怖の代名詞として使われていることが伺われる。しかし、反対にローマ人に圧制されてきた国はカルタゴに関係なくハンニバルを英雄とたたえている場合がある。

関連作品[編集]

参考文献[編集]

  • ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて 長谷川 博隆著 講談社学術文庫 ISBN:4-06-159720-5
  • ローマ人の歴史「ハンニバル戦記」  塩野 七生 ポリュビオス:『歴史1』
  • モムゼン ローマ歴史 モムゼン(長谷川博隆訳)
  • ポリュビオス『歴史1』2004年 京都大学学術出版会
  • 松谷健二『カルタゴ興亡史 ある国家の一生』1999年 白水社
  • ベルナール・コンベ=ファルヌー(石川勝二訳)『ポエニ戦争』
  • マドレーヌ・ウルス=ミエダン(高田邦彦訳)『カルタゴ』1999年 白水社  
  • 岡道男・中務哲郎 監修 ネポス著『叢書アレクサンドリア図書館第三巻 英雄伝』1995年 国文社
  • アラン・ロイド(木本彰子訳)『カルタゴ 古代貿易大国の滅亡』河出書房新社 1992年 
  • 森本 哲郎、ムハンマド・ファンタール、登 誠一郎特別座談会「カルタゴの興亡と現代日本」正論 1998年 

ゲーム[編集]

  • Avalon Hill社 ハンニバル(ROME vs.CARTHAGE)

外部リンク[編集]

ゲーム[編集]

  • 電脳PiCARO- ゲーム Avalon Hill社 ハンニバル(ROME vs.CARTHAGE)について

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