ソ連崩壊

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ソ連崩壊(ソれんほうかい、Распад СССР)とは、1991年12月25日ソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され崩壊した事件である。

概説[編集]

1917年11月7日ロシア革命によって成立したソビエト連邦は、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国に伍する超大国として君臨したが、74年後の1991年限りで崩壊した。

(1)ソビエト連邦がCISに取って代わられ、その国家格を失った。

(2)冷戦東側諸国の総本山として君臨したソビエト連邦共産党によるソ連型社会主義(軍事霸権主義・一党独裁制基本的人権すら侵す国家統制主義)国家が崩壊したことにより、世界を二分した冷戦が名実共に終わった。

という、二つの文脈において重要な出来事である。ソビエト連邦という超大国の死滅は、世界中に衝撃を与えた。

前史[編集]

1953年ソビエト連邦共産党の党第一書記に就任し、1956年2月、共産党第20回党大会にてスターリン批判を行ったニキータ・フルシチョフは、社会主義の範囲での自由化・民主化を推めようとした。しかし党官僚の抵抗に遭い、1964年に失脚。後を継いだ党官僚出身のレオニード・ブレジネフの時代は、退歩がない代わりに進歩もない停滞の時代と呼ばれ、党官僚の特権化や物資不足・冷戦の激化ばかりが進んだ。

ペレストロイカと東欧革命[編集]

1982年にブレジネフが死去した後のソ連は、ユーリ・アンドロポフコンスタンティン・チェルネンコと短命政権が続く。

1985年3月、ソ連共産党書記長に選出されたゴルバチョフは、フルシチョフの失脚以来封印されていたソ連型社会主義の範囲での自由化・民主化に再着手した(ペレストロイカ)。それまで秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会テレビジョンカメラを入れ、会議の模様を全国中継するなど、情報公開(グラスノスチ)も推進した。しかし、1986年4月に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故を、西側に指摘されるまで官僚が隠蔽するなど、改革の不充分さも露呈した。この後、ペレストロイカは速度を上げることとなった。

ゴルバチョフによるペレストロイカは外交面でも2つの新機軸を打ち出した。一つが冷戦による緊張を緩和する新思考外交、そしてもう一つが東ヨーロッパ衛星国に対してのソ連及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。緊張の緩和については、1986年ソ連軍アフガニスタンからの撤退を表明。翌年1987年には当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンとの直接会談(レイキャヴィーク会談)を実現させた。この会談では当時アメリカが進めていたSDI計画を巡ってレーガンと対立したが、当時の超大国同士が話し合いによって歩み寄りの姿勢を示すことが世界に対して示された意義は大きい。

シナトラ・ドクトリンに関してはゴルバチョフ就任当初から各国共産党に対して内々に示されていたが、1988年新ベオグラード宣言の中でこれを明文化し、世界中に対してソ連が東欧諸国に対する指導制を放棄したことを表明した。こうしたソ連の変化に対していち早く対応したのがハンガリーポーランドで、この2ヶ国はいち早く民主化運動に乗り出し、1989年6月にはポーランドで一党独裁政体が崩壊した。そして、1989年8月にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックは、同年11月にベルリンの壁を破壊した

ポーランドで一党独裁政体が崩壊し、ベルリンの壁が崩壊すると、東欧各国の共産党政権は次々と下野し、自由選挙による新政権が成立した。これら一連の東欧民主化に対しても、ゴルバチョフは早急な東西ドイツ統一と、それに伴うNATOの拡大を警戒したのみで、ハンガリー動乱チェコ事件の時のように、武力による民主化運動の鎮圧という立場を取らなかった。これは、中華人民共和国で1989年に発生した天安門事件が国際的な非難を浴びたことから、西側諸国からの非難と外圧を恐れて、強硬な措置を取れなかったと考えられる。

断末魔から崩壊へ[編集]

東欧民主化革命は、ソ連に対しても連邦制の動揺という形で跳ね返って来た。エストニアラトビアリトアニアバルト三国の独立要求である。こうした連邦内の動揺に対して、ゴルバチョフはソ連の国内改革によって事態を収拾しようと試み、1990年連邦に対しての強大な権力を与えた大統領ポストを創設し、自らソビエト連邦初代大統領(結果的に最初で最後の大統領)に就任した。

バルト三国の独立については、東欧諸国とは違いソ連軍を投入し武力で鎮圧する立場を取った。同時にゴルバチョフがこれらの国に入って市民と対話しようと試みるも、ソ連軍の介入によって逆に独立感情が高揚。結局リトアニアが1991年3月、エストニアとラトビアは8月に独立宣言を行い、従来の15共和国による連邦体制は崩壊した。なお、エストニアでは実際には独立宣言ではなく「独立確認」という形式がとられた。これに関して、「エストニア議会の理解では、50年に及ぶソ連による占領にも関わらずエストニア国家は法的に『存続』したのであり、改めて『独立』宣言することの矛盾が容認できなかった」ためとする説がある[1]

1991年8月19日、守旧派の党官僚によるソ連8月クーデターの失敗は、ソビエト連邦とソビエト連邦共産党の崩壊を決定的にした。クリミアでの軟禁を解かれたゴルバチョフは、直ちにソ連共産党の活動停止を指示した。こうして、1898年に設立され、世界最初の共産主義政権を打ち立て、全世界の共産主義政党をリードしたソ連共産党は、終に廃止された。ゴルバチョフの求心力は決定的に失墜し、代わって反クーデター運動をリードしたボリス・エリツィンが、新生ロシアのリーダーとしてその存在感を大きなものにしつつあった。又、ウクライナもソ連からの離脱を国民投票で決めており、12月8日に急遽行われたロシア、白ロシア、ウクライナの代表者による秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言され、3ヶ国のソ連からの離脱とEUと同レベルの国家の共同体の創設が確認された。その後の12月、ロシア共和国を初めとした12共和国によって、ソ連に変わる新しい枠組みとしてCISが設立されたことで、ソ連はその存在意義を完全に喪失した。こうした中で12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領の辞任を決意し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていた赤旗ソビエト連邦の国旗)も降ろされた。こうして、ソビエト連邦は崩壊した。ソビエト連邦が崩壊すると、その直後に、モスクワでは市民によってレーニン像が次々と破壊されていった。これはソビエト連邦崩壊を象徴する場面の一つとなっている。

影響[編集]

かつてソビエト連邦は「労働者の祖国」と呼ばれたが、実態は正反対であり、労働者は元より国民の自由や民主主義が抑圧された政治体制であった。ソビエト連邦が崩壊すると、それまでクレムリンやソビエト連邦共産党から資金援助されて来た世界各国の共産主義政党は、大混乱に陥った。この混乱から無縁であった共産党は、元からソ連の干渉・覇権主義とは徹底して対決してきた日本共産党のみであった。日本共産党は、「歴史的巨悪だったソ連共産党の解体を両手を挙げて歓迎する」という声明を出した。日本国内において東側の立場を代辯していた日本社会党は大きく衰退した。フランス共産党とイタリア共産党などの、西ヨーロッパの共産党は、次々に社会民主主義政党に転換した。又、西側の社会民主主義政党は、「第三の道」と呼ばれる中道リベラリズムに近い方向へ路線転換を図って行った。東欧革命を反スターリン主義革命に転化できなかった日本の新左翼は、敗北と言われた。ソ連のスターリン主義を主要打撃対象としていた日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(通称、革マル派)は、「世界史的大逆流」と解釈不能に陥った。新右翼活動家の野村秋介は、闘争目標を失ったとして朝日新聞社社長室で拳銃自殺した。

アメリカ合衆国と唯一互角に戦えると思われていた二大超大国の一つであるソビエト連邦の崩壊によって、アメリカ合衆国は事実上唯一の超大国となり、「一極支配」と呼ばれる時代が始まった。

1967年10月25日付のソ連共産党中央委員会国際部のウリヤノフスキー副部長が署名した中央委員会あての報告書によると「日本社会党指導部がソ連共産党指導部に対し日本社会党に経済援助を与えるよう要請してきた。このことの具体化を図るため日本社会党の当時の財務委員長の原茂らがモスクワを訪れた。彼らによれば日本社会党が陥っている財政危機(負債8億円)について語られた」。その後の細かいやりとりも経てソ連共産党国際部が出した結論は「日本社会党が果たしている日ソ関係での重要な役割を考慮してこの計画(資金援助)に全面的な援助を与える」というものだった。あからさまな内政干渉であるためさすがに実際には国際公党間の直接の資金援助(収受)はできないと考えた双方はソ連外国貿易省と日本社会党と結びついた貿易商社を使っていわば「裏ルート」で秘密裏に資金の援助(収受)を行った。ソ連共産党が日本国内における「親ソ連派」との強化連携を図るうえで日本社会党との利害関係が一致していた。その翌年に起きたソ連のチェコスロバキアへの侵略行為にたいして、日本社会党が全面的にソ連擁護の論陣を張った。こうした事実もクレムリンの秘密文書が明るみにでてすべて明白になった。

その後の旧ソ連[編集]

ソビエト連邦は全体主義国家とも呼ばれたが、崩壊後は、国民からソ連時代を懐かしむ声が上がったと言われている。最終的には破綻したものの、宇宙開発軍事面においてアメリカに伍する超大国に成長していた「偉大で強い祖国」だったソ連時代は、確かに国民は監視社会で窮屈だったが、一方で社会保障制度も整備され、日常品も質は悪いが安い値段に抑えられるなど、収容所ラーゲリ)で強制労働に従事させられていた政治犯や思想犯を除いた一般の人間にとっては、最低限の生活も保障されていた。

ソ連崩壊後のロシアでは、資本主義の急速な進行により、新興財閥など一部の富裕層以外は厳しい生活を強いられており半ば外国資本にソ連時代の富を強奪されていると不満を感じる国民の間では、急速に愛国主義民族主義が高まりつつある。

1990年代には、始め民族主義政党ロシア自由民主党が大きく議席を伸ばし、その後自由民主党が凋落するとロシア連邦共産党が議席を伸ばし、議会第一党になり、ボリス・エリツィン政権を脅かした。しかし、共産党が政権を奪取することはできなかった。

ウラジーミル・プーチンが政権を握ると、プーチンによる新興財閥解体や愛国主義的政策が国民に広く支持され、全体主義ならびにプーチン政権の与党である統一ロシアによる一党独裁(あるいはプーチンの個人による独裁)への回帰が強まっている。2009年現在、国会に議席を持つ4党のうち、野党と呼べる存在はロシア連邦共産党のみである。ロシア自由民主党は政府に買収されており、公正ロシアは「第二与党」と言われている。

また、2000年代後半になると、豊富な天然資源により経済が好転し、再び超大国としての地位を手に入れつつある。

ソ連崩壊後に出現した政権は、いずれも市場経済化を標榜した。ただし市場経済への移行は一朝一夕には進まず、東欧では1990年代を通して経済状況が進展しなかったことから、モルドバなどにおいて、東欧革命によって一旦は退席した旧共産党系政権が政権の座に復帰する事態もしばしば現れた。

ただし2000年代中頃までの中期的な視野に立って見た場合、ソ連の衛星国だった東欧諸国の市場経済化は概ね達成され、2004年にはスロベニアハンガリーチェコスロバキアポーランドとソビエト連邦構成諸国家のうちバルト三国のリトアニアラトビアエストニア、合わせて東欧7ヶ国がEU加盟を果たした。2007年には、ルーマニアブルガリアもEUに加盟し、かつてのソ連の衛星国はすべてEUの一員となっている。特にスロベニアは既に国民一人当たりのGDPポルトガルギリシャを上回っており、スロベニア系企業の東欧諸国への進出も活発である。

またCIS諸国の中では、ウクライナではソ連型社会主義への回帰をはっきり謳うウクライナ共産党が一定の勢力を維持している一方で、2004年大統領に就任したヴィクトル・ユシチェンコは将来的なEU入りを掲げている。しかし、その後の選挙で親ロシア派政党が政権を執るなど、現在も政治的混乱が続いている。

宗教の復活[編集]

ロシア正教会の復興の詳細についてはロシア正教会内の項目:現況 - ソ連崩壊後から現在参照

ソビエト連邦崩壊による最も顕著な変化の一つとして、宗教の復活も挙げられる。

ソビエト連邦政府は、無神論を掲げて全宗教を弾圧していた。特にロシアで最大の宗教組織であるロシア正教会をはじめとした正教会と、それに次ぐ規模を持つイスラームの被害は大きかった。またウクライナ東方カトリック教会も大きな弾圧に遭っている。ロシア正教会においては、救世主ハリストス大聖堂カザン・クレムリン生神女福音大聖堂など、大規模な記念碑的大聖堂が爆破・破壊されていき、各地の小さな聖堂も破壊されるか世俗的な目的のホールに転用されるかした。ソロヴェツキー諸島のソロヴェツキー修道院は強制収容所に転用されていた。

人的弾圧・被害も甚大なものであり、1921年から1923年にかけて、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、其の他信徒多数が処刑されたとする文献もある[2]日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされたうえで射殺されるという特異な最期を遂げたことで知られている。

こうした弾圧は長きに亘って続いたが、ペレストロイカによってかなり緩和された。ソ連崩壊前の1988年に、ウラジーミル1世988年洗礼を記念する「ロシア正教千年祭」をロシア正教会が大々的なイベントを伴って祝う事が許可されたのはその一環だった。

ソ連崩壊後は弾圧によって衰えた教勢が一気に回復し、ロシア正教会は復興を遂げた。復興したのはロシア正教会・グルジア正教会といった各地の正教会のみならず、イスラームや東方典礼カトリック教会も同様である。救世主ハリストス大聖堂は再建され、またカザン・クレムリンでも正教会の大聖堂とイスラームのモスクも両方再建され、こうした宗教復興を印象付ける光景を現出することとなった。

脚注[編集]

  1. 参考文献:小森宏美橋本伸也『バルト諸国の歴史と現在』(ユーラシア・ブックレット37)p.46。東洋書店、2002年。
  2. 参考図書:高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』教文館、1996年

関連項目[編集]

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