イスラエルの歴史

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本記事では中世から近代までのイスラエルの地における、主にユダヤ教徒の歴史年表を示す。古代イスラエルの歴史は「古代イスラエル」を参照。

古代[編集]

悲劇的敗北と離散の後[編集]

  • 1267年 - ラムバン(ナフマニデス)がエルサレムに定住し、シナゴーグを建設
    以降500年間ユダヤ教徒の学問の中心地として栄える(1194-1270) - ラビ・哲学者・聖書注解・カバラ研究
  • 1291年 - マムルーク朝が十字軍を倒しイスラエルの地を支配
  • 13世紀 - エルサレムのユダヤ教徒地区に、トーラー学者・学生が住みはじめる

近世[編集]

近代以降[編集]

シオニズム運動が盛んになったとされる近代・現代史年表を示す。

20世紀前半[編集]

ヒスタドルート(ユダヤ労働総同盟)、ハガナーが創設される
アラブ人過激派、反シオニズム暴動開始
ワド・レウミ(民族評議会)を設置し、ユダヤ人共同体の自治運営を行う
農村・テル・ハイの虐殺;ヨセフ・トルンペルドール死亡
ユダヤ人シオニストであるサー・ハーバート・サミュエル Herbert Samuel が委任統治領の高等弁務官に任命
アラビア語・ヘブライ語・英語公用語に制定
ヘブロン事件:ユダヤ教の聖地ヘブロンで60名のユダヤ教徒が虐殺され、3000年の歴史を持つヘブロンのユダヤ人コミュニティーが滅亡
  • 1933年 - ファイサル・フサイニー逝去
ハダサー、パレスチナで活動開始

20世紀後半(イスラエル独立以降)[編集]

3月4日 - アタロトで、アラブ人が16人のユダヤ人を待ち伏せ攻撃し、虐殺
4月8日 - デイル・ヤシーン村にて、ユダヤ人テロ組織によるアラブ人村民の大量虐殺事件発生(デイル・ヤシーン事件)。アラブ人のイスラエル領からの大量脱出始まる。
4月13日 - シェイフヤラハダサー医療従事者虐殺事件en):デイル・ヤシーン事件の報復と称するアラブ人テロリストによる護送車襲撃事件。ハダサーの医師・看護婦・ヘブライ大学教授・職員70人以上が虐殺される。
5月12日 - クファール・エツィオンで、アラブ軍が100人のユダヤ人を虐殺(15人は降伏後に処刑)
5月14日 - イスラエル国として独立宣言
5月15日 - アラブ5カ国の正規軍、イスラエルに侵攻
第1次中東戦争(~49年7月)。国際統治案もあったエルサレムの西半分がイスラエル領となる。 1952年まで、ヨーロッパ・アラブ諸国からの大規模なユダヤ人の帰還があった。 イスラエル国防軍が編成される
9月 - テロ組織シュテルンのテロリスト、国連調停官ベルナドッテ伯を暗殺
アヴィグドル・ダガン帰還
6月 - トランスヨルダン、ヨルダン・ハーシム王国に改名。
7月 - エジプト・ヨルダン・シリアレバノンと休戦協定(イラクは拒否)
イスラエル、人口過密となったガザ地区併合を申し出るが、エジプトが却下
8月 - ガザ地区のパレスチナ「難民」10万人の帰還を提案するがアラブ連盟が却下
その後イスラエルはアラブ人「難民」の放棄した土地の買収を国連に持ち込むが、否決
イスラエルで第一回総選挙
イスラエル、国連に59番目の加盟者として加盟
エフライム・キション帰還
4月24日 - ヨルダンエルサレムを含むヨルダン川西岸地区を併合という形にする


  • 1956年 - 第二次中東戦争(シナイ作戦)。エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻。米・ソの仲介により三国は撤退
  • 1964年 - ナショナル・ウォーターキャリア計画(全国水道網)が完成する。砂漠地への配水が行われるようになる
    「パレスチナ解放機構(PLO)」設立
  • 1967年6月5日-6月10日 - 第三次中東戦争(六日間戦争)。エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡を封鎖が引き金となり、イスラエルが「先制攻撃」を実施。エジプトのシナイ半島を、同戦争に参戦したシリアのゴラン高原を占領下におき、エジプトの統治下にあったガザ地区、ヨルダンの統治下にあった東エルサレム・ヨルダン川西岸地区を主権下におく(エルサレム再統一)。六日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わる。国境線が画定するまで、停戦ラインを維持することを発表
  • 1974年 - PLOを「パレスチナ人」の唯一の代表機関とする決議がアラブ連盟首脳会議で決定
その後、アラブの圧力により、国連はPLOを「準政府組織」として認定
ゴラン高原の停戦監視として国際連合兵力引き離し監視隊(the United Nations Disengagement Observer Force, UNDOF)設立。
  • 1975年 - イスラエルがECの准加盟国となる
11月10日 - 国連に、アラブ側が、「シオニズムは人種差別主義である」という趣旨の反シオニズム・デマを国連決議案として提出
  • 1977年 - 第9回イスラエル国会選挙で、野党であり続けた右派政党のリクードが初めて勝利し、左派政党の労働党は初めて選挙で敗北して下野した。
  • 1977年 - サダト大統領のエルサレム訪問。これまで仇敵であったエジプトのサダト大統領がエルサレム訪問を宣言し、クネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結の第一歩となる
    リクード政権が成立。30年あまりの労働党政権が終わる
  • 1979年 - イスラエル・エジプト平和条約締結。イスラエルが占領していたシナイ半島の返還に合意し、米国のカーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が調印。イスラエルにとって初のアラブの隣国との平和条約となる
エジプト、ガザ地区の領有権を放棄
ピアニスト・ウラディーミル・フェルツマン、イスラエルへの移住を希望し、ソ連政府から演奏家としての自由を奪われる(→コスモポリタニズム批判
  • 1980年 - 西岸・ガザ地区の、アラブ人の住まない土地への入植地 Israeli settlement 建設が本格化する。
  • 1981年 - イラクの原子炉爆撃
    アメリカ合衆国と戦略協力の覚書を交換する
  • 1982年 - ピース・ナウの活動家でありヘブライ大学の大学院生であったエミール・グルンツヴァイグが、ピース・ナウを嫌悪する右派のユダヤ系イスラエル人に殺害された。
  • 1982年 - イスラエル、シナイ半島からの撤退を完了

湾岸戦争以降[編集]

湾岸戦争が発生。リンキングを図るイラクにより、テルアビブを標的とした短距離弾道ミサイルの攻撃を受ける。
アメリカ・ソ連両国の支援のもとマドリッド会議開催。PLOとの顔合わせの機会となる(イスラエル、シリア、レバノン、ヨルダン・パレスチナが参加)
  • 1992年 - 中国・インドとの国交樹立
    左派政党の労働党政権が成立し、労働党のイツハク・ラビンが首相になる。
パレスチナ自治区拡大。1999年まで、5つの平和条約が結ばれ、そのたびに自治区が拡大されてきた。
  • 1995年9月28日 - 西岸・ガザのパレスチナ人自治区が拡大され、456町村においてパレスチナ人自治が開始される。パレスチナ人評議会が選出される
    11月4日 イツハク・ラビン首相がテルアビブで右派のユダヤ系イスラエル人に射殺される、後任としてシモン・ペレス外相、首相に就任
イスラエル北部へのヒズボラのテロ攻撃に対処するため、怒りの葡萄作戦が発動される
4月 PLO、式典において憲章からイスラエル破壊条項を削除(その後無効とされる)
オマーンカタールにイスラエルの通商代表事務所を設置する
6月 イスラエル総選挙。右派といわれるリクード政権樹立、ベニヤミン・ネタニヤフが首相に就任
オマーン、テルアビブに通商代表事務所を開設する
10月 イスラエル・アウマン(ロバート・オーマン)がノーベル経済学賞受賞
  • 2006年
    1月4日 新党カディーマを結党したシャロン首相が脳出血を起こし入院。エフード・オルメルト Ehud Olmert 副首相が首相代行
    7月 ヒズボラがイスラエル軍兵士2人を拉致、報復としてヒズボラ拠点であるレバノン南部への空爆と地上軍侵攻を開始し、第二次レバノン戦争が勃発。両軍およびイスラエル民間人やレバノン民間人を含め多数の死傷者を出す。8月14日、国連安保理決議に基づき停戦が発効される。
  • 2007年
    9月 5~6日に掛け、秘密裏にシリアを空襲。イスラエルは箝口令を敷いていたが、19日夜、ネタニヤフ元首相は「私は最初からこの件に関与していたし、支持した」と発言し、空襲を行ったことを認めた。
  • 2008年
    12月27日 イスラエル軍がガザ地区で、イスラム原理主義組織ハマースの治安施設などを標的とした大規模な空爆を実施。空爆で195人が死亡、300人が負傷したとしている。報復としてハマースはガザ地区に隣接したイスラエル南部にロケット弾を撃ち込み、イスラエル人1人が死亡した(ガザ紛争 (2008年-2009年)
  • 2009年
1月3日 地上侵攻を開始(ガザ紛争 (2008年-2009年)
8月3日 レバノンと衝突。

関連項目[編集]