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Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-03-29T00:14:18Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.25.1
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利用者・トーク:パラボナ
2018-06-27T14:32:14Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>== 私が執筆した記事を無断で編集しないでください。 ==<br />
<br />
こんにちは。これまでにパラボナさんが行った編集は、全て私の意思に反しています。以後、私が執筆した記事を無断で編集するのは、止めてください。--[[利用者:由亜辺出夫|由亜辺出夫]] ([[利用者・トーク:由亜辺出夫|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 03:12 (CDT)<br />
<br />
先編集権のテンプレートを貼らないとわかりません。先編集権のテンプレートが貼られた記事は、無断で編集していません。--[[利用者:パラボナ|パラボナ]] ([[利用者・トーク:パラボナ|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 09:23 (CDT)<br />
<br />
先編集権の後出しは止めてください。執筆した記事を無断で編集されたくなければ、最初から先編集権を主張してください。--[[利用者:パラボナ|パラボナ]] ([[利用者・トーク:パラボナ|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 09:30 (CDT)</div>
パラボナ
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利用者・トーク:パラボナ
2018-06-27T14:30:47Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>== 私が執筆した記事を無断で編集しないでください。 ==<br />
<br />
こんにちは。これまでにパラボナさんが行った編集は、全て私の意思に反しています。以後、私が執筆した記事を無断で編集するのは、止めてください。--[[利用者:由亜辺出夫|由亜辺出夫]] ([[利用者・トーク:由亜辺出夫|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 03:12 (CDT)<br />
<br />
先編集権のテンプレートを貼らないとわかりません。先編集権のテンプレートは、無断で編集していません。--[[利用者:パラボナ|パラボナ]] ([[利用者・トーク:パラボナ|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 09:23 (CDT)<br />
<br />
先編集権の後出しは止めてください。。執筆した記事を無断で編集されたくなければ、最初から先編集権を主張してください。--[[利用者:パラボナ|パラボナ]] ([[利用者・トーク:パラボナ|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 09:30 (CDT)</div>
パラボナ
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処暑
2018-06-27T14:27:52Z
<p>パラボナ: 台風の内容は私が先編集権を先に主張した</p>
<hr />
<div>'''処暑'''(しょしょ)は[[二十四節気]]の一つ。[[西暦]]の[[8月23日]]頃。暑さが終わる、という意味らしい。<br />
<br />
[[台風]]襲来の特異日とされている<ref>「生活たのしみ隊」の本</ref>。{{先編集者|パラボナ}}<br />
<br />
2017年8月23日には[[日本]]に台風は来なかった<ref>[http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/position_table/table2017.html 気象庁ホーム > 各種データ・資料 > 過去の台風資料 > 台風位置表 > 2017年] 2017年8月26日閲覧</ref>。<br />
<br />
{{先編集者|由亜辺出夫}}<br />
== 参考文献 ==<br />
*生活たのしみ隊(編)伊藤美樹(絵)『くらし歳時記』成美堂出版、2016年、p.119。<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
{{DEFAULTSORT:しよしよ}}<br />
[[Category:二十四節気]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E6%86%B2&diff=356429
鶴見憲
2018-06-27T14:25:11Z
<p>パラボナ: 私が先編集権を主張した内容が消されたので差し戻し</p>
<hr />
<div>'''鶴見 憲'''(つるみ けん、[[1895年]][[4月7日]] - [[1984年]][[8月18日]])は、昭和時代戦前の日本の[[外交官]]。[[太平洋戦争]]開戦前の1940年11月から在[[シンガポール]]日本総領事を務め、宣伝工作・民族工作を積極的に推進したことで知られる。[[日本軍]]による占領時期に[[マラッカ州]]の州長官を務め、戦後の1945年-1947年に[[熱海市]]長を務めた。{{先編集者|由亜辺出夫}}<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
1895年4月7日、[[群馬県]][[多野郡]][[新町 (群馬県)|新町]]で、官営・[[新町紡績所]]の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の7男(10人きょうだいの末子)として生まれる{{Sfn|石塚|2010|pp=17,20,23。父の先祖は岡山県[[備中松山城]]の家老・[[鶴見内蔵助]]。母は大阪の商人の娘で、名前は「古都」とも。}}。一家は1895年9月に東京・[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]、1896年1月に父の郷里・[[岡山]]、1899年夏に[[名古屋]]舎人町26へ転居{{Sfn|石塚|2010|pp=20-22}}。<br />
<br />
1900年4月、鶴見が5歳のときに母・琴子が病死{{Sfn|石塚|2010|p=23}}。一家は1901年に[[小田原市]]十字町4丁目へ転居したが、この頃父・良憲の事業は行き詰まり、家計は次第に逼迫していった{{Sfn|石塚|2010|p=24}}。<br />
<br />
1906年に父・良憲が小田原で死去{{Sfn|石塚|2010|pp=11,12}}。鶴見は東京へ転居し、伯父の[[本尾敬三郎|本尾家]]と長姉・敏子の嫁ぎ先の[[廣田理太郎|廣田家]]の支援を受け、学業を継続した{{Sfn|石塚|2010|pp=12,31}}。<br />
<br />
[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]から[[東京大学|東大]]に進学{{Sfn|石塚|2010|p=107}}。1921年に同大学政治学科を卒業{{Sfn|人事興信所|1941}}、外交官となる{{Sfn|石塚|2010|p=97}}。<br />
<br />
=== 外交官 ===<br />
1922年に[[天津]]総領事館へ赴任{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|石塚|2010|p=97は、1924年に大学を卒業し外交官となった、としている。}}。[[ロサンゼルス]]領事館、[[ワシントンD.C.]]の大使館勤務を経て東京の[[外務省]]本省へ帰任{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
*1925年秋には、米国を遊説旅行中の兄・[[鶴見祐輔|祐輔]]がロサンゼルス領事館の鶴見夫妻を訪問した{{Sfn|石塚|2010|p=103}}。<br />
<br />
1932年、[[満州]]に赴任、駐[[満州国]]日本大使館1等書記官{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
(いつ?)在米国[[オレゴン州]][[ポートランド]]日本領事{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
1937年、在[[ハルピン]]日本総領事{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
(いつ?)在[[上海]]日本大使館1等書記官{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
1940年11月、在[[シンガポール]]日本総領事{{Sfn|人事興信所|1941|loc=1940年10月付での転任としている。}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03|loc= 同月2日に上海からシンガポールに着任。}}。シンガポール日本総領事時代には、[[外務機密費]]を支出して、[[同盟通信|同盟]]記者[[飼手誉四]]を通じて{{仮リンク|マレー青年同盟|ms|Kesatuan Melayu Muda}}の[[イブラヒム・ヤコブ]]らにマレー語新聞『{{仮リンク|ワルタ・マラユ|ms|Warta Malaya}}』(のちの『[[マライ・ニュース]]』)を買収させ反英運動を助長するなど、[[大東亜共栄圏]]の理念の宣伝工作とインドネシア独立に関する民族工作を積極的に展開した{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|篠崎|1981|pp=173-174}}{{Sfn|鶴見|1986|p=292。同書によると、鶴見は息子の[[鶴見良行]]に対して、新聞社買収資金の支出は記憶になく、担当したのは総領事館員を装っていた陸軍少佐だろう、と述べていた。{{Harvtxt|篠崎|1981|p=174}}には、鶴見が総領事の時代に陸軍参謀・[[鹿子島隆]]少佐が総領事館に入ってきた旨の記述がある。}}。<br />
=== 司政長官 ===<br />
1942年3月7日 [[マラッカ州]][[マライ軍政監部|長官]](-1944年5月5日){{Sfn|フォーラム|1998|p=664}}{{Sfn|中沢|1981|p=372}}{{Sfn|石塚|2010|p=221は、1944年頃に司政長官に就任した、としている。}}。<br />
<br />
1945年4月、空襲で東京の自宅が焼損{{Sfn|石塚|2010|p=226}}。<br />
<br />
=== 戦後 ===<br />
1945年10月、[[熱海市]]長に就任し、1947年4月まで在任{{Sfn|石塚|2010|pp=224,229}}。<br />
<br />
1984年8月18日に死去<ref>日外アソシエーツ株式会社『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ、2012年、823頁</ref>。<br />
<br />
== 家族 ==<br />
妻・英子は[[藤田譲]]の長女{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
* [[鶴見祐輔]]は兄{{Sfn|石塚|2010|p=17}}。<br />
* [[鶴見定雄]]は兄{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
* [[鶴見良行]]は子{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}<br />
* [[鶴見俊輔]]は[[親戚]]{{先編集者|パラボナ}}。<br />
<br />
== 趣味 ==<br />
*運動・読書{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
== 付録 ==<br />
=== 関連文献 ===<br />
*北岡(1975) 北岡寿逸『友情の人‐鶴見祐輔先生』私家版、1975年<br />
*東京朝日新聞(1942) 「シンガポール座談会(1~8)」『東京朝日新聞』1942.1.24-1942.2.1、[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501986&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア諸国(10-024)]<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|石塚|year=2010}} 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、2010年、ISBN 9784876019120<br />
*{{Aya|フォーラム|year=1998}} 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 : 1941~45年 : インタビュー記録』龍溪書舎〈南方軍政関係史料33〉、1998年、ISBN 4844794809<br />
*{{Aya|鶴見|year=1986}} 鶴見良行『マラッカ物語』時事通信社、1986年、ISBN 4788781247<br />
*{{Aya|篠崎|year=1981}} 篠崎護(述)「篠崎護氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、1981年、{{NCID|BN1303760X}}、pp.169-213<br />
*{{Aya|中沢|year=1981}} 中沢欽一郎(述)「中沢欽一郎氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室|title = 『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、1981年、{{NCID|BN1303760X}}、pp.365-385<br />
*{{Aya|人事興信所|year=1941}} 『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年、ツ55頁、{{NDLJP|1070514/212}}。<br />
*{{Aya|The Straits Times|date=1940-11-03}} '[http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19401103-1.1.9.aspx New Japanese Consul Arrives - MR. K. TSURUMI ON JAPAN'S AIM],' The Straits Times、p.9、1940年11月3日、2017年9月18日閲覧。<br />
<br />
{{在シンガポール日本大使|1940年-1942年|総領事}}<br />
{{熱海市長}}<br />
{{デフォルトソート:つるみ けん}}<br />
[[Category:戦前日本の外交官]]<br />
[[Category:熱海市長]]<br />
[[Category:陸軍司政官]]<br />
[[Category:日星関係]]<br />
[[Category:日本占領下のマレーシア]]<br />
[[Category:鶴見家|けん]]<br />
[[Category:群馬県出身の人物]]<br />
[[Category:1895年生]]<br />
[[Category:1984年没]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%8A&diff=356428
利用者・トーク:パラボナ
2018-06-27T14:23:16Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>== 私が執筆した記事を無断で編集しないでください。 ==<br />
<br />
こんにちは。これまでにパラボナさんが行った編集は、全て私の意思に反しています。以後、私が執筆した記事を無断で編集するのは、止めてください。--[[利用者:由亜辺出夫|由亜辺出夫]] ([[利用者・トーク:由亜辺出夫|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 03:12 (CDT)<br />
<br />
先編集権のテンプレートを貼らないとわかりません。先編集権のテンプレートは、無断で編集していません。--[[利用者:パラボナ|パラボナ]] ([[利用者・トーク:パラボナ|トーク]]) 2018年6月27日 (水) 09:23 (CDT)</div>
パラボナ
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熱海駅
2018-06-27T07:12:20Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''熱海駅'''(あたみえき)は、[[静岡県]][[熱海市]][[田原本町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[鉄道駅|駅]]である。<br />
<br />
== 概要 ==<br />
当駅は、静岡県東部に位置する[[温泉街]]熱海市の代表駅である。<br />
<br />
JR東海に所属する[[東海道新幹線]]と、JR東日本およびJR東海に所属する[[東海道本線]]、JR東日本に所属する[[伊東線]]の合計3線が乗り入れる。在来線における当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]は東海道本線である<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>。<br />
<br />
[[東京駅|東京]]方面から見た場合、静岡県に入って最初の駅である(新幹線・在来線とも)。JR東日本とJR東海の[[共同使用駅]]であり、新幹線構内は[[東海旅客鉄道新幹線鉄道事業本部|JR東海新幹線鉄道事業本部]]が管理し、在来線構内は[[東日本旅客鉄道横浜支社|JR東日本横浜支社]]が管理・駅業務を実施する。<br />
<br />
駅の開業は[[1925年]]([[大正14年]])3月である。開業当初は[[国府津駅]]を起点とする熱海線の[[終着駅]]であったが、[[1934年]]([[昭和9年]])12月に当駅西側の熱海 - [[沼津駅|沼津]]間が開業し、東海道本線の中間駅となった。伊東線は翌年の[[1935年]]([[昭和10年]])3月から乗り入れている。東海道新幹線の熱海駅は、同線が開業した[[1964年]]([[昭和39年]])10月から存在する12駅のうちの一つである。<br />
<br />
[[1987年]]3月まで、これらの路線はすべて[[日本国有鉄道]](国鉄)の路線であったが、同年4月の[[国鉄分割民営化]]によって、在来線は当駅がJR東日本とJR東海の[[会社境界駅]]となり、東海道本線の当駅以東(東京方面)と伊東線はJR東日本、東海道本線の当駅以西(静岡方面)はJR東海の管轄となった。鉄道資産の境界は駅構内ではなく[[丹那トンネル]]東側坑口付近にある[[来宮駅]]上り場内信号機(来宮駅北西)である。<br />
<br />
在来線ではJR東日本の[[熱海運輸区]]が構内に存在するなど運行上の拠点でもあるため、当駅を経由するすべての[[旅客列車]]が客扱い停車していたが、[[2009年]]([[平成21年]])[[3月14日]]のダイヤ改正で臨時列車とされた「[[ムーンライトながら]]」は[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]扱いとなった。[[特別急行列車|特急列車]]や一部[[普通列車]](朝夕の沼津駅発着列車など)を除く大半の列車が当駅で系統が分離されている。<br />
<br />
JR東海の管轄となっている新幹線は、各駅停車の「[[こだま (列車)|こだま]]」と、[[東京駅|東京]] - [[岡山駅|岡山]]間の「[[ひかり (列車)|ひかり]]」が1日3往復停車している。<br />
<br />
東海道本線は当駅を境に管轄会社が異なっているが、当駅では両方向とも「東海道線」(上り・下りの表記もあり)と案内されている。本稿でも必要に応じて、その案内方式に準じた表記も用いる。<br />
<!--「利用可能な鉄道路線」の内容は記述済み --><br />
<br />
IC乗車券「[[Suica]]」対応[[自動改札機]]も設置されているが、当駅で乗車・下車する場合は東海道本線の湯河原方か伊東線からのみ利用可能である。また、当駅から東海道本線の函南方に関しては、[[2008年]]([[平成20年]])3月1日よりSuicaとの相互利用が可能なIC乗車券「[[TOICA]]」が導入されたが、その利用エリアは当駅までではなく西隣の函南駅以西となっており、当駅と函南駅間(を含む経路の場合)は両方向ともIC乗車券のサービスエリア外となる。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
東海道本線は当初、小田原 - 熱海 - 三島の山岳地帯に[[トンネル]]を開削する技術がなかったこともあり、後の[[御殿場線]]ルートで建設された。そのルートから外れた小田原・熱海では、[[国府津駅]]より[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原電気鉄道]]という[[路面電車]]で小田原市街へ、さらに[[熱海鉄道|豆相人車鉄道→熱海鉄道]]→[[大日本軌道]]→熱海軌道組合の[[人車軌道]]・[[軽便鉄道]]により熱海まで連絡を図った。<br />
<br />
その後、御殿場経由は急勾配が存在し輸送力増強の障壁になることや、トンネル掘削の技術が進展したことなどから、当初見送られた熱海経由での路線整備が決定する。そして[[1925年]](大正14年)、熱海線として、熱海駅まで鉄道路線が開業して路面電車や軽便鉄道は全廃。[[1934年]]([[昭和]]9年)、[[丹那トンネル]]が開通すると熱海線は東海道本線となった。<br />
<br />
=== 年表 ===<br />
* [[1895年]]([[明治]]27年) - 吉浜(現湯河原町内)まで豆相人車鉄道開通(翌年小田原延伸)。<br />
* [[1907年]](明治40年) - 豆相人車鉄道改め熱海鉄道により、小田原 - 熱海で蒸気機関車運転開始。<br />
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]] - [[関東大震災]]のため、熱海鉄道より改めた熱海軌道組合線休止(後に廃止)。<br />
* [[1925年]](大正14年)[[3月25日]] - [[鉄道省]]([[日本国有鉄道]]の前身組織)により、'''熱海駅'''が開業(熱海線 湯河原 - 熱海間の開通と同時)。旅客・貨物営業を開始。<br />
* [[1934年]]([[昭和]]9年)[[12月1日]] - 熱海 - 沼津間の開通に伴い、熱海線は東海道本線に編入される。<br />
* [[1935年]](昭和10年)[[3月30日]] - 伊東線 熱海 - [[網代駅|網代]]間が開通。<br />
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]] - 東海道新幹線が開業し、停車駅となる。<br />
* [[1966年]](昭和41年)9月1日 - 貨物の取扱を廃止。<br />
* [[1974年]](昭和49年) - 新幹線ホームに可動柵を設置。<br />
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]] - [[チッキ|荷物]]の取扱を廃止。<br />
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] - [[国鉄分割民営化]]により、当駅を境に東海道本線(東京方面)・伊東線はJR東日本、東海道本線(静岡方面)・東海道新幹線はJR東海が継承。駅業務は在来線がJR東日本、東海道新幹線はJR東海が継承。<br />
* [[2001年]]([[平成]]13年)[[11月18日]] - JR東日本でICカード[[Suica]]供用開始。<br />
* [[2006年]](平成18年) - 伊東線のCTC装置が当駅構内の進路制御も可能な装置に更新され、CTCセンターが[[来宮駅]]構内より当駅に移転。<br />
* [[2010年]](平成22年)[[3月31日]] - 熱海ラスカが閉鎖。12月下旬に解体工事が完了。<br />
* [[2011年]](平成23年)<br />
** 4月-9月 - 熱海駅バスターミナルにおいて、仮バス停の使用開始(4月1日から)。解体工事。<br />
** 11月 - 仮駅舎完成、[[11月10日]]に一部使用開始。([[NEWDAYS]]ミニ熱海・[[BECK'S COFFEE SHOP]]熱海店)<br />
** [[12月1日]] - [[ドトールコーヒー]]熱海店閉店。熱海観光案内所移動開設。<br />
* [[2012年]](平成24年)<br />
** [[1月10日]] - 旧ドトールコーヒー熱海店横にあった旅客トイレが1番線ホーム東京方へ移動。これに伴い[[静岡県警]][[鉄道警察隊]]熱海分駐所も移動。<br />
** [[2月15日]] - 駅前広場の改良工事再開。<br />
** [[8月25日]] ‐ 足湯裏の[[コインロッカー]]が使用停止。後日撤去された。<br />
* [[2013年]](平成25年)<br />
** [[3月15日]]-バス乗り場、タクシープール完成。供用開始<br />
** [[12月12日]] ‐ [[熱海軽便鉄道]]の7号機関車の移送作業が行われる。<br />
<br />
== 駅構造 ==<br />
JR東日本が管轄する在来線駅(東海道本線・伊東線)、JR東海が管轄する新幹線駅ともに[[地上駅]]である。<br />
<br />
=== 在来線 === <br />
乗降設備は[[プラットホーム#形状と配置|単式ホーム]]1面1線と[[プラットホーム#形状と形状|島式ホーム]]2面4線、合計3面5線のホームが設けられている。構内の南側に単式ホームがあり、その北側に島式ホームが並ぶ。ホームの番号は、単式ホーム側から1番線・2番線…の順で、5番線まである。そのうち、2番線が下り[[停車場#本線|本線]]、5番線が上り本線となっている。なお、JR東日本の管理駅である都合上、JR東海が利用できるのは1線のみであり、そのため大雨等でダイヤが乱れた際は、[[沼津駅]]方面からの列車がホームに入線できないため沼津駅や[[東田子の浦駅]]で打ち切りになることもしばし発生する。<br />
<br />
駅舎は1番線に隣接する場所に設置されている。2010年3月31日までは[[駅ビル]]の「[[熱海ラスカ]]」が併設されていた。[[改札|改札口]]は駅舎内の1か所のみで、改札口から各ホームに直結する地下道が存在する。改札外にはJR東日本が営業する[[みどりの窓口]]に加え、[[駅レンタカー]]営業所と[[スルガ銀行]]のATMが設置されている。観光案内所もあり、2007年5月からは[[エフエム熱海湯河原]]のサテライトスタジオも併設されていたが、2011年12月1日より観光案内所はサテライトスタジオと共に仮駅舎に移動した。毎週土・日曜に公開生放送が行われている。<ref>[http://www.ciao796.com/information/infomation.html '07/05/17 熱海駅にサテライトスタジオ開設]</ref>。<br />
<br />
飲食施設は1番線東京寄りにJTS運営の「駅そば」、4・5番線沼津寄りにNRE運営の「熱海そば」がある。<br />
<br />
構内に熱海[[列車集中制御装置|CTC]]センター([[熱海運輸区]]の管理下)がある。JR東日本東海道本線の[[東京駅]] - [[湯河原駅]]間では[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) が導入されているが、当駅・来宮駅ならびに伊東線の運行管理・進路制御は熱海CTCセンターで行っている。そのため[[駅自動放送]]は1992年から使用されている古いタイプ([[駅自動放送#東海道型放送|東海道型]])となっている。<br />
<br />
==== のりば ====<br />
{|class="wikitable"<br />
!番線!!路線!!方向!!行先!!備考<br />
|-<br />
!1<br />
|{{Color|#f68b1e|■}}伊東線<br />
| style="text-align:center" | -<br />
|[[伊東駅|伊東]]・[[伊豆急下田駅|伊豆急下田]]方面<br />
| 普通(当駅始発は1本を除きこのホーム)<br />
|-<br />
! rowspan="2" | 2・3<br />
|{{Color|#f68b1e|■}}東海道線<br />
| style="text-align:center" | 下り<br />
|[[三島駅|三島]]・[[沼津駅|沼津]]・[[静岡駅|静岡]]・[[浜松駅|浜松]]方面<br />
| 一部は4番線から発車<br />
|-<br />
|{{Color|#f68b1e|■}}伊東線<br />
| style="text-align:center" | -<br />
| 伊東・伊豆急下田方面<br />
| 特急と一部の普通<br />
|-<br />
!4・5<br />
|{{Color|#f68b1e|■}}東海道線<br />
| style="text-align:center" | 上り<br />
|[[小田原駅|小田原]]・[[大船駅|大船]]・[[横浜駅|横浜]]・[[川崎駅|川崎]]・[[東京駅|東京]]方面<br />
| 一部は3番線から発車<br />
|}<!-- 上記の行先は現地のLED案内標に準拠 ---><br />
<br />
* 在来線はJR東日本とJR東海の境界駅であり、両社線を直通する普通列車は[[2004年]]10月のダイヤ改正で大幅に削減され、朝夕の通勤時間帯と夜間を除いて当駅で乗り換えが必要となっている。乗り換え時間が短い場合でも、同一ホームではないケースも少なくない。<br />
<br />
=== 新幹線 ===<br />
新幹線乗降設備は待避線のない[[プラットホーム#形状と配置|相対式ホーム]]2面2線の構造である。番号は南側(在来線ホーム側)から6番線・7番線の順。山肌に沿った高い位置にホームがあり、列車通過の際に危険がないように[[ホームドア#新幹線|ホーム可動柵]]が設置されている。可動柵は[[1974年]](昭和49年)に設置されたが、老朽化のため、上りホームは2011年12月、下りホームは2012年7月に取り替えられ、開口幅や扉の位置も変更された<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/nws000656.html 【社長会見】熱海駅設置のホーム可動柵の取り替えについて] - 東海旅客鉄道</ref>。当駅はスペースの都合で[[待避駅|待避線]]が設置されなかったため、ダイヤ作成上のネックとなっている。また、当駅付近は大都市部を除くと新幹線有数の急カーブとなっており、列車の通過速度は185km/hに制限される。この速度は、東海道新幹線の駅通過速度としては最も遅い。<br />
<br />
JR東日本の地下道とJR東海新幹線コンコースの間には、乗換改札が設置されている。乗換改札口はかつて2か所あり、東京方は入口・出口兼用、新大阪方は出口専用だったが、[[1997年]](平成9年)のリニューアル工事で改札口が1か所に集約された。新幹線乗換口の在来線側にはJR東海が営業するみどりの窓口がある。地形の関係上、新幹線独自の改札口は設けられておらず、JR東海の新幹線改札内へはJR東日本の在来線駅構内を経由しなければならない構造となっているため、JR東海のみが扱うの乗車券・サービスを受ける旅客はJR東日本の改札口で「熱海駅構内通過票」の交付を受けた上で、JR東海のみどりの窓口まで出向く必要がある。[[エクスプレス予約#EX-IC(エクスプレスIC)サービス|EX-ICカード]]や[[プラスEX|プラスEXカード]]を所持している場合は、Suicaなどの都市圏のICカードをJR東日本の[[自動改札機]]にタッチさせた上で、新幹線の自動改札機に都市圏のICカードとEX-ICカードまたはプラスEXカードを2枚重ねてタッチすることで、新幹線ホームへの入出場が可能となっている。<br />
<br />
==== のりば ====<br />
{|class="wikitable"<br />
!番線!!路線!!方向!!行先<br />
|-<br />
!6<br />
| [[File:Shinkansen blue.svg|17px|■]]東海道新幹線<br />
| style="text-align:center" | 下り<br />
|[[名古屋駅|名古屋]]・[[新大阪駅|新大阪]]方面<br />
|-<br />
!7<br />
| [[File:Shinkansen blue.svg|17px|■]]東海道新幹線<br />
| style="text-align:center" | 上り<br />
| [[新横浜駅|新横浜]]・東京方面<br />
|}<!-- 上記の行先は現地のLED案内標に準拠 ---><br />
<br />
=== 駅舎の建替え ===<br />
駅舎は老朽化が著しいことから、建替え工事が予定されている。<br />
<br />
駅ビル[[ラスカ]]は2010年3月31日をもって店舗を閉鎖し、同年7月から建物の取り壊し工事を行い、2010年11月まで行われた。これに伴い、熱海市では駅前の整備事業を行い、バスターミナルは2層化され、現タクシーのりばは一般車の駐車場とする予定である。桃山方面へ向かう桃山ガードの連絡道も伊東線沿いに付け替えられる。<br />
<br />
[[2011年]]7月下旬より駅前広場、仮駅舎設置工事は本格化し、仮駅舎はすでに完成し、一部が使用されている。仮駅舎には[[NEWDAYS]]と[[BECK'S COFFEE SHOP]]、熱海観光案内所(熱海コンシェルジェ)と熱海ブランド『A-PLUS』専門店が入居している。<br />
<br />
熱海駅開発工事の主体である駅舎建て替え等開発工事の事業者、[[JR東日本]]のファクトシート([[2012年]][[7月]]発行)によると、熱海駅はオフィス・ショッピング部門での開発が明記されているが、駅デザインなど具体的なことは明らかになっていない。<br />
<br />
==== 今後の主な予定 ====<br />
ここでは、駅舎本体と駅前広場についての今後予定を扱う。<br />
* 駅舎<br />
事業着手は[[2014年]][[4月1日]]とされていて、完成は[[2015年]]度の完成予定である。<br />
<br />
今の所明らかになっている点は、[[JR東日本]]の保養所であったいでゆ荘の跡地に70台収容可能な駐車場を建設する。<br />
<br />
* 駅前整備事業<br />
2012年2月15日 - 翌3月23日 : [[バスターミナル]]・タクシープール2層化工事・桃山ガード連絡道整備工事。<br />
<br />
== 駅弁 ==<br />
主な駅弁は下記の通り<ref>JR時刻表2010年8月号(交通新聞社刊)151ページ </ref>。<br />
<br />
* たいめし<br />
* 桜海老とじゃこの海物語<br />
* デラックスこゆるぎ弁当<br />
* 特選小鯵押寿司<br />
* 金目鯛炙り寿司<br />
* 牛そぼろときのこの山物語<br />
* とん漬弁当<br />
<br />
== 利用状況 ==<br />
「静岡県統計年鑑」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。<br />
{| class="wikitable" style="text-align:right;"<br />
|-<br />
!年度<br />
!JR東日本<br />
!JR東海<br />
|-<br />
|1993年(平成{{0}}5年)<br />
|13,225<br />
|6,790<br />
|-<br />
|1994年(平成{{0}}6年)<br />
|12,942<br />
|6,590<br />
|-<br />
|1995年(平成{{0}}7年)<br />
|12,325<br />
|6,460<br />
|-<br />
|1996年(平成{{0}}8年)<br />
|12,091<br />
|6,330<br />
|-<br />
|1997年(平成{{0}}9年)<br />
|11,485<br />
|5,980<br />
|-<br />
|1998年(平成10年)<br />
|11,080<br />
|5,510<br />
|-<br />
|1999年(平成11年)<br />
|10,539<br />
|5,220<br />
|-<br />
|2000年(平成12年)<br />
|10,181<br />
|5,000<br />
|-<br />
|2001年(平成13年)<br />
|10,066<br />
|4,929<br />
|-<br />
|2002年(平成14年)<br />
|9,606<br />
|4,722<br />
|-<br />
|2003年(平成15年)<br />
|9,498<br />
|4,794<br />
|-<br />
|2004年(平成16年)<br />
|9,486<br />
|4,762<br />
|-<br />
|2005年(平成17年)<br />
|9,592<br />
|4,915<br />
|-<br />
|2006年(平成18年)<br />
|9,607<br />
|5,000<br />
|-<br />
|2007年(平成19年)<br />
|9,657<br />
|5,001<br />
|-<br />
|2008年(平成20年)<br />
|9,905<br />
|4,906<br />
|-<br />
|2009年(平成21年)<br />
|9,670<br />
|4,481<br />
|-<br />
|2010年(平成22年)<br />
|9,272<br />
|4,346<br />
|-<br />
|2011年(平成23年)<br />
|8,871<br />
|4,203<br />
|-<br />
|2012年(平成24年)<br />
|9,239<br />
|4,260<br />
|-<br />
|2013年(平成25年)<br />
|9,499<br />
|<br />
|-<br />
|}<br />
<br />
== 駅周辺 ==<br />
[[国際観光文化都市]]熱海市の主要部である熱海市市街地の北側に立地し、駅前には[[熱海温泉]]のホテル・旅館・[[土産|みやげ物]]店が立ち並ぶ。駅前広場には[[足湯]](利用可能時間は9:00-16:00)があり、その横に[[熱海鉄道]]の[[蒸気機関車]]が[[静態保存]]されている。<br />
<br />
※2014年5月現在、駅前広場の足湯は駅前整備事業のため休止中。足湯再開予定は2014年6月29日以降。足湯に併設されていた駅前[[間歇泉]]は2014年1月に撤去された。<br />
同時に[[軽便鉄道]][[機関車]]も2014年1月に駅前商店街前に移動。<br />
<br />
* 熱海第一ビル - 計画中止となった[[未成線]]の[[熱海モノレール]]駅予定地が地下3階に残っている。<br />
** 熱海[[公共職業安定所]](ハローワーク熱海、熱海第一ビル4階)<br />
* 熱海[[簡易裁判所]]<br />
* [[静岡家庭裁判所]]熱海出張所<br />
* 熱海[[区検察庁]]<br />
* 熱海駅前[[郵便局]]<br />
* 熱海サンビーチ<br />
* [[お宮の松]]<br />
* [[国際医療福祉大学]]熱海病院<br />
* [[MOA美術館]]<br />
※熱海市役所や熱海税務署は[[来宮駅]]が最寄り駅である。<br />
<br />
== バス路線 ==<br />
=== 路線バス ===<br />
[[伊豆東海バス]]、[[伊豆箱根バス]]が運行している。<br />
2002年までは[[箱根登山バス]]も路線を有していた(同年10月1日をもって全ての路線を伊豆東海バスに継承)。現在最新のデータに編集中。<br />
<br />
{| class="wikitable"<br />
!colspan="2"|乗り場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行会社!!備考<br />
|-<br />
|rowspan="18"|熱海駅||rowspan="2"|1||&nbsp;||梅園・相の原団地||相の原団地||nowrap|[[伊豆箱根バス]]||<br />
|-<br />
|&nbsp;||熱海駅~清水町~熱海駅(循環)||熱海駅||[[伊豆箱根バス]]||<br />
|-<br />
|rowspan="3"|2||&nbsp;||海岸・清水町・笹良ヶ台団地上(循環線)||熱海駅||[[伊豆箱根バス]]||<br />
|-<br />
|&nbsp;||海岸・梅園入口・十国峠入口||元箱根||[[伊豆箱根バス]]||土曜休日は箱根関所跡止<br />
|-<br />
|&nbsp;||||||||<br />
|-<br />
|rowspan="1"|3||&nbsp;||清水町||ひばりが丘・上の山||[[伊豆東海バス]]||一部紅葉ヶ丘止<br />
|-<br />
|rowspan="3"|4||&nbsp;||お宮の松・天神町・紅葉ヶ丘||ひばりヶ丘||伊豆東海バス||<br />
|-<br />
|&nbsp;||お宮の松・天神町・紅葉ヶ丘||小嵐中学正門前||伊豆東海バス||平日朝運転<br />
|-<br />
|&nbsp;||お宮の松・天神町||上の山||伊豆東海バス||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|5||&nbsp;||お宮の松・市役所前・来の宮神社前・[[伊豆箱根鉄道十国鋼索線|十国峠登り口]]・[[箱根関|箱根関所跡]]||[[箱根園]]||伊豆箱根バス||<br />
|-<br />
|&nbsp;||お宮の松・市役所前・来の宮神社前||笹良ヶ台団地上||伊豆箱根バス||<br />
|-<br />
|rowspan="1"|6||&nbsp;||&nbsp;||[[MOA美術館]]||伊豆東海バス||<br />
|-<br />
|rowspan="1"|7||&nbsp;||お宮の松・熱海港||熱海後楽園||伊豆東海バス<br />伊豆箱根バス||<br />
|-<br />
|rowspan="3"|8||&nbsp;||お宮の松・錦ヶ浦・[[網代駅|網代駅口]]・網代旭町||弘法滝藤哲||伊豆東海バス||朝夕の一部を除き網代旭町止<br />
|-<br />
|&nbsp;||咲見町・天神町・錦ヶ浦・網代駅口・網代旭町||弘法滝藤哲||伊豆東海バス||朝の一部を除き網代旭町止<br />
|-<br />
|&nbsp;||咲見町・天神町||桜ヶ丘||伊豆東海バス||<br />
|-<br />
|rowspan="2"|0||&nbsp;||お宮の松・[[熱海城]]・市役所前・来宮駅||熱海駅||[[湯〜遊〜バス]]||<br />
|-<br />
|&nbsp;||MOA美術館・伊豆山||熱海駅||湯〜遊〜バス||<br />
|}<br />
<br />
== 隣の駅 ==<br />
<!-- 普通列車はしょっちゅう直通するわけではないので、直通先は記載しない ---><br />
※特急「踊り子」「スーパービュー踊り子」の隣の停車駅は「[[踊り子 (列車)]]」を参照。<br />
<br />
; 東日本旅客鉄道<br />
: {{Color|#f68b1e|■}}東海道線<br />
:: {{Color|#f68b1e|■}}快速「アクティー」・{{Color|#18a629|■}}普通<br />
::: [[湯河原駅]] - '''熱海駅'''<br />
: {{Color|#f68b1e|■}}伊東線<br />
::: '''熱海駅''' - [[来宮駅]]<br />
; 東海旅客鉄道<br />
: {{Color|mediumblue|■}}東海道新幹線<br />
::: [[小田原駅]] - '''熱海駅''' - [[三島駅]]<br />
: {{Color|#f68b1e|■}}東海道本線<br />
::: '''熱海駅''' - [[函南駅]]<br />
<br />
== 出典 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 関連項目 ==<br />
* [[日本の鉄道駅一覧]]<br />
* [[東海道線 (JR東日本)]] - JR東日本が管轄する東海道本線の運転系統についてはこちらを参照されたい。<br />
* [[東海道線 (静岡地区)]] - JR東海が管轄する東海道本線の運転系統についてはこちらを参照されたい。<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{commonscat|Atami Station}}<br />
* [http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=64 JR東日本 熱海駅]<br />
* [http://railway.jr-central.co.jp/station-guide/shinkansen/atami/ JR東海 熱海駅]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あたみ}}<br />
[[Category:日本の鉄道駅 あ|たみ]]<br />
[[Category:静岡県の鉄道駅]]<br />
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]<br />
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]<br />
[[Category:東海旅客鉄道の鉄道駅]]<br />
[[Category:東海道線 (JR東日本)]]<br />
[[Category:東海道線 (JR東海)]]<br />
[[Category:伊東線]]<br />
[[Category:東海道新幹線]]<br />
[[Category:熱海市|あたみえき]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%86%B1%E6%B5%B7%E5%B8%82&diff=356373
熱海市
2018-06-27T07:10:48Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''熱海市'''(あたみし)は、[[静岡県]]の[[市]]。静岡県の最東部に位置し、[[神奈川県]]と接する。観光地として有名。<br />
<br />
== 地理 ==<br />
[[File:Port of Atami Shizuoka Aerial photograph.1976.jpg|thumb|290px|熱海市中心部の空中写真。平地はほとんどなく、市街地や住宅地は傾斜地に形成されている。<br/>1976年撮影の3枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]<br />
[[伊豆半島]]の東側付け根に位置し、[[相模灘]]に面する。市域内はほとんどが[[丘陵]]であり、[[別荘]]地や住宅なども高台の上に立つ所が多く、道路も勾配の急な坂が多い。海岸線もすぐに丘となる所がほとんどだが、中心部は埋め立てで砂浜海岸などが形成されている。<br />
<br />
同じ相模灘に面する[[伊東市]]・[[湯河原町]]方面とは海岸に沿って地理的連続性を有するが、[[沼津市]]・[[函南町]]方面とは[[駿河湾]]水系との[[分水界|分水嶺]]となる急峻な丹那山地によって隔てられている。<br />
<br />
なお、相模灘にある[[初島]]も市域内となっている。<br />
<br />
== 歴史 ==<br />
[[File:Atami c1900.jpg|thumb|1900年前後の熱海]]<br />
* [[1937年]][[4月10日]] [[田方郡]][[熱海町 (静岡県)|熱海町]]・[[多賀村 (静岡県)|多賀村]]が合併し市制施行<ref name="yamaguchi-geographical-dictionary-1980-10">[[山口恵一郎]] 『日本地名辞典 市町村編』 [[東京堂出版]]、1980年10月。ISBN 978-4490101355</ref>。<br />
* [[1950年]] [[国際観光文化都市]]指定。<br />
<br />
古くからの湯治の地であり、地名は「阿多美」であったが、海から熱い湯が湧き出ていたことから「熱海」とされた。1604年には[[徳川家康]]も来湯している。<br />
<br />
鉄道省熱海線(現在のJR[[東海道本線]])開通以降、[[首都圏 (日本)|首都圏]]からの保養客が押し寄せ一大保養地になった。かつては新婚旅行や職場旅行の定番(行き先)であり市の中心地東海岸町などには大型ホテル・旅館が数多ひしめいていた。<br />
<br />
[[1990年代]]以降[[サラリーマン|社員]]旅行の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽化し転業も多い。一方で、[[2000年代]]に入り温泉を引いた[[リゾートマンション]]が増加している。<br />
<br />
[[2006年]]、熱海市長は財政危機宣言を発している。ただ、[[財政力指数]]が1を上回る[[地方交付税]]自体不交付でもあるため富裕団体ともいえ、一連の発表は各方面に影響を与えた。理由として基金の取り崩しによる黒字であり、基金が底をつく可能性が高いためである。[[基礎的財政収支|プライマリーバランス]]では事実上赤字財政である。<br />
<br />
しかし近年の[[原油]]高騰に伴って自動車の利用が控えられる傾向にある中で、[[都心]]の近くにあり、鉄道交通の便のよさから離れた客足が戻ってくる傾向にある(逆に自動車利用者を意識した観光地では観光客が減少しているという)。<br />
<br />
=== 奥座敷としての熱海 ===<br />
熱海が一大保養地として発展を遂げたのは熱海線の開通後であるが、保養地としての歴史は[[豆相人車鉄道]]開通前にまで遡り、明治初期ごろには既に政財界の要人が保養や会談のため多く訪れていた<ref>移住・交流推進機構 [http://www.iju-join.jp/prefectures/shizuoka/222003/ 静岡県熱海市からのお知らせ]</ref><ref>[http://www.atami123.com/histry.html 熱海ヒストリー] ルオ伊豆山マスターズプレイス</ref>。さらに、温泉と風光に恵まれ、冬暖かく、夏涼しい熱海は、明治の頃、前述のように、多くの政治家や政府高官が保養や会談のため来遊したので、東京との連絡が非常に多く、そのため東京~熱海間に電話回線が敷かれ明治時代に開通し、「市外通話発祥の地」<ref>[http://hamadayori.com/hass-col/comm/sigaidenwa.htm 発祥の地コレクション/市外通話発祥の地]</ref>としても有名である。<br />
<br />
現在はかつてほどの盛況は見受けられないものの、東京方面からの保養地・日帰り温泉地として相応の賑わいを保っており、いわゆる[[奥座敷]]とされている。<br />
また、主要駅の[[熱海駅]]は静岡県内の[[東海道本線]]の駅では唯一、[[JR東日本]]の管轄となっており、熱海駅発の東海道本線のほとんどの列車が[[東京駅]]まで乗り入れている。<br />
このような事情から、静岡県内であっても[[中部地方]]ではなく[[関東地方]]の一部として扱われることがある。<br />
また、神奈川県西部地域及び熱海市、計11市町の行政と観光関連事業者・団体が連携して滞在型の観光地づくりを目指す「箱根・湯河原・熱海・あしがら観光圏」<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p362199.html 箱根・湯河原・熱海・あしがら観光圏]</ref>が、2010年4月28日、観光圏整備法により国に認定された。<br />
<br />
== 産業 ==<br />
観光を中心とした産業が主軸で、平成17年度の国勢調査では次のような結果が出ている。<br />
* [[第1次産業]]に従事する者 : 1.7%<br />
* [[第2次産業]]に従事する者 : 12%<br />
*: そのうち67%が建設業に従事<br />
* [[第3次産業]]に従事する者 : 85%<br />
*: そのうち30%が飲食店や宿泊業に従事<br />
<br />
== 人口 ==<br />
熱海市は全国平均と比べて少子高齢化が進んでいる。人口は減少傾向である。<br />
{{人口統計|code=22205|name=熱海市}}<br />
<br />
== 行政 ==<br />
=== 市長 ===<br />
* 市長:[[齊藤栄]](2006年9月就任。3期目)<br />
<br />
=== 歴代市長 ===<br />
* 樋口修次(1937年7月25日 - 1943年3月31日)<br />
* 水谷良雄(1943年5月6日 - 1945年9月25日)<br />
* 鶴見憲(1945年10月4日 -1947年4月1日)<br />
* 岸衛(1947年4月6日 - 1948年7月12日)<br />
* 宗秋月(1948年9月8日 - 1952年2月28日)<br />
* 山形文雄(1952年4月6日 - 1956年4月16日)<br />
* 小松勇次(1956年4月17日 - 1962年7月29日)<br />
* 市川止(1962年9月14日 - 1970年9月13日)<br />
* 川口美雄(1970年9月14日 - 1982年9月13日)<br />
* 内田滋(1982年9月14日 -1994年9月13日)<br />
* 川口市雄(1994年9月14日 - 2006年)<br />
* [[齊藤栄]](2006年9月 - 3期目)<br />
<br />
=== 別荘等所有税 ===<br />
* 古くからの観光地であり、全国でも珍しく[[法定外普通税|別荘税]]を徴収している。<br />
<br />
== 姉妹都市(親善都市) ==<br />
* {{Flagicon|JPN}} [[大分県]][[別府市]] - 1966年8月姉妹都市提携<br />
* {{Flagicon|ITA}} [[サンレーモ|サンレモ]]市([[イタリア|イタリア共和国]]) - 1976年11月姉妹都市提携<br />
* {{Flagicon|POR}} [[カスカイス]]市([[ポルトガル|ポルトガル共和国]]) - 1990年7月姉妹都市提携<br />
* {{Flagicon|CHN}} [[珠海市]]([[中華人民共和国]]) - 2004年7月友好都市提携<br />
<br />
== 教育 ==<br />
=== 専門学校 ===<br />
* [[国際観光専門学校]]<br />
<br />
=== 高等学校 ===<br />
* [[静岡県立熱海高等学校]]<br />
<br />
=== 中学校 ===<br />
* 熱海市立熱海中学校<br />
* 熱海市立小嵐中学校(2013年熱海中学校と統合)<br />
* [[熱海市立多賀中学校]]<br />
* 熱海市立泉中学校<br />
* 熱海市立初島中学校<br />
<br />
=== 小学校 ===<br />
* 熱海市立伊豆山小学校<br />
* 熱海市立桃山小学校<br />
* 熱海市立第一小学校<br />
* 熱海市立第二小学校<br />
* 熱海市立多賀小学校<br />
* 熱海市立網代小学校<br />
* 熱海市立泉小学校<br />
* 熱海市立初島小学校<br />
<br />
=== 幼稚園 ===<br />
* 熱海市立網代幼稚園<br />
* 熱海市立伊豆山幼稚園<br />
* 熱海市立泉幼稚園<br />
* 熱海市立上多賀幼稚園<br />
* 熱海市立多賀幼稚園<br />
* 熱海市立緑ガ丘幼稚園<br />
<br />
== 交通 ==<br />
=== 鉄道 ===<br />
[[ファイル:Atami Station exterior.jpg|thumb|240px|中心駅である[[熱海駅]]]]<br />
[[東海旅客鉄道]](JR東海)<br />
* [[東海道新幹線]]<br />
** - 熱海駅 -<br />
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />
* [[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]<br />
** - 熱海駅 - 来宮信号所<br />
* [[伊東線]]<br />
** 熱海駅 - [[来宮駅]] - [[伊豆多賀駅]] - [[網代駅]] -<br />
* 中心となる駅:'''[[熱海駅]]'''<br />
<br />
現在、JR東日本の東海道本線は熱海の先の来宮信号場までで、この先の[[丹那トンネル]]よりJR東海の管内となる。信号場では客扱い、乗務員の交代が出来ないため、どちらも熱海駅で行われる。これにより熱海駅を境に[[横浜駅|横浜]]・[[東京駅|東京]]方面と[[沼津駅|沼津]]・[[静岡駅|静岡]]方面の在来線運行の起点となっており、熱海駅発着の列車は多い。また[[伊豆急行線]]の普通列車も熱海駅まで乗り入れており、同様に[[伊豆急下田駅|下田]]方面への起点ともなっている。<br />
<br />
過去には東海道本線(当時の熱海線:[[国府津駅|国府津]] - 熱海)が開業する前に、[[人車軌道]]・[[軽便鉄道]]として[[熱海鉄道|豆相人車鉄道&rarr;熱海鉄道]]が[[1895年]] - [[1923年]]の間存在した。また[[モノレール#戦前のモノレール|日本遊覧飛行鉄道]]という[[伊東市]]までを結ぶ[[モノレール]]の敷設計画も[[戦前]]に存在し、戦後も熱海モノレールが計画され、当時の運輸省から免許が出されたが諸般の事情で工事ができず、結局幻のモノレールとなった。<br />
<br />
=== バス ===<br />
* [[伊豆東海バス]]<br />
* [[伊豆箱根バス]]<br />
* [[湯〜遊〜バス]]<br />
<br />
=== 道路 ===<br />
* 有料道路<br />
** [[熱海ビーチライン]] - 290円(普通車)<br />
** [[伊豆スカイライン]] [[玄岳インターチェンジ|玄岳IC]]<br />
* 一般国道<br />
** [[国道135号]]<br />
* 主要地方道<br />
** [[静岡県道11号熱海函南線]]<br />
** [[静岡県道20号熱海箱根峠線]]<br />
** [[静岡県道80号熱海大仁線]]<br />
<br />
=== 航路 ===<br />
* 熱海港 - [[初島]]<br />
* 熱海港 - [[伊豆大島]](東京都[[大島町]])<br />
<br />
== 経済・交流 ==<br />
神奈川や東京の影響が大きく、いつの[[国勢調査]]においても、静岡県で唯一、[[東京を中心とする地域の定義一覧|関東大都市圏]]に含まれている<ref>[http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001032945&cycode=0 平成22年国勢調査 地域一覧,大都市圏・都市圏]を参照。</ref>。<br />
また、就業地別では、[[湯河原町]]・[[小田原市]]といった神奈川県西部方面への流動が、丹那トンネル以西の県東地区への流動を上回っているとともに、東京都区部・[[横浜市]]への流動が[[静岡市]]への流動を圧倒的に上回っている<ref>2010年国勢調査結果による。</ref>。<br />
<br />
== 市町村合併 ==<br />
現在のところ、どの隣接市町村とも合併は実施されていないが、[[平成の大合併]]の際には、市民アンケートの結果<ref>[http://www.iso-ya.com/topic/kennai/tp021014.html わたしもひとこと・合併通信:市民アンケートは県境を越えた合併を希望]を参照。</ref>を受けて、交流の深い湯河原町との県を越えた合併を検討した経緯があり、新聞などで報道され注目を浴びた。<br />
<br />
== 未来都市計画フラックスタウン・熱海 ==<br />
[[東芝エレベータ]]は、2020年をめどに新しい交通システム〝シェアリングビークル〟を生かした「フラックスタウン・熱海」という未来都市計画を立案している。 [http://www.toshiba-elevator.co.jp/elv/newsnavi/volumes/31/news/special03.html][http://www.tatsumatsuda.com/jp/archives/2010/01/flux_town_atami.html]<br />
<br />
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==<br />
[[ファイル:Atami view from ocean.jpg|right|thumb|240px|係留されたヨットとホテル群]]<br />
[[ファイル:熱海01.JPG|right|thumb|240px|海水浴客でにぎわうサンビーチ]]<br />
[[ファイル:熱海市長浜海水浴場.jpg|right|thumb|240px|上多賀の長浜海水浴場]]<br />
===神社===<br />
* [[来宮神社]] - [[御神木]]の「大楠」([[天然記念物]])は樹齢2,000年超で、日本で2番目の大きさ。<br />
* [[湯前神社]]<br />
* [[伊豆山神社]]<br />
===博物館===<br />
* [[MOA美術館]]<br />
* [[熱海秘宝館]]<br />
* [[澤田政廣]]記念美術館<br />
* [[熱海渓谷館]]<br />
* [[風雲文庫]]<br />
===その他の建築物===<br />
* [[起雲閣]] - 鉄道相・農商相・農相・[[内田信也]]、実業家[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]別邸、その後旅館として使われていた。<br />
*[[双柿舎]]<br />
* [[熱海城]]<br />
===公園・海水浴場===<br />
* [[熱海梅園]]<br />
* [[熱海サンビーチ]]<br />
* [[長浜海水浴場]]<br />
* [[姫の沢公園]]<br />
<br />
===温泉===<br />
* [[熱海温泉]]<br />
** 熱海七湯 - 大湯・野中の湯・佐治郎の湯・風呂の湯・清左右衛門の湯・河原湯・小沢の湯<br />
* [[伊豆山温泉]] - 走り湯<br />
* [[伊豆湯河原温泉]] - 北東端の泉地区と[[湯河原温泉]]が一体になって形成されている。<br />
* [[網代温泉]]<br />
===祭事===<br />
* こがし祭り - 来宮神社の例大祭。例年7月(14)・15・16日に行われる。<br />
===イベント===<br />
*[[熱海湯らっくすマラソン大会]]<ref>[http://www.asahi.com/national/update2/0913/TKY201209130338.html 津波心配だから…熱海市、沿岸のマラソン大会中止]朝日新聞2012年9月13日</ref><br />
* [[熱海海上花火大会]] - 年に十数回行われる[[花火大会]]<br />
* 熱海芸妓見番(土・日 11:00~華の舞開催)<br />
* 熱海ラブプラス現象(まつり)キャンペーン - 2010年7月10日から同年8月31日まで<ref name="mainiti20100710">「[http://mantan-web.jp/2010/07/10/20100710dog00m200048000c.html ラブプラス+ :熱海で“彼女”と旅行気分 「まつり」式典に市長も、温泉まんじゅうは完売]」 [[毎日新聞]]、2010年7月10日。</ref><ref name="asahi20100814">「もっと知りたい!――仮想彼女と熱海でお泊まり」『朝日新聞』2010年8月14日付朝刊、第13版、第29面。</ref><br />
===その他===<br />
* [[お宮の松]]<br />
*[[興亜観音]]<br />
* [[大湯間歇泉]]<br />
* [[錦ヶ浦]]<br />
* [[初島]]・[[初島灯台]]<br />
<br />
== マスメディア ==<br />
*[[伊豆急ケーブルネットワーク]](IKC)<br />
*[[エフエム熱海湯河原|FM熱海湯河原]](FM79.6MHz)<br />
<br />
== 熱海市を舞台とする作品 ==<br />
[[ファイル:Kanichi&omiya.JPG|thumb|right|200px|熱海サンビーチにある『[[金色夜叉]]』の貫一とお宮の銅像]]<br />
<br />
=== 文学 ===<br />
* 『[[金色夜叉]]』:[[尾崎紅葉]](1897年 - 1902年、未完)<br />
* 『[[光を感ずる子]]』:[[若林つや]]、(1927年『[[女人芸術]]』12月号)<br />
* 『[[黄色い風土]]』:[[松本清張]](1959年 - 60年)<br />
* 『[[熱海殺人事件]]』 : [[つかこうへい]] (1986) <br />
*『[[熱海・湯河原殺人事件]]』:[[西村京太郎]](2003)<br />
<br />
=== 映画 ===<br />
* 『[[女 (映画)|女]]』 [[木下恵介]]監督(1948年)<br />
* 『[[婚約指輪 (映画)|婚約指輪]]』 木下恵介監督(1950年)<br />
* 『[[雪夫人絵図]]』 [[溝口健二]]監督(1950年)<br />
* 『[[伊豆物語]]』(1951年)<br />
* 『[[東京物語]]』 [[小津安二郎]]監督(1953年)<br />
* 『[[日本の悲劇]]』 [[木下恵介]]監督(1953年)<br />
* 『[[四十八歳の抵抗]]』(1956年)<br />
* 『[[熱海ブルース]]』(1962年)<br />
* 『[[キングコング対ゴジラ]]』(1962年)<br />
* 『[[大巨獣ガッパ]]』(1967年)<br />
* 『[[熱海殺人事件]]』(1986年)<br />
* 『[[おもひでぽろぽろ]]』(1991年)<br />
* 『[[クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード]]』(2003年)<br />
* 『[[任侠ヘルパー]]』(2012年)<br />
* 『[[THE NEXT GENERATION -パトレイバー-]]』(2014年)<br />
<br />
=== 漫画 ===<br />
* 『[[あまんちゅ!]]』([[天野こずえ]] 2008年 - )<br />
* 『[[隊務スリップ]]』([[新田たつお]] 2014年 - )<br />
<br />
=== テレビアニメーション ===<br />
* 『[[真マジンガー 衝撃! Z編]]』(2009年)<br />
<br />
=== テレビドラマ ===<br />
近年ではテレビドラマに限らず、バラエティ番組等でも熱海を紹介する番組が増加傾向にある。<br />
<br />
* [[テレビ朝日]]系『[[熱海の捜査官]]』(2010年)<br />
* [[フジテレビ]]系『[[ストロベリーナイト (テレビドラマ)|ストロベリーナイト]]』第7 - 8話「悪しき実」(2012年)<br />
* [[フジテレビ]]系『[[結婚しない]]』第1話(2012年)<br />
<br />
=== 楽曲 ===<br />
* 『熱海の夜』:[[箱崎晋一朗]](1969年)<br />
* 『SUN BEACH』:[[TORUMAN]](2006年)<br />
<br />
=== DVD ===<br />
* 『[[星間特捜アサルトマン]]』(2004年)<br />
<br />
=== ゲームソフト ===<br />
* 『[[ラブプラス+]]』(2010年)<ref name="mainiti20100710"/><ref name="asahi20100814"/><br />
* 『[[第2次スーパーロボット大戦Z|第2次スーパーロボット大戦Z 破界篇]]』(2011年)<ref>『真マジンガー 衝撃! Z編』の原作再現。</ref><br />
<br />
== 熱海に関連する有名人 ==<br />
=== 熱海出身者 ===<br />
* [[内田光子]]([[ピアニスト]])<br />
* [[澤田政廣]]([[彫刻家]])<br />
* [[砂塚秀夫]]([[俳優]])<br />
* [[大野雄二]]([[アレンジャー]]、[[作曲家]]、ジャズピアニスト)実家が[[ホテル大野屋]]<br />
* [[二宮さよ子]](女優)<br />
* [[早見優]]([[タレント]]、[[歌手]])<br />
* [[今井由香]]([[声優]])<br />
* [[本多小百合]](元[[中京テレビ放送|中京テレビ]][[アナウンサー]])<br />
* [[水谷智佳]]([[プロボクサー]])<br />
* [[島田晴香]]([[AKB48]])<br />
<br />
=== 熱海にゆかりのある人物 ===<br />
* [[押井守]]([[映画監督]]、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[杉本苑子]]([[小説家]]、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[橋田壽賀子]]([[脚本家]]、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[伊藤和典]](脚本家、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[泉アキ]]([[歌手]]・[[タレント]]、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[泉ピン子]]([[俳優|女優]]・[[漫談家]]、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[NOKKO]](歌手、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[新田たつお]]([[漫画家]]、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[池畑慎之介☆]](ピーター、歌手・[[俳優]]、別荘がある)<br />
* [[石立鉄男]](俳優、1999年から死去まで居住した)<br />
* [[鈴木真仁]](声優、[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]出身だが幼少期から高校卒業まで熱海で過ごしたため、「熱海出身」と紹介される事もある)<br />
* [[福永令三]](小説家、家があり、生活の拠点としている)<br />
* [[尾崎紅葉]](小説家、[[起雲閣]]にて[[金色夜叉]]を執筆)<br />
* [[谷崎潤一郎]](小説家、関西在住時代より別荘を所有しており、昭和30年代には居住)<br />
* [[志賀直哉]](小説家、昭和20年代に居住)<br />
* [[太宰治]](小説家、村上旅館に滞在中に起きた通称「熱海事件」をきっかけとして[[走れメロス]]を執筆)<br />
* [[徳富蘇峰]] ([[ジャーナリスト]]、[[歴史家]]、占領期以降の晩年を伊豆山に居住)<br />
* [[真鍋八千代]] ([[実業家]]、[[熱海後楽園ホテル|熱海後楽園]]を設立。別荘を所有しており、毎週末、熱海で過ごしていた)<br />
<br />
== 郵便番号 ==<br />
[[郵便番号]]は以下の通りである。[[2006年]][[10月1日]]に変更。<br />
* [[熱海郵便局]]:413-00xx、413-85xx、413-86xx、413-87xx、413-01xx<br />
<br />
== 電話について ==<br />
市外局番は大部分が'''0557'''(伊東MA)だが、奥湯河原に接する泉は'''0465'''(小田原MA)で、[[東日本電信電話|NTT東日本]]の管内になる。<br />
<br />
== 脚注 ==<br />
{{脚注ヘルプ}}<br />
{{Reflist}}<br />
<br />
== 外部リンク ==<br />
{{Commonscat|Atami, Shizuoka}}<br />
* {{Official|http://www.city.atami.shizuoka.jp/}}<br />
* {{Twitter|atamicity}}<br />
* [http://www.ataminews.gr.jp/ あたみニュース(熱海市観光協会)]<br />
* [http://hobby-design.com/ume/index.html 熱海梅園ナビ]<br />
<br />
{{静岡県の自治体}}<br />
{{デフォルトソート:あたみし}}<br />
[[Category:静岡県の市町村]]<br />
[[Category:熱海市|*]]<br />
{{Wikipedia/Ja}}</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E6%86%B2&diff=356360
鶴見憲
2018-06-27T00:56:49Z
<p>パラボナ: /* 家族 */</p>
<hr />
<div>'''鶴見 憲'''(つるみ けん、[[1895年]][[4月7日]] - [[1984年]][[8月18日]])は、昭和時代戦前の日本の[[外交官]]。[[太平洋戦争]]開戦前の1940年11月から在[[シンガポール]]日本総領事を務め、宣伝工作・民族工作を積極的に推進したことで知られる。[[日本軍]]による占領時期に[[マラッカ州]]の州長官を務め、戦後の1945年-1947年に[[熱海市]]長を務めた。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
1895年4月7日、[[群馬県]][[多野郡]][[新町 (群馬県)|新町]]で、官営・[[新町紡績所]]の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の7男(10人きょうだいの末子)として生まれる{{Sfn|石塚|2010|pp=17,20,23。父の先祖は岡山県[[備中松山城]]の家老・[[鶴見内蔵助]]。母は大阪の商人の娘で、名前は「古都」とも。}}。一家は1895年9月に東京・[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]、1896年1月に父の郷里・[[岡山]]、1899年夏に[[名古屋]]舎人町26へ転居{{Sfn|石塚|2010|pp=20-22}}。<br />
<br />
1900年4月、鶴見が5歳のときに母・琴子が病死{{Sfn|石塚|2010|p=23}}。一家は1901年に[[小田原市]]十字町4丁目へ転居したが、この頃父・良憲の事業は行き詰まり、家計は次第に逼迫していった{{Sfn|石塚|2010|p=24}}。<br />
<br />
1906年に父・良憲が小田原で死去{{Sfn|石塚|2010|pp=11,12}}。鶴見は東京へ転居し、伯父の[[本尾敬三郎|本尾家]]と長姉・敏子の嫁ぎ先の[[廣田理太郎|廣田家]]の支援を受け、学業を継続した{{Sfn|石塚|2010|pp=12,31}}。<br />
<br />
[[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]から[[東京大学|東大]]に進学{{Sfn|石塚|2010|p=107}}。1921年に同大学政治学科を卒業{{Sfn|人事興信所|1941}}、外交官となる{{Sfn|石塚|2010|p=97}}。<br />
<br />
=== 外交官 ===<br />
1922年に[[天津]]総領事館へ赴任{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|石塚|2010|p=97は、1924年に大学を卒業し外交官となった、としている。}}。[[ロサンゼルス]]領事館、[[ワシントンD.C.]]の大使館勤務を経て東京の[[外務省]]本省へ帰任{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
*1925年秋には、米国を遊説旅行中の兄・[[鶴見祐輔|祐輔]]がロサンゼルス領事館の鶴見夫妻を訪問した{{Sfn|石塚|2010|p=103}}。<br />
<br />
1932年、[[満州]]に赴任、駐[[満州国]]日本大使館1等書記官{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
(いつ?)在米国[[オレゴン州]][[ポートランド]]日本領事{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
1937年、在[[ハルピン]]日本総領事{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
(いつ?)在[[上海]]日本大使館1等書記官{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03}}。<br />
<br />
1940年11月、在[[シンガポール]]日本総領事{{Sfn|人事興信所|1941|loc=1940年10月付での転任としている。}}{{Sfn|The Straits Times|1940-11-03|loc= 同月2日に上海からシンガポールに着任。}}。シンガポール日本総領事時代には、[[外務機密費]]を支出して、[[同盟通信|同盟]]記者[[飼手誉四]]を通じて{{仮リンク|マレー青年同盟|ms|Kesatuan Melayu Muda}}の[[イブラヒム・ヤコブ]]らにマレー語新聞『{{仮リンク|ワルタ・マラユ|ms|Warta Malaya}}』(のちの『[[マライ・ニュース]]』)を買収させ反英運動を助長するなど、[[大東亜共栄圏]]の理念の宣伝工作とインドネシア独立に関する民族工作を積極的に展開した{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|篠崎|1981|pp=173-174}}{{Sfn|鶴見|1986|p=292。同書によると、鶴見は息子の[[鶴見良行]]に対して、新聞社買収資金の支出は記憶になく、担当したのは総領事館員を装っていた陸軍少佐だろう、と述べていた。{{Harvtxt|篠崎|1981|p=174}}には、鶴見が総領事の時代に陸軍参謀・[[鹿子島隆]]少佐が総領事館に入ってきた旨の記述がある。}}。<br />
=== 司政長官 ===<br />
1942年3月7日 [[マラッカ州]][[マライ軍政監部|長官]](-1944年5月5日){{Sfn|フォーラム|1998|p=664}}{{Sfn|中沢|1981|p=372}}{{Sfn|石塚|2010|p=221は、1944年頃に司政長官に就任した、としている。}}。<br />
<br />
1945年4月、空襲で東京の自宅が焼損{{Sfn|石塚|2010|p=226}}。<br />
<br />
=== 戦後 ===<br />
1945年10月、[[熱海市]]長に就任し、1947年4月まで在任{{Sfn|石塚|2010|pp=224,229}}。<br />
<br />
1984年8月18日に死去<ref>日外アソシエーツ株式会社『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ、2012年、823頁</ref>。<br />
<br />
== 家族 ==<br />
妻・英子は[[藤田譲]]の長女{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
* [[鶴見祐輔]]は兄{{Sfn|石塚|2010|p=17}}。<br />
* [[鶴見定雄]]は兄{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
* [[鶴見良行]]は子{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}<br />
* [[鶴見俊輔]]は[[親戚]]{{先編集者|パラボナ}}。<br />
<br />
== 趣味 ==<br />
*運動・読書{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
== 付録 ==<br />
=== 関連文献 ===<br />
*北岡(1975) 北岡寿逸『友情の人‐鶴見祐輔先生』私家版、1975年<br />
*東京朝日新聞(1942) 「シンガポール座談会(1~8)」『東京朝日新聞』1942.1.24-1942.2.1、[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501986&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア諸国(10-024)]<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|石塚|year=2010}} 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、2010年、ISBN 9784876019120<br />
*{{Aya|フォーラム|year=1998}} 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 : 1941~45年 : インタビュー記録』龍溪書舎〈南方軍政関係史料33〉、1998年、ISBN 4844794809<br />
*{{Aya|鶴見|year=1986}} 鶴見良行『マラッカ物語』時事通信社、1986年、ISBN 4788781247<br />
*{{Aya|篠崎|year=1981}} 篠崎護(述)「篠崎護氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、1981年、{{NCID|BN1303760X}}、pp.169-213<br />
*{{Aya|中沢|year=1981}} 中沢欽一郎(述)「中沢欽一郎氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室|title = 『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、1981年、{{NCID|BN1303760X}}、pp.365-385<br />
*{{Aya|人事興信所|year=1941}} 『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年、ツ55頁、{{NDLJP|1070514/212}}。<br />
*{{Aya|The Straits Times|date=1940-11-03}} '[http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19401103-1.1.9.aspx New Japanese Consul Arrives - MR. K. TSURUMI ON JAPAN'S AIM],' The Straits Times、p.9、1940年11月3日、2017年9月18日閲覧。<br />
<br />
{{在シンガポール日本大使|1940年-1942年|総領事}}<br />
{{熱海市長}}<br />
{{デフォルトソート:つるみ けん}}<br />
[[Category:戦前日本の外交官]]<br />
[[Category:熱海市長]]<br />
[[Category:陸軍司政官]]<br />
[[Category:日星関係]]<br />
[[Category:日本占領下のマレーシア]]<br />
[[Category:鶴見家|けん]]<br />
[[Category:群馬県出身の人物]]<br />
[[Category:1895年生]]<br />
[[Category:1984年没]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%87%A6%E6%9A%91&diff=356359
処暑
2018-06-27T00:33:32Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''処暑'''(しょしょ)は[[二十四節気]]の一つ。[[西暦]]の[[8月23日]]頃。暑さが終わる、という意味らしい。<br />
<br />
[[台風]]襲来の特異日とされている<ref>「生活たのしみ隊」の本</ref>。{{先編集者|パラボナ}}<br />
<br />
2017年8月23日には[[日本]]に台風は来なかった<ref>[http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/position_table/table2017.html 気象庁ホーム > 各種データ・資料 > 過去の台風資料 > 台風位置表 > 2017年] 2017年8月26日閲覧</ref>。<br />
<br />
== 参考文献 ==<br />
*生活たのしみ隊(編)伊藤美樹(絵)『くらし歳時記』成美堂出版、2016年、p.119。<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist}}<br />
{{DEFAULTSORT:しよしよ}}<br />
[[Category:二十四節気]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%AD%E5%85%83&diff=356358
中元
2018-06-27T00:29:56Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''中元'''(ちゅうげん)とは[[旧暦]]の[[7月15日]]を指す[[言葉]]である。<br />
<br />
[[中国]]の三元論で旧暦の1月15日を上元、7月15日を中元、10月15日を下元といい、祭日としたことに由来する。<br />
<br />
中元は罪の許される日とされ、[[盂蘭盆会]]と結びついて先祖を供養する行事となった。<br />
<br />
[[江戸時代]]に、お盆への供物のお礼に贈り物をする習慣が発展し、贈り物自体を'''お中元'''と呼ぶようになった。<br />
<br />
==参考文献==<br />
*生活たのしみ隊(編)伊藤美樹(絵)『くらし歳時記』成美堂出版、2016年。</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%B4%87&diff=356343
徳川義崇
2018-06-26T11:23:50Z
<p>パラボナ: 根拠のない中傷</p>
<hr />
<div>'''徳川 義崇'''(とくがわ よしたか、[[1961年]]8月 - )は、[[尾張徳川家]]第22代当主。[[徳川黎明会]]会長、[[八雲産業]]代表取締役社長、[[徳川美術館]]館長。他にも様々な肩書きがある。2006年以前からWeb上に本人作とみられるホームページが存在し、2007年に[[Wikipedia]]に内容が転載され、「プログラマー」として祀り上げられた。2014年6月の徳川美術館のセクハラ事件では、セクハラをした大手都市銀行OBの男性管理部長を注意した美術館の男性副館長に退職勧奨をした。<br />
<br />
== 生い立ち ==<br />
*[[1961年]]8月生まれ、東京都出身。[[学習院大学]]経済学部卒。<ref>[http://conference.vrsj.org/ac2014/program/sp_session/ 第19回日本バーチャルリアリティ学会大会 特別講演情報] </ref><br />
<br />
== 尾張徳川家当主 ==<br />
*2015年4月17日に、[[静岡市]][[駿河区]]の[[久能山東照宮]]で[[徳川家康]]の400回忌を記念して行なわれた「久能山東照宮 御鎮座400年大祭」の祭礼・御例祭(ごれいさい)に、[[尾張徳川家]]22代当主として、[[徳川宗家]]18代当主・[[徳川恒孝]]や[[水戸徳川家]]15代当主・[[徳川斉正]]らと共に出席した<ref>[http://archive.fo/2016.12.15-155325/http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/ieyasu400/43672.html 静岡新聞 2015年4月17日「家康没後400年 子孫ら集い御例祭」]</ref>。<br />
<br />
== 徳川黎明会会長 ==<br />
*1993年5月に徳川黎明会役員(理事)に就任<ref>徳川黎明会(2007)p.4</ref>。<br />
*2005年12月に、前会長の父・[[徳川義宣]]の死去に伴い、会長に選任される<ref>[http://www.tokugawa.or.jp/009.02-goaisatsu.htm 徳川黎明会 > 2005年12月21日 故徳川義宣会長の葬礼行事ならびに財団新会長・新美術館長就任に関するごあいさつ(ごあいさつ)]</ref>。<br />
*2014年6月に、徳川美術館で複数の女性職員が黎明会から派遣されてきた大手都市銀行OBの男性管理部長による[[セクハラ]]・[[パワハラ]]が放置されているとして、[[名古屋地裁]]に対し、黎明会の使用者責任を問う労働審判を申し立てた際には、[[中日新聞]]の取材に対して「詳細を把握していないので現時点でコメントできない。」などと応答。管理部長にハラスメント行為をやめるよう注意したとされる美術館の男性副館長に対し、徳川黎明会として退職勧奨をした。<ref>『中日新聞』2014年6月12日、『東京新聞』2014年6月12日朝刊</ref><br />
**退職勧奨を受けた副館長によると「会長は職員を守ろうと、できる限りの努力をしていただいた(ママ)。だが管理部長らは会長の指示や判断を軽視し、圧力をかけることもあった」。<ref>『中日新聞』2014年6月12日</ref><br />
*2016年当時、徳川黎明会会長、徳川美術館館長・八雲産業(株)代表取締役を務めている<ref>[http://www.tokugawa.or.jp/image02-PDF/H28-yakuin.pdf 徳川黎明会トップページ > 役員一覧 > 公益財団法人 徳川黎明会 役員及評議員名簿(役員等名簿) </ref>。<br />
<br />
== 徳川美術館館長 ==<br />
*2005年12月に前館長・徳川義宣の死去に伴い、館長に就任<ref>[http://www.tokugawa.or.jp/009.02-goaisatsu.htm 徳川黎明会 > 2005年12月21日 故徳川義宣会長の葬礼行事ならびに財団新会長・新美術館長就任に関するごあいさつ(ごあいさつ)]</ref>。<br />
*2011年11月に、[[名古屋国際センター]]で[[NTTコミュニケーションズ]]とNTTコミュニケーションズ・パートナー連絡協議会(NCOP)の共催で開かれた『ソリューションセミナー「経営戦略へのICT活用」』に徳川美術館長として出席し、「お殿さまはスーパーICTエンジニア」と題してNTTコミュニケーションズ・先端IP アーキテクチャセンタ担当部長で[[北陸先端科学技術大学院大学]]客員教授の[[宮川晋]]と対談した<ref>[https://www.anw.jp/20111128.html 株式会社アーツネットウェーブ > 会社の沿革(平成23年~平成24年)> 平成23年11月 NTTコミュニケーションズ主催・NCOP共催ソリューションセミナー「経営戦略へのICT活用」(於:名古屋国際センター)に「スマートフォンでVPN」を出展いたしました。]</ref>。<br />
*2013年頃から、上記の男性管理部長による[[セクハラ]]・[[パワハラ]]を放置。職員を守ろうとできる限りの努力をしたが、管理部長に軽視され、圧力をかけられたという。黎明会会長として、管理部長を注意した[[四辻秀紀]]副館長に退職勧奨をした。<ref>『中日新聞』2014年6月12日、『東京新聞』2014年6月12日朝刊</ref><br />
*2015年に、徳川美術館の[[インバウンド消費|インバウンド]]対策[[解説動画|PR動画]]([https://vimeo.com/134527557 徳川美術館「Experience the real spirit of Japan」日本語字幕版]<ref>製作は[http://simpleshow.com/jp/ simpleshow]</ref>)に登場する、本人をモデルとするキャラクター・「トクさん」が「ミュージアムキャラクターアワード2015」において1位に選ばれたことが喧伝された<ref>[http://news.infoseek.co.jp/article/dreamnews_0000121623/ Infoseek 楽天 NEWS トップ > 新着ニュース > 経済 > プレスリリース > 徳川美術館キャラクター「トクさん」のミュージアムキャラクターアワード2015受賞式と記念グッズ「トクさんマグネット」プレゼントキャンペーンのお知らせ]</ref><ref>[http://www.museum.or.jp/modules/topNews/index.php?page=article&storyid=3570 インターネットミュージアム > ニュース > 徳川美術館「トクさん」、ミュージアムキャラ日本一で表彰 ── 名古屋]</ref>。<br />
<br />
== 高名なプログラマー? ==<br />
*2006年以前からWeb上に「徳川義崇のページ」と題した自称「素人が作ったデザインが最低」の管理放棄されたとみられるホームページが存在していた<ref>[http://www.tokugawa.org/~toku/index.html 徳川義崇のページ]</ref>。<br />
*2007年6月、Wikipedia日本語版に、「徳川義崇」の記事が作成された<ref>[https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%B4%87&oldid=13351302 Wikipedia版「徳川義崇」初版] </ref>。内容は上記の「徳川義崇のページ」の転載とみられる。二次資料における言及が確認されたわけではないので、Wikipediaの方針によれば特筆性はないはずだが、自己言及を鵜呑みにするウィキペディアンによって「プログラマー」と定義された。<br />
*2011年11月に名古屋国際センターで行われた対談(上述)の案内状では、「実はコンピュータプログラミングおよびインターネットの高い技術をもつエンジニアとしても御高名」と紹介された<ref>[https://www.anw.jp/pdf/20111128NTTCom.pdf 経営戦略へのICT活用法]</ref>。<br />
*2014年9月に[[名古屋大学]]東山キャンパスで開催された第19回[[日本バーチャルリアリティ学会|バーチャルリアリティ学会]]のプログラムでは、尾張徳川家伝来の収蔵品の散逸防止や文化財の保存の努力、IT技術の研究に携わった経験を踏まえて伝統文化の保存に関し今後のIT技術の開発・研究に期待することについて特別講演予定とされており、「略歴」として「(…)名古屋市博物館協議会 委員、全国美術館会議 副会長、(公財)日本博物館協会 理事。 名古屋大学 参与。''' IT分野にも興味を持っている'''。 」と紹介されている<ref>[http://conference.vrsj.org/ac2014/program/sp_session/ 第19回日本バーチャルリアリティ学会大会 特別講演情報] </ref>。(興味を持っている程度。)<br />
*2016年当時、「[[WIDEプロジェクト]]」のメンバーとされている<ref>[http://www.wide.ad.jp/about/member-j.shtml WIDE メンバー ]</ref>。<br />
<br />
== 著作物等 ==<br />
* 吉村伸・徳川義崇・村井純「学術ネットワーク間接続利用の変遷」情報処理学会『[http://id.nii.ac.jp/1001/00036025/ 情報処理学会研究報告 マルチメディア通信と分散処理]』no.53, 1991年7月, pp.1-8 <ref>[http://www.wide.ad.jp/project/document/papers/wide-paper-1995.pdf WIDEプロジェクト メンバーによる書籍・論文等のリスト 1995年以前]</ref><br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
*徳川黎明会(2007)徳川黎明会総務部・徳川美術館・徳川林政史研究所「[http://www.tokugawa.or.jp/image02-PDF/H18-houkoku.pdf 平成18年度 事業報告書]」徳川黎明会総務部・徳川美術館・徳川林政史研究所、2007年3月。<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:とくかわ よしたか}}<br />
[[Category:尾張徳川氏|よしたか]]<br />
[[Category:学習院大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京都出身の人物]]<br />
[[Category:1961年生]]<br />
[[Category:存命人物]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%87%8E%E5%91%82%E6%99%AF%E7%BE%A9&diff=356342
野呂景義
2018-06-26T11:19:27Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''野呂 景義'''(のろ かげよし、[[1854年]]-[[1923年]][[9月8日]])は、[[明治]]期日本の技術者。[[東京大学]]理学部で採鉱冶金学を専攻し、卒業後も冶金学の研究を継続。東京大学で教鞭を取りながら[[農商務省]]の技師となり、近代的な鉄冶金技術の開発・普及に貢献した。[[東京市水道鉄管事件]]に関与して帝国大学教授・農商務省技師を解任されたが、その後も技術者として活動し、[[日本鉄鋼協会]]の初代会長となった。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
<br />
安政元年(1854年)9月、名古屋藩士・[[野呂伊三郎]]の次男として[[名古屋]]に生まれる{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。<br />
<br />
1882年(明治15年)、[[東京大学]]理学部採鉱冶金学科を卒業{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。<br />
<br />
卒業後も大学で{{仮リンク|クルト・ネットー|en|Curt Netto}}の下で冶金学を研究{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。<br />
<br />
1884年頃、[[徳川義礼]]、[[吉田知行]]、[[堀鉞之丞]]らと[[英国]]へ留学{{Sfn|長沼|2015|pp=84-85}}。1885年-1886年にかけて、[[ロンドン]]の{{仮リンク|ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン|label=ユニバーシティ・カレッジ|en|University College London}}に在学した。その後、ドイツの{{仮リンク|フライブルク鉱山大学|en|Freiberg University of Mining and Technology}}にも在学。{{Sfn|長沼|2015|p=87 - {{Harvtxt|井上|2006|p=46}}による。}}<br />
<br />
帰国後、東京大学准教授を経て、帝国大学工科大学の教授兼[[農商務省]]技師となる{{Sfn|長沼|2015|pp=84,87 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)および{{Harvtxt|井上|2006|p=46}}による。}}。<br />
<br />
1890年(明治23年)、[[古河]]の[[深川骸炭製造所]]で[[コークス]]配合技術を開発{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。<br />
<br />
1891年(明治24年)、『鉄業調』を起草し、製鉄所建設論を主張。官営製鉄所の建設計画に参加する{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。<br />
<br />
1892年(明治25年)、[[釜石鉱山]][[田中製鉄所]]の顧問となる。25トン高炉のコークス操業を成功に導き、日本の製鉄技術の基礎を築いた。{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}<br />
<br />
(いつ?)[[東京市水道鉄管事件]]に関与し、帝国大学教授・農商務省技師を解任され、製鉄所建設からも離れる。{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}<br />
<br />
その後も技術者として活動。[[日本鉄鋼協会]]の発足時には、初代会長となった。{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}<br />
<br />
1923年(大正12年)9月8日没、享年70{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。<br />
<br />
== 著書 ==<br />
*野呂景義「鉄業調」『秘書類纂 第14巻』秘書類纂刊行会、1933年-1936年、198頁、{{NDLJP|1877097/294}}{{閉}}<br />
<br />
==付録==<br />
===関連文献===<br />
*飯田賢一『近代日本の技術と思想』東洋経済新報社、1974年、{{JPNO|69005774}}<br />
*{{Aya|井上|year=2006}} 井上琢智『黎明期日本の経済思想 - イギリス留学生・お雇い外国人・経済学の制度化』〈関西学院大学経済学部研究叢書 第32編〉日本評論社、2006年、ISBN 978-4535555082<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|香山|year=2015}} [[香山里絵]]「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41<br />
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93<br />
<br />
{{デフォルトソート:のろ かけよし}}<br />
<br />
[[Category:尾張徳川氏]]<br />
[[Category:幕末尾張藩の人物]]<br />
[[Category:東京大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京大学の教員]]<br />
[[Category:愛知県出身の人物]]<br />
[[Category:1854年生]]<br />
[[Category:1923年没]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%90%89%E7%94%B0%E7%9F%A5%E8%A1%8C&diff=356341
吉田知行
2018-06-26T11:16:43Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''吉田 知行'''(よしだ ともつら/ともゆき、[[1844年]][[2月9日]]-[[1913年]][[5月22日]])とは、日本の武士である。幕末・[[明治]]期の[[尾張藩]]士、[[尾張徳川家]]の家職。同家の当主・[[徳川慶勝]]の命により[[北海道]]の開墾地を調査して遊楽部(のちの[[八雲町]])を選定し、1878年から開拓委員として現地で開墾に携わった。1883年に同家の家令となり、当主・[[徳川義礼]]とともに欧州へ留学。帰国後、八雲に西欧酪農を導入した。晩年は愛知郡[[長久手村]]で暮らした。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
天保14年12月21日(1844年2月9日)、名古屋で、尾張藩士の父・知紀と母・林氏の間に生まれる{{Sfn|都築|1917|p=351}}。<br />
<br />
1877年(明治10年)7月、[[尾張徳川家]]の当主・[[徳川慶勝]]により、北海道の開墾地選定のため調査に派遣され、約3ヶ月間踏査。この調査を受けて、尾張徳川家は、明治維新政府から開墾地として遊楽部(ユーラップ、胆振国山越郡山越内村字)の下付を受けた。{{Sfn|大石|1994|pp=98-99}}<br />
<br />
1878年7月、開拓委員として現地に派遣され、道路の開削や家屋の建築等を担当。同年11月に開墾地への移住が開始された。{{Sfn|大石|1994|pp=98-99}}<br />
<br />
1883年(明治16年)、尾張徳川家の家令となり、上京。開拓委員は[[海部昂蔵]]と交代した。{{Sfn|大石|1994|p=126 - 「八雲村徳川家農場沿革略」徳川林政史研究所所蔵『北海道八雲史料』による。}}<br />
<br />
1884年(明治17年)頃、[[徳川義礼]]、[[野呂景義]]、[[堀鉞之丞]]らと[[英国]]・[[ロンドン]]へ留学{{Sfn|長沼|2015|pp=84-85}}。3年間遊学した後、帰国{{Sfn|都築|1917|p=351}}。<br />
<br />
英国から帰国後、八雲に西洋酪農を導入した{{Sfn|長沼|2015|p=84 - {{Harvtxt|藤田|2010}}による。}}。<br />
<br />
1900年(明治33年)、退職し、吉田氏の旧領があった愛知郡[[長久手村]]岩作で暮らす{{Sfn|都築|1917|p=351}}。<br />
<br />
晩年、[[胃癌]]を患い、死去の前に本人の希望により北海道・八雲村に移る。1913年(大正2年)5月22日に同地で死去。享年71。墓は八雲村の常丹山(とこたんやま)の丘の上にある移住者の墓地に建てられた。墓誌は海部昂蔵の撰による。{{Sfn|都築|1917|p=351}}<br />
<br />
==付録==<br />
===関連文献===<br />
*合田一道「[http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20160328011190002.html 北の歴史 動いた瞬間 開拓使の古文書 愛知県氏族移住事件]」『朝日新聞』DIGITAL、2016年3月26日<br />
*{{Aya|藤田|year=2010}} 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」『徳川林政史研究所紀要』no.44、2010年3月<br />
*城山三郎『冬の派閥』新潮社、1982年、{{JPNO|82016419}}<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|香山|year=2015}} [[香山里絵]]「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41<br />
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93<br />
*{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563<br />
*{{Aya|都築|year=1917}} 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、{{NDLJP|955971}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:よした ともつら}}<br />
<br />
[[Category:尾張徳川氏]]<br />
[[Category:幕末尾張藩の人物]]<br />
[[Category:戦前北海道史の人物]]<br />
[[Category:愛知県出身の人物]]<br />
[[Category:1844年生]]<br />
[[Category:1913年没]]</div>
パラボナ
http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E4%BF%A1%E5%90%89&diff=356340
鈴木信吉
2018-06-26T11:15:19Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''鈴木 信吉'''(すずき しんきち、1860年頃-没年不詳)とは、日本の[[銀行家]]である。[[名古屋]]の[[尾張藩]]の旧臣の家に生まれる。1898年に[[愛知銀行 (東海銀行の前身)|愛知銀行]]に入行し、営業部長、査業部長、常務取締役を歴任。[[北海道]]における[[尾張徳川家]]の開墾事業や[[北海銀行]]の経営、[[愛知物産]]の経営再建などに携わった。1929年に尾張徳川家の[[家令]]となり、1931年の財団法人[[徳川黎明会|尾張徳川黎明会]]設立に尽力。[[第2次世界大戦]]後、[[財産税法|財産税]]の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎えた際に、東京都[[豊島区]][[目白]]の尾張徳川家本邸の賃貸物件化、[[八雲産業|八雲産業株式会社]]の設立などにより、2016年現在まで続く同家と財団の財務基盤を整備した。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
1860年頃<ref>{{Sfn|馬場|1925}}に「本年55歳」と記載がある。</ref>、[[名古屋]]の{{Sfn|馬場|1925}}、[[尾張藩]]の旧臣の家に生まれる{{Sfn|東海銀行|1944|p=263}}{{Sfn|馬場|1925}}。<br />
<br />
1898(明治31)年10月10日に[[愛知銀行 (東海銀行の前身)|愛知銀行]]に入行{{Sfn|香山|2016|p=121}}{{Sfn|東海銀行|1944|p=263}}。[[豊橋市|豊橋]]支店、[[津市|津]]支店を経て、本店検査役{{Sfn|東海銀行|1944|p=263}}。<br />
1911(明治44)年9月29日、営業部長{{Sfn|香山|2016|p=121}}{{Sfn|東海銀行|1944|p=263}}、1919(大正8)年1月22日、取締役・営業部長{{Sfn|香山|2016|p=121}}{{Sfn|東海銀行|1944|p=263}}。1920(大正9)年3月12日に査業部長に転じた{{Sfn|東海銀行|1944|p=263}}。<br />
<br />
愛知銀行時代は、尾張徳川家との関係から、北海道における同家の開墾事業や、[[北海銀行]]に関与{{Sfn|馬場|1925}}。[[祖父江重兵衛]]が経営に失敗した[[愛知物産]]の常務となり、経営を再建した{{Sfn|馬場|1925}}。<br />
<br />
1929(昭和4)年1月25日、常務取締役、同年4月8日、営業部監督嘱託{{Sfn|東海銀行|1944|p=263}}。同年7月26日、[[尾張徳川家]]の[[家令]]となるため、取締役を辞任{{Sfn|香山|2016|p=121}}{{Sfn|東海銀行|1944|pp=262-263}}。その後愛知銀行では、1941(昭和16)年6月<ref>同月、愛知銀行は[[名古屋銀行 (東海銀行の前身)|名古屋銀行]]、[[伊藤銀行]]と合併し[[東海銀行]]となった{{Harv|東海銀行|1944|pp=365-373}}</ref>まで監査役を務めた<ref>{{Harvtxt|香山|2016|p=121}}、{{Harvtxt|東海銀行|1944}}からの引用として。</ref>{{Sfn|東海銀行|1944|pp=262-263,343}}。<br />
<br />
尾張徳川家の家令となった後は、1931年の財団法人[[徳川黎明会|尾張徳川黎明会]]設立に尽力{{Sfn|香山|2016|p=121}}。<br />
<br />
第2次世界大戦後、[[財産税法|財産税]]の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎える中、東京都[[豊島区]][[目白]]の尾張徳川家本邸を賃貸物件化し、[[八雲産業|八雲産業株式会社]]を設立するなどして、2016年現在まで続く同財団の基盤を整備した{{Sfn|香山|2016|p=121}}。<br />
<br />
== 人物 ==<br />
{{Harvtxt|手島|1915}}では、当時の愛知銀行頭取・[[渡邊義郎]]が[[法律家]]然とした厳格な人物だったのに対し、鈴木は柔和な商人風の人物で、事を円満に運ぶことのできる調整役と評している。{{Harvtxt|馬場|1925}}では「温厚のうちにも何処か才走った人物」と評している。<br />
<br />
== 家族 ==<br />
長男は上海の某会社勤務で、秀才との評判があった{{Sfn|馬場|1925}}<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 関連文献 ===<br />
*鈴木信吉(著)大口全三郎(編)『尾張藩の勤王』大口全三郎、1927年、{{NDLJP|1091283}}{{閉}}<br />
*八代六郎(著)城山会(編)鈴木信吉(編)『八代海軍大将書翰集』尾張徳川黎明会、1941年、{{NDLJP|1058270}}{{閉}}<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
* {{Cite journal|和書|last= 香山 |year= 2016 |first= 里絵 |title= 『尾張徳川美術館』設計懸賞 |journal=金鯱叢書 |volume= 43 |pages= 103-131 |publisher= 徳川美術館 |date= 2016-03 |id= {{issn|2188-7594}} |url= http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/bcd297314498ffc33ee5c1ce05ca0657a85cb7b9.pdf |format= pdf |accessdate= 2016-10-03 |ref= harv }}<br />
* {{Cite book|和書|author= 東海銀行 |year= 1944 |title= 愛知銀行四十六年史 |publisher= 東海銀行 |date= 1944-03-23 |id= {{NDLJP|1061729}} |ref=harv}}<br />
* {{Cite book|和書|last= 馬場 |year= 1925 |first= 守次(籍生) |chapter= 鈴木信吉氏 |title= 続々 名古屋新百人物 |publisher= 珊々社 |date= 1925-04-01 |page= 58 |id= {{NDLJP|983167/39}} |ref=harv}}<br />
* {{Cite book|和書|last= 手島 |year= 1915 |first= 益雄 |chapter= 愛知銀行営業部長 鈴木信吉 |title= 名古屋百人物評論 続 |publisher= [[日本電報通信社]]名古屋支局 |date= 1915-08-05 |pages= 143-144 |id= {{NDLJP|954764/83}} |ref=harv}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:すすき しんきち}}<br />
[[Category:日本の銀行家]]<br />
[[Category:尾張徳川氏]]<br />
[[Category:1860年生]]<br />
[[Category:没年不明]]</div>
パラボナ
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岡本季正
2018-06-26T11:13:54Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''岡本 季正'''(おかもと すえまさ、[[1892年]][[8月16日]] – [[1967年]][[11月23日]])とは、昭和時代戦前-戦後の日本の[[外交官]]である。[[シンガポール]]総領事赴任後間もない1942年12月に[[太平洋戦争]]が開戦となり、英植民地当局によって[[インド]]の{{仮リンク|マスーリー|label=ムスリー|en|Mussoorie}}に抑留されたことで知られる。1942年に抑留者交換で解放され、そのまま駐[[スウェーデン]]公使となり1945年の終戦まで在任した。戦後、1952年に駐[[オランダ]]大使。退官後は[[日蘭協会]]会長などを務めた。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
1892年8月16日生まれ{{Sfn|人事興信所|1941|loc=は、明治25年(1892年)8月出生、としている。}}{{Sfn|講談社|2015}}。父・武左衛門の6男として生まれる{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
*{{Harvtxt|人事興信所|1941}}によると[[京都府]]出身。{{Harvtxt|外務省|1979}}によると、本籍は[[東京都]][[目黒区]]。<br />
<br />
1917年、[[東京大学|東京帝国大学]]法科政治学科卒{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|外務省|1979|loc=は、法学部卒、としている。}}。高等試験外交科に合格し{{Sfn|人事興信所|1941}}、1918年に[[外務省]]入省{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
1922年に分家した{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
<br />
外務局領事官補、外交官補、大使館3等書記官、外務事務官、大使館2等書記官、領事等を歴任{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
[[英国]]大使館、欧米局第一課、米国大使館、[[シアトル]]領事館勤務等を経て、外務書記官に就任{{Sfn|人事興信所|1941}}。1931年4月欧米局第2課長{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
1934年3月、大臣官房会計課長、1936年5月アメリカ局長{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
1937年4月[[上海]]総領事{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
1938年3月、駐英国大使館参事官{{Sfn|人事興信所|1941}}{{Sfn|峰|1995|pp=32-33,160-161}}{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
1941年10月[[シンガポール]]総領事{{Sfn|外務省|1979}}、同年12月5日に着任{{Sfn|峰|1995|pp=32-33,160-161}}。着任4日後の同月8日に[[太平洋戦争]]開戦により英[[海峡植民地]]当局に拘束され、シンガポールの[[チャンギ刑務所]]、[[スリランカ]]の[[コロンボ]]、[[インド]]の[[ボンベイ]]を経て[[ヒマラヤ]]中腹の{{仮リンク|マスーリー|label=ムスリー|en|Mussoorie}}に抑留される{{Sfn|峰|1995|pp=161-162}}。<br />
*{{Harvtxt|人事興信所|1941}}は、1940年10月に「退官す」と記している。<br />
<br />
1942年8月、抑留者交換のため解放され、ムスリーからボンベイを経て抑留者の交換が行われる[[ロレンソマルケス]]へ<ref>{{Harvtxt|峰|1995|pp=162-164}}。途中、{{仮リンク|プラーナ・キラー|en|Purana Qila}}の民間人抑留者収容所に立ち寄った(同)。</ref>。船中で、そのまま[[スウェーデン]]公使に赴任するよう命令を受ける{{Sfn|峰|1995|p=164}}。ロレンソマルケスで[[アメーバ赤痢]]により一時入院{{Sfn|峰|1995|p=164}}。<br />
<br />
1942年11月 特命全権公使としてスウェーデン国(兼[[デンマーク]]国)に駐剳し、終戦和平工作に従事{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
1952年10月 駐オランダ大使{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
1956年12月に退官{{Sfn|外務省|1979}}<ref>{{Harvtxt|峰|1995|p=164}}では1957年に退官した、としている。</ref>。退官後、1957年に日蘭協会会長<ref>[http://www.j-nls.org/about.html 日蘭協会 > 日蘭協会について > 協会概要 > 沿革] 2016年</ref>、[[日本ユネスコ国内委員会]]委員などを務めた{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
晩年は東京・[[目黒]]で過ごす{{Sfn|峰|1995|p=164}}。1967年11月23日死去、享年75{{Sfn|峰|1995|p=164}}{{Sfn|外務省|1979}}。<br />
<br />
== 家族 ==<br />
*兄・[[岡本武三]]{{Sfn|人事興信所|1941}}は駐[[イラン]]公使となった(出典?)。<br />
*弟・[[岡本愛祐]]{{Sfn|人事興信所|1941|p=オ222、{{NDLJP|1070509/434}}}}は[[参議院議員]]、[[帝室林野局]]長官を務めた(出典?)。<br />
妻・露子は伯爵・[[柳沢保承]]の義妹{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
*長女・初子、次女・冬子はともに1934年生まれ{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
<br />
== 趣味 ==<br />
*ゴルフ、釣魚{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
<br />
==演じた俳優==<br />
* [[青島健太]] - [[NHKハイビジョン]]特集「[[日本のいちばん長い夏]]」[[2010年]][[7月31日]]放送<br />
<br />
== 付録 ==<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|講談社|year=2015}} {{Kotobank|岡本季正|デジタル版 日本人名大辞典+Plus}} 2015年9月更新<br />
* {{Cite book|和書|last = 峰|year = 1995|first=敏朗|title = インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった|publisher = 朝日ソノラマ|id= ISBN 4257034386}}<br />
* {{Cite book|和書|last = 外務省|year = 1979|first=外交史料館日本外交史辞典編纂委員会 |title = 日本外交史辞典|publisher = 大蔵省印刷局 |id= {{JPNO|79017620}}|page=105}}<br />
*{{Aya|人事興信所|year=1941}} 『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年、オ227頁、{{NDLJP|1070509/436}}。<br />
<br />
{{在上海日本総領事|1937年-1938年}}<br />
{{在シンガポール日本大使|1942年|総領事}}<br />
{{在スウェーデン日本大使|1942年-1946年|公使}}<br />
{{在デンマーク日本大使|1942年-1945年|公使}}<br />
{{在ノルウェー日本大使|1942年-1945年|公使}}<br />
{{在オランダ日本大使|1952年-1956年}}<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:おかもと すえまさ}}<br />
[[Category:戦前日本の外交官]]<br />
[[Category:日星関係]]<br />
[[Category:日蘭関係]]<br />
[[Category:在オランダ日本大使]]<br />
[[Category:東京大学出身の人物]]<br />
[[Category:東京都区部出身の人物]]<br />
[[Category:京都府出身の人物]]<br />
[[Category:1892年生]]<br />
[[Category:1967年没]]</div>
パラボナ
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鶴見定雄
2018-06-25T10:48:19Z
<p>パラボナ: </p>
<hr />
<div>'''鶴見 定雄'''(つるみ さだお、[[1892年]]2月 - 没年不詳)は、昭和時代戦前の日本の軍人、実業家。<br />
<br />
== 経歴 ==<br />
1892年2月、父・[[鶴見良憲]]の四男として生まれる{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
<br />
[[陸軍士官学校]]を卒業{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
<br />
1939年、兄・[[鶴見祐輔|祐輔]]方から分家{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
<br />
1941年当時、[[延和金鉱]]および[[大元商事]]の取締役、[[大青山炭鉱]]の董事長、[[三善商会]]の社長をしていた{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
<br />
== 家族 ==<br />
妻・マツは[[桂井富之助]]の妹{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
* [[鶴見祐輔]]は兄{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
* [[鶴見憲]]は弟{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
== 趣味 ==<br />
*読書・ゴルフ{{Sfn|人事興信所|1941}}。<br />
== 付録 ==<br />
=== 関連文献 ===<br />
*{{Aya|石塚|year=2010}} 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、2010年、ISBN 9784876019120<br />
*{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192<br />
=== 脚注 ===<br />
{{Reflist|18em}}<br />
=== 参考文献 ===<br />
*{{Aya|人事興信所|year=1941}} 『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年、ツ55頁、{{NDLJP|1070514/212}}。<br />
<br />
{{People-stub}}<br />
{{デフォルトソート:つるみ さたお}}<br />
[[Category:戦前日本の実業家]]<br />
[[Category:戦前日本の軍人]]<br />
[[Category:鶴見家|さたお]]<br />
[[Category:群馬県出身の人物]]<br />
[[Category:1892年生]]<br />
[[Category:没年不明]]</div>
パラボナ
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田中館秀三
2018-06-25T10:46:40Z
<p>パラボナ: このほうがみやすいナリ</p>
<hr />
<div>'''田中館 秀三'''(たなかだて ひでぞう、[[1884年]][[6月11日]]-[[1951年]][[1月29日]])、旧姓で'''下斗米 秀三'''(しもとまい ひでぞう)は、日本の[[地理学者]]。[[火山学|火山]]・[[湖沼学]]、[[地質学]]、[[人文地理学]]、[[軍事地理学|兵要地誌]]など広範な分野で業績を残した。1908年に[[東京帝国大学]]を卒業後、[[東北帝国大学]]農科大学・[[北海道帝国大学]]で地質学の講師・助教授を務め、1910-1914年に[[イタリア]]で[[ヴェスヴィオ山]]の調査、1919-1920年に[[青島]]で鉱物資源などの兵要調査を行なった。1923年から東北帝国大学法文学部講師として[[地政学]]を担当。1942年2月の[[日本軍によるシンガポール占領]]直後に現地入りし、[[ラッフルズ博物館]]・[[シンガポール植物園|植物園]]の接収、資料の軍事活用を担当した。1943年の帰国後、[[立命館大学]]教授、東北帝国大学法文学部教授。1945年9月に[[大本営]]から[[兵要地図]]を譲り受け、東北大学など各地の大学に保管した。1948年から[[法政大学]]講師、翌年から同大学教授を務めた。<br />
== 経歴 ==<br />
=== 生い立ち ===<br />
1884年6月11日、[[岩手県]]二戸郡福岡町字横丁で、下斗米与八郎、たよの間に、6人きょうだいの5番目(3男)として生まれる。命名「秀二郎」。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
<br />
1897年、岩手県立[[盛岡中学校]]に入学。同級生に、[[野村胡堂|野村長一(胡堂)]]、[[久保田晴光]]、[[板垣征四郎]]、1学年上に[[金田一京助]]、[[小野寺直助]]、[[田子一民]]、[[郷古潔]]、[[及川古志郎]]、1学年下に[[石川啄木]]、[[伊藤圭一郎]]がいた。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
<br />
1902年3月、同校を卒業し、同年9月に[[京都]]の[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]に入学{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1905年9月、東京帝国大学理科大学地質学科に入学。当時の地質学科教授には[[小藤文次郎]]、[[神保小虎]]、[[横山又次郎]]、同級生には[[河野密]]、[[大湯正雄]]、[[出口雄三]]、[[小林儀一郎]]、[[村田析]]がいた。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
<br />
在学中に「秀三」と改名。また[[樺太]]を旅行した。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
<br />
1908年7月、同学科卒。卒業論文は神保小虎の指導による「樺太の琉化鉄鋼の研究」。卒業後に中国南部を旅行した。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
=== 東北帝国大学農科大学講師・助教授時代 ===<br />
1908年11月、[[札幌]]の東北帝国大学農科大学の講師となり、学部で岩石学・海洋学などの講義を担当{{Sfn|加藤|1998|pp=55-56}}{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
翌1909年にも東北帝国大学農科大学の学部で「岩石学」ないし「海洋学」の担当教官を務めた{{Sfn|湊|1982|pp=897-899}}。<br />
<br />
1909年9月、東北帝国大学農科大学水産学科教授、兼農科大学助教授{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1910年2月、文部省により、地理学及び海洋学研究のため、3カ年の予定で[[ドイツ|独]]・[[イギリス|英]]に派遣される{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。同年から、[[ナポリ]]でヴェスヴィオ火山の調査を行なう{{Sfn|土肥|2008|p=13}}。<br />
<br />
また赴任中に[[アルゼンチン]]で開催された[[汎アメリカ会議]]に出席した{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1914年には、ナポリで[[火山学]]を講じていた[[ジュゼッペ・デ・ロレンツォ]]の紹介により、ナポリの王立東洋学院([[ナポリ東洋大学]]の前身)の教師となる{{Sfn|土肥|2008|p=13}}。ナポリでは下斗米(しもとまい)の姓で知られていた{{Sfn|土肥|2008|p=13}}。<br />
<br />
1915年12月、日本に帰国{{Sfn|土肥|2008|p=13}}{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。[[田中館愛橘]]の娘・美稲子と結婚し、田中館家の養子となる{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256。下斗米家と田中館家は、養子縁組以前から親類関係にあった。また1914年発行の外国語論文で著者名が「下斗米(田中館)」となっていることから、婚姻に先んじて入籍していた可能性が指摘されている。}}{{Sfn|加藤|1998|pp=55-56は、1922年に養子になった、としている。}}。<br />
<br />
この頃、田中館愛橘の[[日本式ローマ字]]普及運動に協力し、『ローマ字の世界』にしばしば寄稿{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。妻との間に一女をもうけたが、その後離婚{{Sfn|荒俣|1991|p=236}}。離婚後も「田中館」の姓を用いた{{Sfn|荒俣|1991|p=236}}。<br />
<br />
1915,1917年に東北帝国大学農科大学の学部で講義を担当{{Sfn|湊|1982|pp=897-899}}。<br />
=== 北海道帝国大学農学部講師時代 ===<br />
1919年、北海道帝国大学農学部講師兼附属水産専門部講師{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
同年から2,3年の間、[[青島守備軍 (日本軍)#民政部|青島民政部]]に関係し、1922年に青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』を編じた{{Sfn|田中館|1944|pp=5-6}}。<br />
<br />
1922,1924,1926-1928年に北海道帝国大学農学部で地質学の講義を担当{{Sfn|湊|1982|pp=897-899}}。<br />
<br />
1922年、[[北海道庁]]の河湖水理調査嘱託となり、1924年に報告書{{Harv|田中館|1924}}を刊行{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256 は、1925年刊行としているが、国立国会図書館サーチによると1924・1925年刊本のデータがあり、「1915年12月」版は正誤表付きとなっているため、初版は1924年版のようである。}}。<br />
<br />
1922年、[[日本学術研究会議]]本部委員{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1923年4月、東北帝国大学法文学部講師となり、人文地理学(地政学)の講義を担当{{Sfn|荒俣|1991|pp=236,253-256。同書p.254では「法学部」としているが、同書p.236では「法文学部」としており、{{Harvtxt|加藤|1998|pp=55-56}}および{{Harvtxt|田中館|1934a|loc=表題・奥書}}は、1934年頃の肩書きを「東北帝国大学法文学部(経済地理学研究室)講師」としているため、「法文学部」とした。}}。<br />
<br />
1926年、日本学術研究会議の水理部主任となり、第3回[[汎太平洋学術会議]]に出席して講演{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。同年噴火した[[十勝岳]]、[[樽前山]]の噴火調査を行う{{Sfn|田中館|1926}}{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。[[スタンフォード大学]]の[[ベリー・ウィリス]]、[[八木貞助]]と[[フォッサマグナ]]を調査{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1927年、[[プラーグ]]の[[国際地球物理学会議]]、ローマの[[国際湖沼学会議]]に出席のため渡欧、[[イタリア王立ナポリ学士院]]の会員に推薦される{{Sfn|加藤|1998|pp=55-56}}{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
{{Harvtxt|荒俣|1991|pp=253-256}}は、1927年7月20日に北海道帝国大学農学部兼水産専門部の講師を解嘱になったとしているが、{{Harvtxt|湊|1982|pp=897-899}}によると1928年にも同大学で講義を担当している。<br />
<br />
=== 東北帝国大学法文学部講師時代 ===<br />
1928年、[[ギリシャ]]の[[サントリン山|サントリン火山]]を調査{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1929年、[[ジャワ]]で行なわれた第4回汎太平洋学術会議に出席して講演。[[世界動力工業会議]]に論文を発表。帰国後の同年8月に八木貞助と[[焼岳]]、[[浅間山]]を調査し、同年9月にジャワ滞在中に噴火した[[北海道駒ヶ岳]]を調査した。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
<br />
1930年、国際地球物理学連合総会、火山学会副会長に推薦され、1933年まで在任{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1931年、[[オランダ王立ジャワ自然科学協会]]会員に推薦される{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1932年、[[ブラジル]]へ出張、[[南米移民団]]と共に渡航する。その後、北米を旅行し、翌1933年1月に帰国。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
<br />
1933年、[[昭和三陸地震]]の津波被害の調査に着手、研究を[[山口弥一郎]]に託す{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1936年、[[学士院]]の援助により、[[マリアナ群島]]の火山を調査。同年、玉田秀子と再婚し、仙台市米ヶ袋下丁で暮らす。翌1937年に娘・多美子が誕生。{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
<br />
1939年、日本学術研究会議の水理学部長となり、1943年まで在任{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
=== 南方での兵要調査 ===<br />
1941年4月、仏印と[[雲南省]]の境界付近に賦存する[[燐灰石]]鉱床の調査・研究を行う。同年12月、東北帝国大学から学術研究(同年4月からの研究の継続)のため仏印出張を命じられる。{{Sfn|田中館|1944|p=3}}<br />
<br />
1942年1月12日『[[東京日日新聞]]』には、仏印への農業移民を提唱する談話が掲載された{{Sfn|田中館|1942-1-12}}。<br />
<br />
1942年2月中旬、[[ハノイ]]の[[南方軍総司令部]]で[[塚田攻|塚田]]参謀長から「シンガポール攻略後の資源調査」を現地で軍と打合せて実施するよう指示を受け、同月16日に[[サイゴン]]から日本軍占領直後のシンガポールに入る{{Sfn|田中館|1944|pp=序2,3-9}}。占領直後、昭南特別市長のような立場にあった[[豊田薫]]からの指示で、[[ラッフルズ博物館]]・[[シンガポール植物園|植物園]]の接収にあたり、同年8月末まで博物館長・植物園長のような立場にあった{{Sfn|田中館|1944|pp=24-27,50-53}}。<br />
<br />
1942年3月20日-4月15日にはジャワ、同年5月28日-6月14日にはスマトラ、同年6月26日-7月14日にはマライへ出張し研究機関や文化施設を巡回した{{Sfn|田中館|1944|pp=38-40,44,47-48,56}}。<br />
<br />
同年9月に[[徳川義親]]が昭南博物館長・植物園長となり、[[佐藤瞕]]が植物園長代理となった後も博物館での「資源調査」を支援していたが、同年11月中旬に日本に一時帰国し、翌1943年1月16日に再び昭南入りした後、同年2月に[[クアラ・ルンプール]]や[[タイピン]]の研究機関・博物館等の事務をし、2ヶ月ほど「軍の仕事」を手伝い、同年4月29日に日本に帰国した{{Sfn|田中館|1944|pp=50-53,76-80}}。このときの「資源調査」の成果と思しき稿に{{Harvtxt|田中館|1942a}}と{{Harvtxt|田中館|1942b}}がある。<br />
<br />
1943年8月、[[立命館大学]]教授となり、地理学の講義を担当{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1944年に著書『南方文化施設の接収』{{Harv|田中館|1944}}を刊行<ref>同書には、肩書きとして、外題・内題に「北大助教授 昭南島博物館長」、序文に「東北帝国大学法文学部」の記載があり、また奥付に職歴として「北大理学部助教授、東北大法文学部講師、昭南島博物館長、同植物園長」とある。{{Harvtxt|大石|1995|p=30}}によると、徳川義親への寄贈本の外題ないし内題の肩書きにはペン字で「元」と記してあったという。</ref>。<br />
<br />
戦中から戦後にかけて[[昭和新山]]の調査に関わり、命名を行った{{Sfn|土肥|2008|p=13}}。<br />
=== 戦後 ===<br />
1945年9月、大本営から[[外邦図]]などの兵要地図を譲り受け、東北大学など各地の大学に保管した{{Sfn|松岡|2010|p=要頁番号}}。<br />
<br />
同年10月、東北帝国大学教授、理学部地理学講座担当{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1948年に[[オスロ]]で開催された[[万国火山会議]]に昭和新山が隆起する様子を図示した[[ミマツダイヤグラム]]を提出した{{Sfn|左巻|2012|p=要頁番号}}。<br />
<br />
1946年3月、定年のため東北帝国大学を退職、理学部講師嘱託となる{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。[[GHQ]]顧問(経済科学局嘱託)に就任{{Sfn|荒俣|1991|pp=248,253-256}}。<br />
<br />
1948年4月に、法政大学講師となり、翌年4月に同校教授となる{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。<br />
<br />
1951年1月29日、東京の病院で[[胃癌]]のため死去、満66歳7ヵ月{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}。国際火山学会の会誌に追悼文が掲載された{{Sfn|荒俣|1991|pp= 253-256 |loc= Bulletin volcanologique vol.12 1952 pp.227-233}}。<br />
<br />
== 兵要地誌 ==<br />
=== 青島民政部時代の経験 ===<br />
田中館は、1919年から数年間、青島民政部に関与していたが、このとき同部はドイツ時代に作られた図書館を全部解散して、書籍を日本の各中等学校に数冊ずつ配布することを決定、また諸調査機関の書庫を解放して重要な文書を離散させていた{{Sfn|田中館|1944|p=5}}。<br />
<br />
このとき田中館は、図書館を廃止して図書を離散せしめるのは文化の破壊、ドイツに対する怨みを国民に植え付けることにもなる、として当時の[[秋山雅之介|秋山]]民政長官に反対を申し入れたが、お叱りを被っただけで、受け入れられなかった、という{{Sfn|田中館|1944|p=5}}。<br />
<br />
{{Harvtxt|田中館|1944|pp=5-6}}によると、青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』{{Harv|田中館|1922}}は、このとき田中館が現地の図書館や諸調査機関の書庫中にあった「重要書類」を参考にして、地下資源の調査資料としてまとめたものである。<br />
=== シンガポール占領後の資源調査 ===<br />
田中館は、シンガポール陥落前にシンガポール植物園の園長・副園長だったR.E.ホルタム、[[E.J.H.コーナー]]、市庁水産局長だったW.バートウイッスルら当時「敵性外国人」とされていた英国人を捕虜の身分で協力させ、1942年2月中旬から、「軍参謀」の許可を得て、コーナーとともに外出して市内の行政機関事務所や要人宅から図書や備品などを収集(掠奪)して博物館附属図書館に集め、整理・仕分け作業を行った{{Sfn|加藤|1998|pp=60-61}}{{Sfn|田中館|1944|pp=58-63}}。<br />
<br />
この資料収集(略奪)には、3月中旬に「或要務」を帯びて仏印・サイゴンから昭南博物館に出張して来た南方総軍獣医部の[[古賀忠道]]少尉や、3月26日にサイゴンから昭南入りした昆虫学者の[[江崎悌三]]・[[九州帝国大学]]教授、植物学者の[[本田正次]]東京帝国大学助教授、地質学の[[大塚弥之助]]・東京帝国大学助教授ら3人も参加し、田中館が3月20日から4月15日にかけてジャワ出張で不在の間も、作業は続けられた{{Sfn|加藤|1998|pp=60-61}}{{Sfn|田中館|1944|pp=40,65-66}}。<br />
<br />
略奪を行った事務所や個人宅の詳細は、{{Harvtxt|田中館|1944|pp=58-63,66-67,72}}に記載があり、また{{Harvtxt|加藤|1998|p=61}}によると、コーナーの回顧録の原著の付録に略奪を行った場所と内容の記録がある。<br />
<br />
{{Harvtxt|田中館|1944|pp=62-63}}は、1942年3月中に約4万の図書を集め、5月頃にもまだ図書を収集していた、としており、{{Harvtxt|加藤|1998|p=61}}によると、コーナーの原著には、活動により集められた資料は4万冊を超え、その後、倍の8万冊になったとの記載がある。<br />
<br />
集めた図書は博物館付属図書館で整理されたが、このうちの相当数が日本へ送られたとみられている。1946年3月に設置された占領軍の[[民間財産管理局]](CPC)は、1947年4月30日に指令第000.3号「シンガポールのラッフルズ博物館図書館より持ち去られた財物について」を発しており、図書の移入先となり、戦後図書の返還作業を行なった帝国図書館員の回想の中に「ラッフルズ」に送り返したものが「万という数」「数え切れない」ほどあった、との叙述がみられる{{Sfn|加藤|1998|pp=65-66}}。<br />
<br />
また田中館はジャワ・スマトラ・マレー各地を出張した際に各地の文化施設・研究機関を見て廻り、スマトラ島・[[メダン]]では学術研究機関が占領当時のまま放置されていたため、当時の軍政部長・[[黒川邦輔|黒川]]大佐に図書館設立の必要を説き、場所を決めて市内各所に散在していた図書約2万冊を集め、元[[アプロス農業研究所]]員のオランダ人・シュリーケを図書係にして図書を整理させ、整理作業中にシンガポールに戻ったが、後で「大変役に立った」と感謝され、却って恐縮した、としている{{Sfn|田中館|1944|pp=229-230}}。<br />
<br />
=== 大本営の兵要地図の譲受と保管 ===<br />
1945年9月に、東北大学理学部地理学講座の教授をしていたとき、東京・[[市ヶ谷]]にあって、閉鎖に向けて業務処理中だった大本営陸軍部を訪問し、旧知の間柄で、部下と共に執務にあたっていた[[渡辺正]]参謀に兵要地図の寄贈を求めた{{Sfn|松岡|2010|p=要頁番号}}。<br />
<br />
渡辺参謀の承諾を受け、同本部や神田の明治大学地下にあった参謀本部分室から大量の外邦図や国内の地形図を、応急整理の上、リヤカーで搬出。[[神保町]]の[[スズラン通り]]裏手にあった貸事務所の一室を借り、[[岡本次郎]]と[[三田亮一]]が参謀本部との間片道約4キロメートルを何度も往復して地図を運んだ。{{Sfn|松岡|2010|p=要頁番号}}<br />
<br />
地図は、[[仙台]]へ運ばれ、東北大学理学部地理学教室に収蔵されたほか、当時[[資源科学研究所]]地理部門主任と東京大学理学部地理学教室の助教授を兼務していた[[多田文男]]らにより、数ヶ所を経て[[大久保]]の資源科学研究所に収蔵されたものなど、複数の保管先に収蔵された。{{Sfn|松岡|2010|p=要頁番号}}<br />
<br />
== 評価 ==<br />
{{Harvtxt|徳川|1973|pp=186-187}}は、「田中館くんは不思議な人で、専門は何だかさっぱりわからない。なににでも食いつくが、学位論文などは出さない。親爺が著名な学者だったので、便乗して学者らしく振舞っていたとだけしか考えられない。」とし、また「学者は多く集まったが、だれも彼を信用していなかった」としながら、「こうはいうが、ぼくは彼を高く買っている。戦いのあと、博物館、図書館、試験所、研究所などの文化施設を押さえ、憲兵をつけて、破壊と掠奪から護ったのは田中館くんである。これこそ大きな功績といってよかろう。」と評している。<br />
<br />
徳川の田中館評に類した、田中館を「うさんくさい人物」で「経歴に嘘が多い」とする人物評は、{{Harvtxt|石井|1982}}にもみられる。<br />
{{Quotation|後でわかったことであるが、田中館教授の話は半分は作り話であった。彼は東北大の教授などではなく、講師にすぎなかったし、東京帝国大学教授田中館愛橘氏の娘婿であって、彼の義父は男爵ではなかった。(…)任官辞令書も紹介状も持たず、突然シンガポールに姿を現わした男が、一瞬のうちに自分で自分の存在を正当化し、占領直後の博物館長と植物園長として位置づけることに成功したのだ。|{{Harvnb|石井|1982|p=22}}}}<br />
<br />
同書の著者はコーナーとされているが、同書の「訳者あとがき」によれば、コーナーは編訳者とされている石井美樹子から提供された資料を基に英語で原稿を書き、日本語版は、石井が、コーナーの原稿を基にしながらも、「コーナーが書けなかったこと」や「羽根田博士や'''徳川家から提供された資料'''」を加えて執筆し、'''[[徳川義知]]ら[[尾張徳川家]]の関係者に取材して'''完成させたとされている{{Sfn|石井|1982|pp=202,207}}。つまり、実質的な著者は石井で、必ずしもコーナーの原著にない内容も含まれており、コーナーも石井も、尾張徳川家が発信した情報に基づいて著書を執筆している。<br />
<br />
このため、同書による「あの南の小さな島の片隅に、徳川義親マライ軍政監部最高顧問(…)を中心とする、奇妙な学者グループが出現していた…」{{Harv|石井|1982|pp=2-3}}「徳川元侯爵は、その2つの組織の長であった。彼が総長であったおかげで、シンガポールの教育文化施設と機関は戦争の混乱からまぬがれたのだという」{{Harv|石井|1982|pp=196-197}}などの徳川義親を「文化の庇護者」として礼賛するような評価は、戦後になってから尾張徳川家の周辺から発信された情報に依拠した評価として割引いて考えるべきであると思われ、またその田中館評も、尾張徳川家の見方を反映していることが想定される。<br />
<br />
このように徳川義親の周辺から田中館をうさんくさい人物として貶めるような情報が発信されるようになった契機として、田中館が著書『南方文化施設の接収』{{Harv|田中館|1944}}の中で、徳川義親の昭南植物園長、昭南博物館長就任について、徳川は気紛れで就任したお飾りだった、と受け取れるような書き方をし、更に同書を徳川に贈呈したことが影響していたように思われる。<br />
{{Quotation|もうこゝまで育て上ぐれば従2位勲3等植物学専攻理学士徳川義親侯は植物園長となっても少しも困難はない、ことに佐藤瞕氏が代理として執務して居る以上戦禍の中に拾ひ上げた捨児を御委せするのに何の心配もない、(…)|田中館秀三、昭南植物園の事務引継ぎについて|{{Sfn|田中館|1944|pp=52-53}}}}<br />
<br />
{{Quotation|然し侯爵を招聘するに適当した室がない。そこで先ず元図書館主事室をマーケース・ルームと名づけ、館に没収しおきたる家具中最も美麗なるものゝみにて飾った。そして近く侯爵の秘書として日本より来昭さるゝ妙齢の2嬢も図書館員とすることとし、その席をもマーケース・ルームの侯爵の傍に設けた。(…)其室には候の好まるゝ書を並べ毎日候の御来館を願上げたところ、8月より毎週1,2度来館され、「こゝへ来て勉強しよう。」と云はるゝに至った。そして8月28日になって、「私は博物館、植物園長をやります。」とのことであった。|田中館秀三、徳川義親の昭南博物館長就任について|{{Sfn|田中館|1944|pp=76-77}}}}<br />
<br />
など、徳川に失礼な内容のように思うが、田中館はこの著書を徳川に贈呈し、これに対して徳川は、<br />
{{Quotation|(田中館は)精神異常者であって、知人は誰も相手にしなかった。著書として残ると記事となって、すべての人々は甚だ迷惑である。記事は全部、彼の夢想したことで事実ではない。軍の嘱託でも何でもない。戦争のどさくさに乗じて戦地の各場をまわり、自称嘱託にすぎない。戦地は順序も秩序も厳しいもので、自由に人の任免は出来ないのである。私の博物館長になった理由など彼は全々知らず彼は自分の手柄のやうに書いてあるが全々のでたらめである。此位全部捏造であることも珍しい。併しこれは人を騙さうとしたのではなく夢想した記事といった方がよい。悪意のものではないと思ふ。|徳川義親、{{Harvtxt|田中館|1944}}読後の所感|{{Sfn|大石|1995|pp=30-31。出典は、徳川義親「田中館秀三『南方文化施設の接収』に対する評」(昭和19年)とされているが、私家本ないし日記からの引用と思われる。}}}}<br />
<br />
と田中館とその著書の内容を酷評している。それ以前にも何か因縁があったのかもしれないが、徳川は田中館の著書にある、自身に対する評価に腹を立てていた、とも考えられるだろう。<br />
<br />
また、コーナーの回想録は、昭南博物館時代の同僚だったバートウィッスルと関阿根の日記に依拠して書かれたとされているが、2人の日記は、1942年9月頃に徳川の指示で書き始められたものとされているため{{Sfn|石井|1982|pp=5,198}}、占領当初から同年8月頃までの時期に関する記録があったかは疑問で、前記のように石井が資料の提供を受けていた尾張徳川家は田中館の著書を受贈されており、また叙述内容が類似していることから、{{Harvtxt|石井|1982}}には明記されていないが、コーナーも石井も、占領当初の時期の出来事に関しては、{{Harvtxt|田中館|1944}}の記録を参考にしていたと考えられる。ただ2書を対比してみると、石井は田中館の記述に忠実なわけではなく、かなり内容を書き直している。<br />
{| class="wikitable" <br />
|+田中館のシンガポール入りの経緯に関する記述の比較<br />
|- <br />
! {{Harvtxt|石井|1982|p=24}} !! {{Harvtxt|田中館|1944|pp=3-5}}<br />
|- style="vertical-align:top"<br />
| 1946年(昭和21年)、田中館教授は東京の連合軍司令部に1つの報告書を提出した。1942年から43年にかけての東南アジアでの教授の業績を報告したものであった。教授はその写しを私に送ってくれた。しかし彼の記した概要は必ずしも事実と一致していない。日付にも間違いがある。報告書によると、1942年初め、教授は東北帝国大学から派遣されて仏領インドシナにいた。目的は燐鉱石鉱床を研究することであった。2月にサイゴンの南方軍総司令部から召集され、鉱物調査のためマラヤへ行った。そして2月15日より、報酬なしの少尉待遇で軍に雇われたという。私が教授に市庁舎ではじめて会い、植物園と博物館の保護を嘆願したあの日、教授は、とっさにある使命感を感じ取り、マラヤへきた本来の目的を私に隠して、私の持ちこんだ問題に乗り換えたのであった。 || 昭和16年(1941年)12月、余は東北帝国大学より学術研究のため仏印に出張を命ぜられた。(…)2月9日、南方軍総司令部へ出頭したが、2月1日(10日か)朝、軍首脳部の方々と会談するの機会を与へられた。(…)其機会に於て私は塚田参謀長にシンガポール攻略後の資源調査につき、次の如き意見を述べた。塚田閣下は現地に乗こみ、軍と打合せてやって貰ひたいとのことであった。(中略。以前の青島占領の際の経験から)此度シンガポール占領の際には先ず重要図書及諸種の書類を接収確保し、資源調査及その他の調査にこれを参考し、更に其上に新しい調査を進めねばならぬ。これ等の図書、文書はシンガポールでは私の見た範囲ではラッフルズ博物館及図書館にあり、一部は植物園にある。こゝを先づ戦禍の中から救出さねばならぬ。<br />
<br />
2月15日、南方軍嘱託の辞令が出た、そして便あり次第戦地へ進出すべきを命ぜられた。私は今学術研究の為め南方に派遣された。然しかゝる非常時、国を挙げての総力戦に於ては戦争が第1であり、占領地建設は第2である、そして吾々専門の研究は第3であると信じてゐた。それ故私にとりては軍の命令は絶対である。然かも私の辞令には地質調査のためとある。然しすべての調査の基礎は文書の確保にある、しかもそれは私に与へられたる任務である。何の躊躇もなく此の命令を受けた。思ふにかゝる時あるに備へ、20年来私は植民地地理学、地政学などを日本で始めて帝国大学の法経学科に講義しつゝあったのである。今この時局に自分の職域に於て、第1線に派遣せらるゝことは学徒として無上の光栄である。<br />
|}<br />
<br />
{{Harvtxt|田中館|1944|p=3-5}}によれば、田中館のシンガポール入りは日本軍(参謀部)からの命令によるもので自分で勝手に現地入りしたわけではないし、田中館が事前に仏印入りしていたことからして、シンガポール占領直後に田中館が現地入りして博物館の接収、資料の収集(略奪)を行なうことは、占領前から予期されていた軍務だったとみるべきだと思われる。1942年2月の占領当初から同年8月に至るまで、田中館の肩書きは正式なものではなかったが、同時期に「昭南市長のような」立場にあった元外交官の豊田薫にしても、またその他の職員にしても、(シンガポール占領が予定されていた軍事行動だと見なされないように)正式な辞令は受けずに執務にあたっていたはずである。<br />
<br />
また職歴・肩書きに関していえば、田中館は欧州での調査や軍務に就いていた期間、大学における職歴が断絶していたため、{{Harvtxt|田中館|1944}}執筆当時は助教授であったかもしれないが、それ以前・以後には教授職に就いていたこともあるし、著書・論文の中には共編著も多いが、本人の著になるとみられるものも少なからずある。<br />
<br />
このため、田中館を「うさんくさい人物」とみる評価や、「文化の庇護者」で軍に対して反抗した人物とする評価は、徳川義親を「文化の庇護者」として美化しがちな尾張徳川家由来の情報宣伝による影響が大きく、{{Harvtxt|石井|1982}}はこの目的に沿って当時の記録を大幅に改竄・美化しており、実際のところ田中館は、軍からの命令に忠実に行動し、特殊ではあるが重要な軍務を指揮していた軍政の中心人物の1人だった、と考えた方がいいように思われる。<br />
<br />
== 著作物 ==<br />
* [https://ci.nii.ac.jp/search?author=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A4%A8%E7%A7%80%E4%B8%89&sortorder=1&type=1 CiNii論文検索(著者名:田中館秀三)]<br />
=== 単著 ===<br />
*{{Aya|田中館|year=1975}} 田中館秀三(著)田中館秀三業績刊行会(山口弥一郎ほか)(編)『田中舘秀三 - 業績と追憶』世界文庫、1975年、{{JPNO|73012802}}<br />
**田中館秀三業績刊行会(1975)「紹介 田中館秀三業績刊行会:"田中館秀三"」『地質学雑誌』vol.81 no.8、1975年8月、p.528、[http://ci.nii.ac.jp/naid/110003024712 NAID:110003024712]<br />
**矢沢(1976) 矢沢大二「書評と紹介 田中館秀三業績刊行会編:田中館秀三‐業績と追憶」『地学雑誌』vol.85 no.1、1976年、p.61、{{Doi|10.5026/jgeography.85.61}}<br />
*{{Aya|田中館|year=1944}} -『南方文化施設の接収』時代社、1944年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267166 NDLJP:1267166]<br />
*{{Aya|田中館|year=1942b}} -「マレー半島の鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第4巻 マレー・ビルマ』ダイヤモンド社、1942年、pp.137-170、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875557/76 NDLJP:1875557/76] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1942a}} -「フィリッピンの鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第2巻 海南島・フィリッピン・内南洋』ダイヤモンド社、1942年、pp.319-346、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875533/168 NDLJP:1875533/168] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1941b}} -(述)『仏印燐灰石の鉱床に就て』海外鉱業協会、1941年、{{JPNO|22217354}}<br />
**{{Aya|田中館|year=1941a}} -「仏印燐灰石の鉱床に就て - 仏印踏査」鉱業之日本社『鉱業評論』vol.12、no.8、1941年8月、pp.24-38、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1504744/20 NDLJP:1504744/20] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1937b}} -「地理学上より見たる東北地方の開拓」『地理学』vol.5 no.4 別刷、1937年<br />
*{{Aya|田中館|year=1934b}} -「北千島新火山島(武富島)噴出に関する収集資料」岩石鉱物鉱床学会『岩石鉱物鉱床学』vol.12 no.6 別刷、1934年。<br />
*{{Aya|田中館|year=1934a}} -(述)『東北地方の凶作に就て』東北帝国大学法文学部経済地理学研究室、1934年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1100396 NDLJP:1100396]<br />
*{{Aya|田中館|year=1931b}} -「湖沼学」『地理学講座 第11回』、地人書館、1931年、pp.129-206、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876798/82 NDLJP:1876798/82] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1931a}} -「海洋(3)」『地理学講座 第4回』、地人書館、1931年、pp.145-190、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876737/95 NDLJP:1876737/95] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1930b}} -「海洋(2)」『地理学講座 第2回』、地人書館、1930年、pp.171-232、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876720/102 NDLJP:1876720/102] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1930a}} -「海洋(1)」『地理学講座 第1回』、地人書館、1930年、pp.83-126、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876710/59 NDLJP:1876710/59] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1924}} -『北海道火山湖研究概報』北海道庁、1924年<br />
*{{Aya|下斗米|year=1911}} 下斗米秀三「回航日誌 ケープベルデ諸島及カナリー諸島の部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.18 no.208、1911年1月、{{Doi|10.5575/geosoc.18.16}}、pp.16-29<br />
*{{Aya|下斗米|year=1910c}} -「回航日誌 ブラジルの部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.207、1910年12月、{{Doi|10.5575/geosoc.17.207_508}}、pp.508-521<br />
*{{Aya|下斗米|year=1910b}} -「ケープ・タウンの四日間」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.204、1910年9月、{{Doi|10.5575/geosoc.17.389}}、pp.389-400<br />
*{{Aya|下斗米|year=1910a}} -「モウリチアス島見聞記」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.203、1910年8月、{{Doi|10.5575/geosoc.17.360}}、pp.360-366<br />
=== 共編著 ===<br />
*{{Aya|田中館・山口|year=1953}} 田中館秀三・山口弥一郎『東北地方の経済地理研究』古今書院、1953年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3017935 NDLJP:3017935] (閉)<br />
*{{Aya|田中館|year=1939}} -(編)「阿武隈川水路図」『文化』vol.6 no.7、1939年<br />
*{{Aya|田中館・山口|year=1938}} -・山口弥一郎「三陸地方の津浪に依る聚落移動」『斎藤報恩会時報』no.141-143 別刷、1938年9-11月<br />
*{{Aya|田中館|year=1937a}} -(編)『市町村名の読方及び市町村面積人口密度表』日本書房、1937年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219990 NDLJP:1219990] (閉)<br />
**地学雑誌(1937)「(書評)田中館秀三編 市町村名の読方及び市町村面積人口密度表」『地学雑誌』vol.49 no.12、1937年、{{Doi|10.5026/jgeography.49.600a}}、p.600<br />
*{{Aya|田中館・山口|year=1936}} -・山口弥一郎『東北地方に於ける出作及び出稼聚落の経済地理 : 福島県南会津郡桧枝岐村の出作,岩手県二戸郡田山村の出稼』『地理学評論』vol.12 no.3 別刷、pp.218-247、1936年3月<br />
*{{Aya|田中館|year=1934c}} -(編)『東北地方市町村別人口密度表:昭和5年』斎藤報恩会,1934年<br />
*{{Aya|田中館・猪鹿倉|year=1932}} -・猪鹿倉忠俊『日本の水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学7〉岩波書店、1932年、pp.15-53、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240716/10 NDLJP:1240716/10] (閉)<br />
*{{Aya|田中館・猪鹿倉|year=1932}} -・猪鹿倉忠俊『水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学5〉岩波書店、1932年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240674 NDLJP:1240674]<br />
*{{Aya|田中館|year=1926}} -(編)『十勝岳爆発概報 大正15年6月25日』田中館秀三、1926年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981513 NDLJP:981513]<br />
*{{Aya|田中館|year=1922}} -(編)『山東省ノ地質鉱山』青島守備軍民政部、1922年、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960500 NDLJP:960500]<br />
**神保(1923) 神保小虎「解題 田中館秀三 山東省の地質鉱山」日本地質学会『地質学雑誌』vol.30 no.355、1923年4月、pp.180-181、[http://ci.nii.ac.jp/naid/110003011645 NAID:110003011645]<br />
=== 新聞記事 ===<br />
*{{Aya|田中館|year=1942-1-12}} 「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503448&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 農業も仏印進駐だ 東北帝大講師 田中館秀三氏談]」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア経済事情(11-009) 『東京日日新聞』1942年1月12日 2017年9月12日閲覧<br />
== 外部リンク ==<br />
*[http://chiri.es.tohoku.ac.jp/~gaihozu/ 東北大学附属図書館/理学部地理学教室 外邦図デジタルアーカイブ]<br />
*[http://www.archives.go.jp/news/20180529.html 国立公文書館 > お知らせ > 外邦図(デジタル画像)の提供について] <br />
== 関連文献 ==<br />
*太田愛人『野村胡堂・あらえびすとその時代』教文館、2003年、pp.64-65<br />
*科学朝日『スキャンダルの科学史』朝日新聞社、1997年、p.293<br />
*岡山俊雄『日本の山地地形と氷河問題研究小史』古今書院、1974年,p.184<br />
*山口弥一郎(著)下斗米たよ(述)田中館愛橘・田中館秀三(解注)『二戸聞書』六人社、1943年10月<br />
**池田弥三郎(解説)『日本民俗誌大系 9巻』角川書店、1974年に収録<br />
*『市立函館図書館蔵 郷土資料分類目録 第4巻』市立函館図書館、1966年、p.597,598,603。<br />
*1942-1944年頃?『朝日新聞』に掲載された徳川義親の手記「昭南のこと」{{Sfn|荒俣|1991|pp=253-256}}<br />
*『水産界』no.400-411、1916年、p.762<br />
*内閣官房局『職員録』印刷局、1913年、p.30<br />
*日本工学会『明治工業史 第8巻』<br />
*日本地質学会『地質学雑誌』vol.15-16、1908年、p.52,154,159<br />
== 脚注 ==<br />
{{Reflist|18em}}<br />
== 参考文献 ==<br />
*田中館の著書等については[[#著作物]]を参照。<br />
*{{Aya|左巻|year=2012}} 左巻健男『面白くて眠れなくなる地学』PHP研究所、2012年、ISBN 978-4569809243<br />
*{{Aya|松岡|year=2010}} 松岡資明『日本の公文書: 開かれたアーカイブズが社会システムを支える』ポット出版、2010年、ISBN 978-4780801408<br />
*{{Aya|土肥|year=2008}} 土肥秀行「[https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=69148 下位春吉とナポリの文芸誌『ラ・ディアーナ』-下位春吉伝(上)]」(pdf) イタリア書房『イタリア図書』〈特集・日伊交渉(4)〉no.39、2008年10月、pp.11-17<br />
*{{Aya|加藤|year=1998}} 加藤一夫「日本の旧海外植民地と図書館‐東南アジアの図書館接収問題を中心に(未定稿)」国立国会図書館『参考書誌研究』no.49、1998年3月、{{Doi|10.11501/3051416}}、pp.50-70<br />
*{{Aya|大石|year=1995}} 大石勇「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51<br />
*{{Aya|荒俣|year=1991}} 荒俣宏「よみがえる徳川政治-徳川義親と昭南博物館」『大東亜科学綺譚』筑摩書房、1991年、ISBN 4480860312、pp.209-258<br />
*{{Aya|石井|year=1982}} E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、{{JPNO|82050003}}<br />
*{{Aya|湊|year=1982}} 湊正雄「[http://hdl.handle.net/2115/30044 北大における地質学と北海道]」北海道大学『北大百年史 通説』ぎょうせい、1982年、pp.893-907<br />
*{{Aya|徳川|year=1973}} 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、{{JPNO|73011083}}<br />
<br />
{{デフォルトソート:たなかたて ひてそう}}<br />
[[Category:日本の地理学者]]<br />
[[Category:岩手県出身の人物]]<br />
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