日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領

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日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領(にほんぐんによるアンダマン・ニコバルしょとうのせんりょう)は、1942年3月の日本軍によるアンダマン諸島の占領に始まり、1945年8月に日本が連合軍に無条件降伏し、同年9月にイギリスが両諸島を再占領するまで続いた。

日本軍の諸島占領[編集]

占領[編集]

日本軍は、太平洋戦争初期のフィリピン・マレー・スマトラ攻略作戦の後、「第二段作戦」としてニューギニア東部、オーストラリア方面とともにビルマとスマトラを結ぶ南北の線上にある英領インド帝国のアンダマン・ニコバル諸島を攻略目標とした。1942年3月5日、第一南遣艦隊(司令官・小澤治三郎中将)はアンダマン諸島攻略作戦(D作戦)を発令し、同月10日に海軍第12特別根拠地隊(12特根)分遣隊、陸軍歩兵第56連隊第2大隊等からなる部隊がペナンから出撃した。アンダマン諸島の英軍の主力部隊は日本軍の作戦より前に撤退していたため、日本軍はほとんど抵抗なくアンダマン諸島に上陸し、英国人23人、インド兵300名を捕虜として、3月30日にほぼ作戦を終えた。また同年6月13-14日に日本軍はニコバル諸島を無血占領した。[1][2]

B作戦の中止[編集]

日本軍は更に、独・伊と連携してインド洋方面の英国艦船を攻撃しセイロン島を攻略する作戦(B作戦)を計画した。しかし、1942年6月に日本軍はミッドウェー海戦に敗北して多くの戦闘機を失い、同年7月に太平洋の米軍がソロモン諸島に来攻したため、同年8月8日、B作戦は中止された。南西方面の航空兵力は、ガダルカナル島奪回作戦に転用するため、半減されることとなった。[3]

防衛拠点化[編集]

一方、インドの米英空軍はこの頃から基地の拡大や新鋭機の投入によりインド洋における航空兵力を増強しつつあった。インド洋の防備強化を迫られた日本軍は、1942年6月下旬にアンダマン・ニコバル諸島を海軍の直接防衛担当地域とし、同年9月26日に第12特別根拠地隊司令部をビルマのラングーンからポート・ブレアに移した。同年12月12日には陸軍近衛第3連隊第3大隊がポート・ブレアに増派された。[3]

兵力増強とカーニコバル島の飛行場建設[編集]

1943年5月にニコバル諸島方面の基地調査結果がまとまり、カーニコバル島 Car Nicobar、カモルタ諸島 Kamortaのトリンカット島 Trinket Islandは飛行場建設、カモルタ諸島のナンコーリ Nancowry湾は水上機等の適地とされた。同年7月にカーニコバル島、ナンコーリ島 Nancowry Islandに基地建設のための先遣隊が送られた。同じ7月に陸軍は防衛調査の結果として近衛師団からアンダマン・ニコバル諸島への兵力増強を決め、翌8月にアンダマン諸島に約3,200人、カーニコバル島に約1,200人の守備隊を増派した。カーニコバル島には海軍の設営隊約1千人も増派され、突貫工事で、島民も動員して滑走路が建設された。同年9月に第1飛行場の第1滑走路が完成し、311空1個中隊(零戦9機)が配された。[4][5][1]

インド独立連盟とスパイ事件[編集]

アンダマン諸島では、1942年4月にインド独立連盟 Indian Independence Leagueの支部が結成され、6月には島の青年を糾合してインド国民軍が組織された。インド独立連盟は反英独立の啓蒙活動を行い、島民に影響力を及ぼしていた。日本軍はこれらの活動を承認し、公式の集会に日本軍の関係者が出席し、インド国民軍の訓練に加わるなどしていた。[6]

1943年1月、英軍のデニス・マッカーシー[7]は、潜水艦でアンダマン諸島に上陸し、かつての部下であり、日本軍の下で働いていたインド人軍事警官を通じて、島内で情報収集活動を行う一方で、「インド独立連盟の中に英軍のスパイがいる」という偽情報を流した[8]。マッカーシーが収集した情報によって英軍機が日本軍の軍事施設や艦船を正確に攻撃するようになったこともあり、疑心暗鬼になった日本軍は、1943年1月22日にナラヤン・ラオをはじめ55人のインド独立連盟のメンバーを逮捕し、拷問により1人を殺害、7人を同年3月30日にアバルディン Aberdeen村の海岸で銃殺した。[9]

1943年10月には、日本軍はスパイ容疑により更に大規模に住民を逮捕し始め、インド独立連盟アンダマン支部の議長デワン・シン博士をはじめ、総勢630人以上を逮捕した。住民の逮捕は翌1944年1月まで続けられた。逮捕された独立連盟の指導者らは、日本軍から拷問を受け、英軍のスパイであることを自白するよう迫られた。デワン・シンは1944年1月13日に獄中で死亡した。同月30日には被疑者44人がポートブレアから十数キロ離れた丘で銃殺され、遺体はホムフレイグンジ(Humferygunj,HomfraygunjないしHomfreyganj)村付近に埋められた。[9]

スバス・チャンドラ・ボースの来訪と自由インド仮政府[編集]

1943年10月にインド独立連盟によって創設された自由インド仮政府の主席となったスバス・チャンドラ・ボースは、翌11月6日に東京で開催された大東亜会議において日本の東条英機首相から「現在日本軍が占領しているインド領アンダマン・ニコバル諸島を近く自由インド政府に帰属させる用意がある」旨の言明を受け、同年12月29日にアンダマン島を訪れた。[10]

ボースは海軍第12特別根拠地隊の石川茂司令官と会談し、仮政府の代表団をアンダマン島に派遣駐在させることと、代表団の次席を海軍民政部の総務課長に就任させることを申し入れた。日本軍側は、前者には合意したが後者は軍事機密を扱うことを理由に反対し、結局民政部に新たに「文教課」を設け、仮政府の人士が文教課長とその他各課の分担勤務に就くことで合意した。[11][12]

翌1944年2月12日、合意に基づいて自由インド仮政府のA.D.ロガナダン A. D. Loganathan軍医少尉以下5名がアンダマン島に来島し、駐在所を開設した[13]。同年9月8日にロガナダンは胃潰瘍を理由に代表を辞任し、M.H.アルヴィー少佐が後任を務めた[14]。翌1945年の6月末に駐在員に帰還命令が出され、同年8月2日に全員が英軍の攻撃の間隙を縫ってシンガポールへ帰還した。[15]

ボースがアンダマン・ニコバル諸島の自由インド仮政府への帰属を求めたのは、統治機構と統治対象となる領土、領民を得ることで、自由インド仮政府に国家としての合法性を持たせるためだったと考えられている[16]。自由インド仮政府によるアンダマン・ニコバル諸島の統治への関与は、日本軍の軍政に関与する形で実現をみたものの、1年余で解消されることとなった。日本の敗戦に至るまで、軍政を廃止し正式に統治を移管するには至らなかった。[16][17]

英軍の反攻[編集]

英軍機の来襲[編集]

1943年9月8日に欧州でイタリアが連合軍に無条件降伏すると、連合軍はインド洋での攻勢を強めた。日本軍の輸送船が英軍に襲撃され、アンダマン・ニコバル諸島にも英軍機が来襲するようになった。同年8月23日、カーニコバル島へ陸軍の守備隊を輸送した貨物船屏東丸は、揚陸作業中に英軍機B24の爆撃を受けて沈没し、船長以下36名が戦死、輸送してきた武器・弾薬等と食糧の大半を失った(屏東丸事件)。同年9月22日、30日にはカーニコバル島、10月1日には南アンダマン島ポート・ブレアとスマトラ島サバン Sabangに英軍機が来襲した。[4][18][1]

上陸作戦[編集]

英軍は、1943年の後半、アンダマン・ニコバル諸島への上陸・占領作戦(バッカニア Buccaneer作戦)を検討していたが、同年末のカイロ会談テヘラン会談によりソ連の対日参戦が決まって対中支援の意義が薄れ、ノルマンディー上陸作戦に舟艇を集中させることになったため、1944年1月にインド洋での上陸作戦中止を決定した[19]。1944年3月、日本軍のインパール作戦が始まると、英軍はビルマから陸路マレーへ進撃する作戦を有力視するようになった。他方で英軍は機動部隊による北スマトラへの攻撃を検討し、アンダマン・ニコバル諸島に対しては飛行機などの消耗を強いるための陽動作戦として機動部隊による攻撃が行われることになった[20]

同じ頃、日本軍は、ビルマではインパール作戦により日本軍が攻勢に出るため、英軍はアンダマン・ニコバル諸島を攻略して航空基地を設け、マレー半島に上陸しようとするとの見方を有力視していた[21]。1944年2月、アンダマン・ニコバル諸島への上陸作戦を想定して現地守備隊が独立混成旅団に増強編成されることになり、同年5月に第35-37旅団がそれぞれアンダマン島ポート・ブレア、カーニコバル島、ナンコーリ島に配されて、守備陣地の構築を行うなど迎撃戦の準備を進めた[4][22][1][23]。こうして諸島の防御体制は強化されたが、この頃既にインド洋全体の日本軍は制海・制空権を失う最終段階を迎えつつあった[24]。1944年3月にカーニコバル島の第2飛行場が完成したが、同年6月に英軍機が来襲した際には、陸海軍とも迎撃する機体を失くしていた[25]

英軍機動部隊の攻撃[編集]

1944年4月16日にツリンコマリ Trincomaleeを出撃した連合軍は、スマトラ島北端のサバンを攻撃し、以後英国東洋艦隊はインド洋で機動部隊による日本軍への攻撃を強めた[26]。アンダマン島には1944年6月21日に大規模な空襲があり、英潜水艦が補給を遮断し、またポート・ブレアを砲撃した[26]。アンダマン諸島では、英軍の輸送船襲撃により同年9月を最後に大型船による輸送が途絶し、同年11月のスマトラからの給糧船を最後に食糧の輸送が途絶えた。カーニコバル島は1944年10月に初めてイギリス機動部隊による本格的な攻撃(第1次攻撃)を受け、以後はアンダマン島との連絡が途絶えがちになった。翌1945年4月30日から5月4日にかけて再びイギリス機動部隊の大規模な攻撃(第2次攻撃)があり、イギリス軍の上陸作戦に備えてゲリラ戦の準備が進められた。[27][28]

飢餓と戦犯事件[編集]

アンダマン諸島での降伏文書の調印式に臨む日本軍の代表団。写真左から海軍第12特別根拠地隊・島崎海軍大佐、同隊・原鼎三司令官、陸軍独立混成第35旅団・佐藤為徳旅団長、同旅団参謀・田沢中佐。調印式は午前10時からポート・ブレアのジムカーナ運動場で行われた。

孤立[編集]

1945年5月に日本軍がラングーンから撤退すると、日本軍の内部でも連合軍がアンダマン・ニコバル諸島を攻略せず、直接マレー半島・シンガポールに向かう可能性が高いと考えられるようになった。同月、マレー半島の防衛兵力を増強するため、アンダマン島とナンコーリ島の歩兵約2個大隊半をマレー半島に移送することが計画された[29]。しかし兵員の輸送のため諸島へ派遣された艦隊が2度にわたり英軍艦隊に攻撃され損傷・撃沈された(オンボード作戦ペナン沖海戦)。同年6月14日に作戦は中止され、アンダマン・ニコバル諸島の日本軍は遊軍化し、完全に孤立することとなった。[30]

食糧難[編集]

アンダマン諸島[編集]

アンダマン諸島では、1944年1月には既に、食糧の支給は所要量の60%しかなされず、所要量の40%は島外からの補給によるもので自給量は20-25%程度しかない状況だった。このため兵員による自給が促され、日課の中に農耕の時間が設けられていた。その後、1944年5月に独立混成旅団の兵員の増強があり、1944年11月には島外からの補給船が途絶えたため、食料事情はより深刻になった。[31]

1945年に入ると兵士への主食の支給量は通常の1/3の量に減らされ、漁撈・農耕に兵力を動員して魚・野菜の採取増をはかったり、野生の鳥獣を捕えて食べたりするようになった。現地住民への主食配給の制限も厳格化されたため、島民に餓死者・栄養失調の者が増加した。軍用米が尽きてきたため、日本軍は、軍で使役していた現地住民約6千人を解雇して自給をはかるよう命じた。[32][33]

1945年7月末に海軍民政部は島民に対して「8月以降米の配給を停止する」との声明を出し、混乱を阻止するため、「食糧庫を荒らす者、軍民を問わず農場に侵入する者は射殺してよい」と公示したが、実際に食糧を盗もうとして殺される者が相次いだ。このような状況下で、住民の離反も進み、中には禁を犯して島外への脱出を試みる者も出るようになった。[34][35]

ニコバル諸島[編集]

カーニコバル島では、1944年末に糧秣の重点補給作戦が決行されて成功していたため、アンダマン諸島に比べて軍糧に余裕があったが、1945年1月にカーニコバル島での決戦を想定してアンダマン諸島から兵員が増強されたこともあり、1945年4月頃には食糧不足が深刻化した。食糧の支給量が極端に減らされ、主食の米飯のかわりにサツマイモが支給され、島内の蛇やトカゲまで捕えて食べるようになった。日本軍は終戦まで食いつなぐことができたが、島民は主食としていた椰子の林が飛行場などの開発のために伐採されていたため、食糧事情はより深刻だった。1945年4月頃から、住民による軍糧米の盗難事件が多発するようになった。[36]

ナンコーリ島でも英連合軍による空爆の激化により食糧難をきたし、日本軍は食糧の支給量の引下げを行っていた。同島では原住民が主食としていた椰子やバナナの採取を禁じるなどしていたため、他島に比して島民に犠牲を強いることは少なかったとされる。[37]

戦犯事件[編集]

日本軍がその統治時代にアンダマン・ニコバル諸島で起こした戦犯事件は、30有余件、被告人数は延べ100余人にのぼった。同諸島での戦争犯罪は、発生時期が1944年-1945年の戦争末期に集中している。[38][39]

アンダマン諸島[編集]

1945年7月23日夜、上陸用の舟艇を盗んで島外へ逃亡しようとしたビルマ人の現地住民34人(女性や子供を含む)が日本軍に発見・逮捕され、独立混成第35旅団司令部(旅団長・佐藤為徳少将)の命令により、同月25日にポート・ブレアから所要4,5時間の無人島・タマグリ島に連行され全員が射殺された(第一タマグリ島事件[40]。また1945年8月初旬には、中アンダマン島で、海軍の舟艇と食糧を盗みラングーンへ逃亡しようとしたビルマ人9人が日本軍に逮捕され、海軍第12特別根拠地隊司令部(司令官・原鼎三中将)の命令により、全員がスチュワードサウンド Stewart Soundという場所へ連行され、殺害された(スチュワードサウンド事件[41]

1945年8月初旬、海軍第12特別根拠地隊司令部は、南アンダマン島の約400人の住民を強制的に耕地のない無人島・ヘブロック島へ移住させた。終戦後の1945年9月21日にこの措置が戦争犯罪として問題視されることをおそれて救助に行ったところ、住民の餓死体が折り重なっているのを発見し、救助された生存者は11名のみだった(ヘブロック島事件[42]

ニコバル諸島[編集]

1945年7月、カーニコバル島が3回目の英軍機動部隊による攻撃を受けた際に、日本軍は、英軍が上陸してきた場合に住民が英軍に通じることを警戒して現地住民の指導者ら約200人を島の中央部に軟禁した。ちょうどそのとき軍需米を盗もうとした現地住民をスパイ容疑で拷問して「日本軍が軟禁している島の指導者らに指示されてスパイ行為を行った」旨を自白させ、自白に基づいて同年7月から8月にかけて80余人の現地住民を逮捕・拷問し、拷問により4人を死亡させた上、スパイ容疑者として81人を処刑した(カーニコバル島事件)。[43]

ナンコーリ島では食糧の面で現地住民に犠牲を強いることが少なかったため、戦後に戦争犯罪として問題になった事件はアンダマン島に比べてかなり少なく、3件に止まった[37]

英印軍による再占領[編集]

1945年9月25日に、英駆逐艦・ナルボク号がアンダマン島に入港し、同年10月7日に英印軍の陸軍兵団が島に上陸、翌8日にはへブロック島に派遣された調査団が島民の死体を発見し、以後、戦犯事件の捜査と容疑者の逮捕が進められた[44]

イギリス軍シンガポール裁判では、アンダマン・ニコバル諸島での戦犯事件が数多く起訴されたが、終戦で諸島にやってきたイギリス軍が島に残っていた日本軍の戦犯容疑者をまとめて逮捕できたことから、立件し易く、起訴件数が多くなったとみられている[39]

補遺[編集]

熱帯病[編集]

アンダマン・ニコバル諸島には密林・湿地が多く、同諸島を占領した日本軍の間ではマラリア蚊を媒介とするマラリアが流行し、またアメーバ赤痢も蔓延した[45]。マラリアの予防薬としてキニーネが支給されていたが、アメーバ赤痢による強度の下痢でキニーネが吸収されなくなり死亡する例が多かったとされる。ナンコーリ島ではほぼ全員がマラリアに罹っていたところにアメーバ赤痢が流行して千余人のうち百余人が死亡した。カーニコバル島では兵員の8-9割がマラリヤに罹患していた。またアンダマン島では現地住民が軍票の受け取りを拒むようになったため、キニーネを貨幣の代わりにしていた。[46]

従軍慰安婦[編集]

日本軍によって軍の「慰安婦」として働くためにペナンから連れて来られた中国系・マレー系の若い女性たち

日本軍はアンダマン・ニコバル諸島にも「慰安所」をつくり、「従軍慰安婦」を連れてきていた。

アンダマン島では、日本軍による占領直後に第12特別根拠地隊の隊員による島民女性暴行事件が起き、事件を契機として12特根は島民女性の中から「慰安婦」を供出させ、性病の検査・治療を受けさせて「慰安所」を開設しようとした[47]。1942年7月頃、日本人・朝鮮人・台湾人の女性20-30人がアンダマン島に到着し、島民女性による「慰安所」は閉鎖され、士官用・企業社員・下士官兵用に、それぞれ業者が運営する「慰安所」が新たに開設された[48]。1944年8月頃、戦況の悪化に伴って、海軍の「特要員」内地帰還命令が出された頃に、慰安所は閉鎖された[49]。12特根は島民女性による「慰安所」再開を志向し、この構想は自由インド仮政府代表団の反対にあって実現しなかったが、1945年に入ってから、12特根・原司令官の希望により、ペナンの潮機関に「慰安所」開設の手配が要請され、同年3月頃、ペナンから移送されてきたマレー系や中国系の十代の少女を含む女性による、士官用・下士官兵用の「慰安所」が再開された[50]。同月26日にアンダマン沖で日本軍船団と英国艦隊の戦闘が発生し、日本軍の艦船が撃沈されたが、このときの戦没者には、日本軍の兵士のほかに、ポートブレアへ移送中の「慰安婦」だったとみられる女性11人が含まれていた[51]

カーニコバル島には陸軍の慰安所がチュチュッチャとパーカの2ヵ所にあり、インドネシア人女性10余名がいたこと、海軍の慰安所がムースにあり、日本人女性約10名がいたことが兵士の回顧録に記されている[52]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 井上ほか 2010 129
  2. 木村 2001 47-53,100-103
  3. 3.0 3.1 木村 2001 51-53
  4. 4.0 4.1 4.2 岩川 1995 199
  5. 木村 2001 53-67,101-103
  6. 木村 2001 89-90
  7. 日本軍が占領する以前のアンダマン島の軍事警察司令官で、英軍の特別作戦部隊・136部隊 Force 136の指揮下でバクシュ・シンらとともにアンダマン島のスパイ活動に携わった(木村 2001 90,134-135)。
  8. この英軍によるスパイ活動は、ボールドヘッド作戦と呼ばれた。作戦は5回にわたって行われ、マッカーシーらは少なくとも1943年1月、同年12月、1944年1月、同年3月に潜水艦で中アンダマン島に上陸していた(木村 2001 134-135,291)。
  9. 9.0 9.1 木村 2001 89-92
  10. 木村 2001 84-87
  11. 木村 2001 87-89
  12. ボースはアンダマン島来訪時、前述のスパイ容疑でインド独立同盟のアンダマン支部のメンバーが収監されていたアンダマン刑務所を見学に訪れたが、来島中に特にそのことに言及したりすることはなかった(木村 2001 89-92)
  13. 前述のスパイ事件の被疑者44人は、ロガナダンらがアンダマン島に来島する2週間前に殺害された(木村 2001 92)。
  14. 杉本 2014 38
  15. 木村 2001 88
  16. 16.0 16.1 長崎 1991 247-249
  17. 木村 2001 86
  18. 木村 2001 50-67,105-107
  19. 木村 2001 60
  20. 木村 2001 61-67,120-121
  21. 木村 2001 61,63
  22. 木村 2001 61-67,105-107
  23. 戦局と輸送事情の悪化を受けて、編成の完結に遅れが出たり、派遣予定だった兵力の一部がマレー半島に止め置かれたりした(木村 2001 64-66,105)。
  24. 木村 2001 66-67
  25. 木村 2001 103。ペナンの航空兵力は、パラオ作戦支援のため1944年6月中旬までにほとんど失われて零戦・艦攻30数機中1機を残すのみとなり、インド洋の潜水艦は1943年末の11隻から1944年4月に4隻、同年8月中旬には1隻を残すのみとなっていた(木村 2001 66-67)。
  26. 26.0 26.1 木村 2001 69
  27. 木村 2001 67-72,107-122
  28. 井上ほか 2010 134
  29. この作戦は、目的を秘すために「"に"号演習」と呼ばれた(木村 2001 72)。
  30. 木村 2001 71-72
  31. 木村 2001 73-74
  32. 木村 2001 73-75
  33. 岩川 1976 172
  34. 木村 2001 75-76
  35. 岩川 1976 172-175
  36. 木村 2001 76-77,108-111,158,243-244
  37. 37.0 37.1 木村 2001 77-78
  38. 木村 2001 311-314
  39. 39.0 39.1 林 1998 103-112
  40. 岩川 1976 174-175,198-202
  41. 岩川 1976 175,191-198
  42. 岩川 1976 175-176,203-209
  43. 木村 2001 271-291
  44. 岩川 1995 182-183
  45. 岩川 (1976 173)は、化学肥料がないので人糞を使用した結果、アメーバ赤痢が流行した、としている。
  46. 木村 2001 78-80
  47. 杉本 2014 33-35
  48. 杉本 2014 35-37
  49. 杉本 2014 37-38
  50. 杉本 2014 38-39
  51. 杉本 2014 39-40
  52. 木村 2001 81-84

参考文献[編集]

  • 杉本 (2014) 杉本雄一郎「日本占領下アンダマン諸島の海軍『慰安所』に関する考察」日本の戦争責任資料センター『季刊 戦争責任研究』No.83、2014年12月、ISSN 1343-7348、32-43頁
  • 井上ほか (2010) 井上亮半藤一利秦郁彦保坂正康『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年、ISBN 978-4532167523
  • 林 (2005) 林博史『BC級戦犯裁判』〈岩波文庫〉岩波書店、2005年、ISBN 4004309522
  • 木村 (2001) 木村宏一郎『忘れられた戦争責任 - カーニコバル島事件と台湾人軍属』青木書店、2001年、ISBN 4250201384
  • 林 (1998) 林博史『裁かれた戦争犯罪 - イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、ISBN 4000009001
  • 岩川 (1995) 岩川隆『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
  • 長崎 (1991) 長崎暢子「自由インド仮政府をめぐって - 第二次世界大戦におけるインド民族運動と日本」『東洋史研究』第50巻第2号、1991年、231-255頁、DOI 10.14989/154363
  • 岩川 (1976) 岩川隆『神を信ぜず - BC級戦犯の墓碑銘』立風書房、1976年、JPNO 77032804