オウム真理教

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オウム真理教

オウム真理教(オウムしんりきょう)は、かつて存在した日本の(新興)宗教団体。「オウム(AUM)」とは、サンスクリットの呪文「」のことである。

1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義信者の一部が引き継がれた。アレフは後にAlephと改称され、また別の宗教団体ひかりの輪が分派した。

松本サリン事件地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(「オウム真理教事件」)を行った。

沿革[編集]

前史[編集]

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全共闘運動の終息後、反日亡国論を掲げる日本の新左翼の一部(太田竜武田崇元など)は、オカルト界にも進出した。彼らは「天皇中心史観」に対抗する理論として日本原住民論を掲げており、「記紀以前の歴史を伝える」とされる古史古伝に兼ねてより関心を持っていた。彼らは左翼の影響を強く受けた「霊的ボルシェヴィキ」なる新機軸を打ち出し、1980年代のオカルトブームを巻き起こすことになった。

そんな最中、後に「オウム真理教」となるヨーガ道場「オウムの会」(その後オウム神仙の会と改称)が1984年に開場された。そしてオカルト雑誌ムー」が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた。この写真は座禅を組んだまま跳躍(膝を使って跳ねる)するというものだったが、これが後に同教団が言う所の「空中浮揚」の原型とされる。

また、雑誌「ムー」1985年11月号に酒井勝軍の予言書「神秘之日本」に基づき、超能力開発を可能にして支配的民族に進化するための石(ヒヒイロカネ)を発見したという記事を麻原彰晃(本名・松本智津夫)が読者レポートとして寄稿していた。ここで「精神文化中心の新しい時代」への期待感とともに超能力開発への期待およびそこに掲載された一番弟子とされる美人幹部の魅惑的な短パン姿などが当時精神世界やオカルト雑誌にしか居場所がなかった若者たちに大きな影響を与えた。

このようにオウム真理教の思想的源流となったのは、ノストラダムスの大予言チベット仏教だけでなく、これらの日本オカルト界の風潮も取り込んでいる。研究家の原田実によると、オウム真理教が国家転覆をも企てた背景には、これらの左翼イデオロギーが間接的に影響しているとしている。

オウム真理教の誕生[編集]

1987年東京都渋谷区において、オウム神仙の会を母体とする宗教団体「オウム真理教」が設立された。また、同年11月にはニューヨーク支部も設立し、1989年8月25日東京都宗教法人として認証された。

麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年2月24日ならびに1988年7月6日ダライ・ラマ14世インドで会談した。ダライ・ラマ側からすると麻原は多数の謁見者の中のひとりにすぎず、麻原を積極的に支持したわけでもない。しかし、麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「私がチベットにおいて仏教のために実践していることを、あなたは日本において行いなさい」と麻原に告げたと主張、オウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教との関係を絶つとともに、むしろ積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても、今後は麻原と関係を持たないように進言した。

1989年東京都から宗教法人として認可されてから後に、静岡県富士宮市に総本部を置き、日本全国各地に支部や道場を設置。富士宮市進出の際は山口組後藤組の援助を受け、その後は後藤組組長・後藤忠政がオウムのケツモチとなった。またロシアスリランカ等海外にも支部を置いていた。信者は日本国内だけでも11,000人程度存在していたという。なお、登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部であった。

非合法活動への道程[編集]

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教団は奇抜な選挙活動等、一部で注目を浴びていた。1989年11月に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件1994年6月に起きた松本サリン事件1995年2月28日に起きた目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件等では容疑団体と目され、それ以降警察から監視されていた。

検察側の主張によれば、1995年3月に、警察の全国教団施設の一斉捜査の内部情報を入手した松本(麻原)は、警察の目を逸らす為に東京で大事件を起こす事を思い付き、1995年3月20日地下鉄サリン事件を起こしたとされている。よって、この事件そのものは内乱ではなかったとされるが、内乱の時間稼ぎと考える事も出来る。却って教団の事件関与の確信を深めた警視庁1995年3月22日に上九一色村の教団本部施設への強制捜査を行った。施設からはサリン等化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布の為の軍用ヘリ等が見付かり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。事件との関与が指摘された教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。東京地検は松本智津夫を17件の容疑で起訴したが、その内LSDメスカリン覚醒剤麻酔薬等薬物密造に関わる4件に付いては裁判の迅速化を図る為2000年10月5日起訴を取り下げている。

これら事件に関わったとされる最重要容疑者、平田信高橋克也菊地直子が未だ逃亡中であり警察が全力で捜査している。

1995年5月16日には、教団代表であった松本智津夫(麻原彰晃)が山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)で逮捕される。その後村岡達子が代表代行となったが1995年10月30日東京高裁により解散命令を受け、抗告が棄却された為宗教法人としては解散する。

事件後[編集]

1996年3月28日東京地裁破産法に基き教団に破産宣告を行い、同年5月に確定する。1996年7月11日公共の利益を害する組織犯罪を行った危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、同法及びその適用は憲法違反であるとする憲法学者の主張があり、また団体の活動の低下や違法な資金源の減少が確認された事等もあって、処分請求は1997年1月31日公安審査委員会により棄却されている。

破防法処分請求棄却後、教団は一転して活動を活発化、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動[1]を行ったり、パソコン販売を通じて資金調達を進めていった。一方、一連の事件については「教団がやった証拠がない」とし、一切反省せず、被害者への賠償にも応じなかった。

この教団の姿勢は社会の強い反発を招き、長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)の住民運動をきっかけに、オウム反対運動が全国的に盛り上がりを見せ、国会でもオウム対策法としてオウム新法を制定するに至った。

2000年2月4日オウム真理教を母体として、前年に出所した上祐史浩を代表とする「宗教団体・アレフ」が設立される。アレフは更に2003年2月に「宗教団体アーレフ」と改称した。改名後、元から同じ名前で存在する企業がオウム真理教とは無関係なのに、なぜかオウム真理教と関係しているとの風評被害を浴びることになった(同様の風評被害はオウム真理教時代にも類似した名前の企業を対象に起きている)。

近年では元信者または現アーレフ信者に対する転入届の受付け拒否や退去勧告・就入学拒否等が地方自治体による違法行為として社会問題になっている。住民票不受理裁判は全て自治体側の敗訴となっている。

2007年(平成19年)5月には一部の信者(上祐派)が脱会。新宗教団体「ひかりの輪」を結成した。この団体は松本智津夫の教えからの脱却を志向していると主張しているが、公安調査庁『内外情勢の回顧と展望』2010年1月版でもその活動が麻原の修行に依拠していることが報告されている。

2010年(平成22年)3月に公安調査庁は、サリン事件当時の記憶が薄い青年層の勧誘をしていることなどについて、警戒を強めている旨を発表した。

教義[編集]

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無常
オウム真理教は、修行による苦悩からの解放を説き、欲望煩悩を一つずつ超越する事を解脱と呼んだ。そして、自ら日本で唯一の最終解脱者と称する松本の教説は、「無常」と「煩悩破壊」を根本とする。
「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という松本の言葉に象徴されるとおり、この世の中のすべてのものは無常である。したがって、すべての喜びはいつか終わりが訪れるため、煩悩的な喜びにとらわれることは必ず苦しみを生み出す。
逆に、自己の煩悩を超越し、無常を越えた状態が、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のニルヴァーナ(煩悩破壊)である。また、そこに留まる事なく、更に全ての魂を絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態に導くことによってマハーニルヴァーナ(大完全煩悩破壊)、あるいはマハーボーディニルヴァーナ(大到達真智完全煩悩破壊)へと至る。
ポア
ポア(ポワ)とは「意識を高い世界へと移し替えること」と定義されていた。これはとは関わりなく意識の中の煩悩的要素を弱めることと解釈できる。このポアの中で最も重要なものは死の直後、中間状態にある意識の移し替えで、これは次の生における転生先を決定することになる。
したがって、の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」となる。これが転じて、「死をもたらすこと」も「ポア」と呼ばれていた。これが「『ポア』なる言葉の下に殺戮を正当化する」と検察側が主張する根拠となっている。
シヴァ
オウム真理教の主宰神はシヴァ大神である。オウム真理教に於けるシヴァ大神は「最高の意識」を意味し、マハーニルヴァーナと同義として扱われる。ヒンドゥー教(インド神話)にも同名のシヴァ神があるが、これはシヴァ大神の化身に過ぎないとされる。また、麻原彰晃はこのシヴァ大神の変化身と見做された。
教義
オウム真理教の教義は、原始ヨーガ、原始仏教を土台とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教の技法を取り入れている。そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・仏教宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、キリスト教の創造主としての神は梵天(オウム真理教では神聖天と訳す)の事である、等と説かれる。
従って、オウム真理教に於いては儒教道教キリスト教ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、仏教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。
具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。
教義の柱
オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されている。
  1. 最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
  2. 無常に基づく正しい教義
  3. その教義を実体験できる修行法
  4. その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
  5. 修行を進めるためのイニシエーションの存在

事件と関連するとされる教義[編集]

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オウム真理教では修行の内容を3種類または4種類に分けて説く。小乗(ヒナヤーナ)、大乗(マハーヤーナ)、真言秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)で、厳密に説かれるときはタントラヤーナとヴァジラヤーナを分ける。ここでは4つの修行体系に分けて述べる。また、以下は教団における定義であって、通常の仏教語の定義とは違う。

ヒナヤーナ
ヒナヤーナとは、外界とは離れて、自己の浄化・完成を目指す道である。ヒナヤーナはすべての土台である。
マハーヤーナ
マハーヤーナとは、多くの人たちが同時に高い世界を目指す道である。教団全体はマハーヤーナと規定される。ただし、ヒナヤーナ的な自己の浄化がなければ、マハーヤーナは成立しないともいう。
タントラヤーナ
タントラヤーナとは、マントラを唱える等の密教的な修行を指す。ただし、左道タントラなど、現代日本では非倫理的・非道徳的とされる部分については、教団の公式見解において否定されていた。
ヴァジラヤーナ
ヴァジラヤーナとは、グルと弟子との1対1の関係においてのみ成り立つ道である。グルが弟子に内在する煩悩を突きつけ、それを理解できる状況を作り出し、その煩悩を越えさせるマハームドラーなどの激しい方法が含まれる。

ヴァジラヤーナの教義の中には、「五仏の法則」と呼ばれるものがあり、「天界の法則であって人間界においてはなしえない」という注釈のもとで説かれたことがあった。これは、一般的な戒律に反する行為・言動が、完全に煩悩なく、完全に心において利他心のみであるときには認められるとするもの。真言宗の金剛経などにも見られる教えである。

具体的には、悪業を積み続ける魂を救済するために殺害すること、貪り多き魂を救済するためにその財産を奪うこと、嘘を使って真理に導き入れることなどが、天界の菩薩の修行として説かれている、という解説であった。

この教義が殺人を正当化するものと解釈されたが、現在の教団においては、この五仏の法則は封印されている。

活動[編集]

教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ)に分けられる。 在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加する。また、休暇期には集中セミナー等も開かれる。

修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があり、時期にもよるが、1995年時点の出家者には、サマナ見習い、サマナ、サマナ長、師補、師(小師、愛師、愛師長補、愛師長、菩師、菩師長補、菩師長)、正悟師(正悟師、正悟師長補、正悟師長)、正大師の各ステージが存在した。師は「クンダリニー・ヨーガ」の成就者、正悟師は「マハームドラー」の成就者で仏教の阿羅漢相当、正大師は「大乗のヨーガ」の成就者と規定され、これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。青山吉伸上祐史浩に代表されるように、オウム真理教幹部には名門大学の卒業者が多かった。

オウム幹部の学歴[編集]

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関連年譜[編集]

一連の事件での被害者数は、死者27人・重軽傷者6000人以上。日本史上最悪の組織的犯罪であった。

公称信徒数[編集]

  • 1985年12月 - 15人
  • 1986年10月 - 35人
  • 1987年2月 - 600人
  • 1987年7月 - 1,300人
  • 1988年8月 - 3,000人
  • 1995年3月 - 15,400人(出家1,400人、在家14,000人)
  • 1997年7月 - 5,500人(出家500人、在家5,000人)
  • 1997年12月 - 2,200人(出家900人、在家1,300人)
  • 2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数)
  • 2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数)

オウム事件の謎[編集]

オウム事件では、村井秀夫刺殺事件の真相の究明に至っていない。実行犯は特定の者の指示により決行したとして有罪確定、指示したとして起訴された者は無罪である。二つの内容対立する判決がそのままになっている。国松警察庁長官銃撃事件に至っては、自白したとされる元オウム信者の警察官が、供述に矛盾点が多いなどとして最終的には不起訴処分となったという異例の事態となっている。

事件が与えた影響とその後[編集]

あまりにも前代未聞な事件だったこと、オウム報道によって犯罪報道の比重が高まったために、犯罪が特に増えているわけでもないのに治安の悪化を感じる国民が増加し厳罰化など以後の刑事政策に影響を与えた。 犯罪被害者の救済制度が整備されるようになった。

事件以後、問題がある新宗教団体に対する世間の目は、一層に厳しくなった。特に巨額の献金を要求したり、信者の離脱を許さなかったりなど、信者を抑圧しているとされる団体に対しては、情報の公開を求める動きが広がった。白装束で話題になったパナウェーブ問題への対応などにも影響を与えている。

オウム特番」等連日連夜繰り広げられたオウム報道によって報道のワイドショー化が一層進んだ。特に麻原逮捕までは毎晩どこかの局で2時間程度(日によって異なるが場合によっては3~4時間の場合も)オウム関連の特番が組まれていた。その影響で1995年4月~6月クールの連続ドラマの視聴率が低下した(21時から特番を組んだ事もあり、その影響で休止になったり繰り下げとなることも多かったためである)。

「オウム真理教を扱った番組は簡単に視聴率が取れる」として、『オウムの法則』(オームの法則と掛けたパロディとも思われる)なる用語まで登場した。実際、1995年の年間視聴率(ビデオリサーチ調べ)の上位50本の中にオウム真理教関連の番組は関東地区で16本、関西地区では10本登場している。ちなみに、この年発生した阪神・淡路大震災関連の番組は関東地区で2本、関西地区でも7本だった[1]

TBSブロードキャスター』のコーナー「お父さんのためのワイドショー講座」によると、1995年の1年間にワイドショーがオウム真理教関連の話題を報じた時間数はのべ1272時間19分5秒。2位の阪神・淡路大震災の126時間8分53秒に約10倍の差をつけての首位だった。ちなみに、この年のワイドショー全体の67.8%をオウム真理教関連の話題が占めていた。

1995年に週刊新潮が発表した「今年を代表する男」の読者アンケートで、麻原彰晃が野茂英雄に次いで2位を獲得。また上位10人には麻原以外にも坂本堤村井秀夫上祐史浩とオウム事件の関係者が4人ランクインした。

森達也は 『ご臨終メディア-質問しないマスコミと一人で考えない日本人』で報道機関が視聴者・読者から教団を擁護していると非難されることを恐れるあまり、教団を排斥する運動の不当性や、別件や微罪による信者の不当逮捕を報道することすらタブーになっていると指摘している。森は事件後に成立した「組織犯罪対策法」等の中に社会の治安維持上の必要がある場合に個人の私権を制限したりプライバシーを侵害する事を認めるような条項がある事を、報道機関の運動に乗せられた行き過ぎではないかと主張する。

上祐代表を中心とする「代表派」(少数派)と、麻原回帰を強める非代表派(多数派)が分裂した。代表派によれば、代表派と非代表派の会計規模は1:5とされている。

2003年8月、オウム真理教の元信者である女性が北朝鮮に亡命した。[2]

フランスにも影響を与え、カルト団体対策の推進の理由のひとつとなり(他にスイスにおける集団自殺、フランス国内でのカルト被害報告の増加もある)、各省庁が連携してのカルト対策が立てられ、フランスはカルト団体対策の先進例の1つとなった。1995年、1999年にフランスは、国内で活動中で犯罪の多い団体のリストを作成した。当然フランスに於いてもオウムは特に危険な団体として取り扱われたが、オウムはフランスに支部を持っていなかったのでセクトのリストからは漏れている(ただし、テロ事件を引き起こす前の麻原はノストラダムス予言書を手に入れるために訪仏し、現地の学者と意見を重ねていたので全くの無関係とは言い切れない。サリン事件後には、当時の学者達はフランス警察から事情聴取を受けている)。

その他[編集]

  • オウム真理教天理教の集金術を学んだと言われている。
  • 日蓮系の顕正会が「第二のオウム」と言われている。

脚注[編集]

  1. 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、199頁。ISBN 4062122227

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公式ウェブサイト[編集]

その他[編集]