平忠盛

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平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将伊勢平氏庶流。平清盛の父。平氏で初めて昇殿を許された。父は平正盛。烏帽子親は河内源氏の棟梁の源義忠

生涯[編集]

父正盛は白河上皇に仕え、河内源氏の棟梁、源義忠に息女を娶わせるなどして勢力を伸ばした。河内源氏が義忠の死後、衰退するなか源氏の与党を従えつつ忠盛も白河上皇、鳥羽上皇に仕えた。

天永2年(1111年検非違使となる。天永4年(1113年日枝神社の盗賊夏焼大夫を討ち取り、従五位下に叙される。永久元年(1113年永久の強訴に父正盛とともに出動して興福寺の大衆の入京を阻止した。その後、伯耆守となり右馬権頭も兼任する。永久2年、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。

永久5年(1117年)鳥羽天皇に入内した待賢門院政所別当になる。元永2年(1119年)賀茂臨時祭に際して新舞人として仕えた。保安元年(1120年越前となる。在任中、越前国敦賀郡で殺人事件が起こり犯人の日吉社神人を逮捕、検非違使に引き渡す途中で、延暦寺の悪僧が犯人の身柄を奪取したため朝廷は悪僧を捕らえ、延暦寺の強訴が起こる。白河法皇は延暦寺の要求に屈せず、忠盛をかばった。保安2年(1121年)院の昇殿を許される。この頃、修理権大夫・藤原宗兼の娘、宗子(池禅尼)を正室とする。

昇殿[編集]

大治2年(1127年従四位下に叙され、備前守となり左馬権頭も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となった。大治4年(1129年山陽道南海道海賊を追討する。これは、正式な宣旨ではなく院宣検非違使別当宣(別当は待賢門院の兄・三条実行)によるものだった。白河法皇が崩じて、鳥羽上皇が院政をとると御給として忠盛は正四位下に叙される。天承2年(1132年)上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。その功績により内昇殿を許可された。『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たちによる闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって防ぎ、鳥羽上皇から賞される(殿上闇討)。内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇だった。藤原宗忠は「この人の昇殿猶未曾有の事なり」(『中右記』)と評した。鳥羽法皇の寵愛が美福門院に移り藤原家成が院近臣筆頭の地位を確立すると、忠盛は妻の宗子が家成の従兄弟であったことから親密な関係を築いていく。

保延元年(1135年中務大輔に任じられる。西海の海賊を追討について忠盛か源為義が適当か公卿が議し、忠盛が追討使に任じられる。忠盛は海賊を追捕して降伏した者を家人にする。同年、美作守に任じられる。保延5年(1140年)興福寺衆徒の強訴に出動して入京を阻止する。この頃、忠盛は院御厩司から長官である別当になった。忠盛は右馬権頭・左馬権頭を歴任し、宮中の馬を管理する馬寮の職務に携わっていた。職務内容の共通性から馬寮と院御厩の職員を兼ねることは自然なことであり、戦闘における騎馬の重要性からも院御厩別当への就任は軍事貴族である忠盛にとって大きいものだった。天養元年(1144年)正四位上に叙され、尾張守となった。忠盛は鳥羽院庁の四位別当としても活動した。同僚の藤原忠隆は貴族でありながら乗馬の達人で意気投合するところがあったのか、忠隆の子・隆教は忠盛の娘を妻に迎えている。なお、忠隆の妻・栄子は崇徳上皇の乳母であり、忠盛の妻・宗子は崇徳の長子・重仁親王の乳母だった。久安2年(1146年播磨守に任じられる。翌年6月15日、清盛の郎党が祇園社神人と小競り合いを起こし、延暦寺が忠盛・清盛の流罪を要求して強訴を起こした。鳥羽法皇は忠盛の有する軍事的・経済的実力の重要性から藤原頼長の反対を押し切って擁護した。仁平元年(1151年刑部卿となる。仁平3年(1153年)出家して没した。左大臣・藤原頼長は「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ。人となり恭倹、いまだかつて奢侈の行いあらず、時人これを惜しむ」と評した。

忠盛は諸国の受領を歴任したことに加えて、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、平氏政権の礎を築いた。

歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。

関連項目[編集]