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'''吉田 知行'''(よしだ ともつら/ともゆき、[[1844年]][[2月9日]]-[[1913年]][[5月22日]])とは、日本の武士である。幕末・[[明治]]期の[[尾張藩]]士、[[尾張徳川家]]の家職。同家の当主・[[徳川慶勝]]の命により[[北海道]]の開墾地を調査して遊楽部(のちの[[八雲町]])を選定し、1878年から開拓委員として現地で開墾に携わった。1883年に同家の家令となり、当主・[[徳川義礼]]とともに欧州へ留学。帰国後、八雲に西欧酪農を導入した。晩年は愛知郡[[長久手村]]で暮らした。
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'''吉田 知行'''(よしだ ともつら/ともゆき、[[1844年]][[2月9日]]-[[1913年]][[5月22日]])は、幕末・[[明治]]期の[[尾張藩]]士、[[尾張徳川家]]の家職。同家の当主・[[徳川慶勝]]の命により[[北海道]]の開墾地を調査して遊楽部(のちの[[八雲町]])を選定し、1878年から開拓委員として現地で開墾に携わった。1883年に同家の家令となり、当主・[[徳川義礼]]とともに欧州へ留学。帰国後、八雲に西欧酪農を導入した。晩年は愛知郡[[長久手村]]で暮らした。{{先編集者|由亜辺出夫}}
  
 
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=== 参考文献 ===
 
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*{{Aya|香山|year=2015}} [[香山里絵]]「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
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*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
 
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
 
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
 
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
 
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563

2018年6月26日 (火) 23:22時点における版

吉田 知行(よしだ ともつら/ともゆき、1844年2月9日-1913年5月22日)は、幕末・明治期の尾張藩士、尾張徳川家の家職。同家の当主・徳川慶勝の命により北海道の開墾地を調査して遊楽部(のちの八雲町)を選定し、1878年から開拓委員として現地で開墾に携わった。1883年に同家の家令となり、当主・徳川義礼とともに欧州へ留学。帰国後、八雲に西欧酪農を導入した。晩年は愛知郡長久手村で暮らした。先編集者由亜辺出夫


経歴

天保14年12月21日(1844年2月9日)、名古屋で、尾張藩士の父・知紀と母・林氏の間に生まれる[1]

1877年(明治10年)7月、尾張徳川家の当主・徳川慶勝により、北海道の開墾地選定のため調査に派遣され、約3ヶ月間踏査。この調査を受けて、尾張徳川家は、明治維新政府から開墾地として遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の下付を受けた。[2]

1878年7月、開拓委員として現地に派遣され、道路の開削や家屋の建築等を担当。同年11月に開墾地への移住が開始された。[2]

1883年(明治16年)、尾張徳川家の家令となり、上京。開拓委員は海部昂蔵と交代した。[3]

1884年(明治17年)頃、徳川義礼野呂景義堀鉞之丞らと英国ロンドンへ留学[4]。3年間遊学した後、帰国[1]

英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した[5]

1900年(明治33年)、退職し、吉田氏の旧領があった愛知郡長久手村岩作で暮らす[1]

晩年、胃癌を患い、死去の前に本人の希望により北海道・八雲村に移る。1913年(大正2年)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。[1]

付録

関連文献

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 都築 1917 351
  2. 2.0 2.1 大石 1994 98-99
  3. 大石 1994 126 - 「八雲村徳川家農場沿革略」徳川林政史研究所所蔵『北海道八雲史料』による。
  4. 長沼 2015 84-85
  5. 長沼 2015 84 - 藤田 (2010 )による。

参考文献